第十二話 《関東大外殻》の慟哭

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 その時突然、ズウウウウン―――と地響きのような音が轟いた。  その音があまりにも大きいためか、部屋の窓ガラスがびりびりと細かく振動する。驚いた黒猫が毛を逆立てて跳ね起き、深雪の膝から飛び降りた。  地震かと驚いて身構えるものの、揺れがないので違うようだ。ただ、地鳴りのような重低音が何度も周期的に聞こえてくる。しばらくじっとしていると、その奇妙な音は聞こえなくなってしまった。  深雪はベッドから立ち上がり、窓の外の様子を窺った。窓の外は真っ暗で、遠くに繁華街の光が見えるほかは、真っ白な雪がちらちらと舞うばかりだ。深雪は眉根を寄せてつぶやく。 「この音……最近になって時々聞こえてくるんだ。地震じゃないし、風の音でもない。どこかでビルが倒壊している音かと思ったけど違うみたいだし……いったい何なんだろう?」  するとエニグマは、さらりと答えた。 「あれは《関東大外殻》が(むせ)び泣いているのですよ」 「《関東大外殻》って……《壁》が? まさか……」 「嘘ではありません。以前も申し上げたではありませんか。あの《壁》は生きているのだと」 「……」  深雪は息を呑み、エニグマを見つめる。深雪は以前、エニグマに《関東大外殻》の正体について尋ねたことがあった。 (そうだ……地下通路を利用して《東京中華街》に潜入する際、ちょうど《関東大外殻》の真下になるあたりで、俺は黒い根に襲われた。でも一緒にいた雨宮マコトが助けてくれたおかげで、命からがら逃れることができたんだ……)  最初はただの黒い根だと思っていた。何かの植物の根が、地中深くまで張っているのだろうと。しかし、その根は奇妙な弾力性があり、触れると温かく、深雪の手のひらより高い熱を発していたのだ。ただの植物の根ならば絶対にありえない。  おまけに黒い根は意志を宿しているかのように動き出し、深雪を捕らえようと追ってきた。それが雨宮が《レナトゥス》を使った途端、黒い根はなぜか動きを止めたのだ。 (アニムスを打ち消す《レナトゥス》を使うと、黒い根は動きを止めた。つまり、あの黒い根にはアニムスが宿っているんだ。そして根と地上部分にある『本体』の材質が同じだと考えると、《関東大外殻》そのものがゴーストだってことになる……!)  雨宮や碓氷(うすい)も同じことを口にしていた。《関東大外殻》は普段は眠っているが、刺激を与えれば活動しはじめるのだと。それをあらかじめ知っていたからこそ、雨宮たちは深雪に決して黒い根に触るなと忠告したのだ。  深雪が引っかかるのは、雨宮と碓氷が《関東大外殻》の正体について何も言及(げんきゅう)しなかったことだ。「シリーズのナンバードなら誰でも教えられる情報、その中でも比較的に無難なものを選んで教えてやった」―――雨宮の言葉の裏を返せば、《関東大外殻》の秘密は無難な情報(もの)では無いのだろう。  《関東大外殻》の正体が生きたゴーストだとしても、あり得ない話ではない。 「もし《関東大外殻》がゴーストだとしても、はヒトの形からは完全に逸脱(いつだつ)している。あれは一体何なんだ? 本当にヒトと言えるのか……!?」  《関東大外殻》は赤黒い異様な姿をしているものの、普段はただの《壁》―――《監獄都市》を外界から切り離している建築物でしかない。いくら真実であろうとも、にわかには受け入れ難い。深雪が茫然(ぼうぜん)とつぶやくと、エニグマは「ニイ」と笑う。 「おや、何も一人とは限りませんよ」 「え……?」  それはどういう意味なのか。一瞬、ぽかんとしてしまう深雪だが、エニグマは何かを試すような口振りで告げた。 「《関東大外殻》はまさにパンドラの箱……《監獄都市》最大の禁忌(きんき)であり、決して解けない呪いでもあります。あなたには真実を知る覚悟がありますか、雨宮さん? 知れば二度と引き返すことはできません……それでも?」 「エニグマ……」  深雪は思わずごくりと唾を吞み込んだ。《関東大外殻》の正体が何であるか、《監獄都市》で生きるゴーストは何も知らない。実際、《壁》ができる前から東京で生きてきた火矛威(かむい)でさえ、《関東大外殻》の正体を知らなかった。    つまり、《関東大外殻》に関する情報は何らかの理由で徹底的に秘されているのだ。  真実を知ることに躊躇(ちゅうちょ)がないと言ったら嘘になる。だが《関東大外殻》を無くさなければ、《監獄都市》の問題を解決することはできない。  本気でこの街を変えたいならば、恐怖心を乗り越え、一歩踏み出さなければ。  深雪は決意を宿した目でエニグマをまっすぐに見つめつつ、はっきりと答える。 「ここは俺たちの街だ。この街を知るために必要なことはすべて受け止める。そうでなきゃ、《中立地帯の死神》にはなれないだろ?」  エニグマは深雪の答えを面白がるような、それでいてどこか満足そうな笑み浮かべる。 「実に良い目をしていらっしゃる……良いでしょう、私としてもお伝えし甲斐(がい)があるというものです。しかし……残念ながら今日はここまでのようですね」  そう告げるエニグマの体は、向こう側の壁がはっきりと見えるほど透けてしまっているではないか。深雪はぎょっとして腰を浮かせた。 「エニグマ……? お前、半透明になってるぞ! 大丈夫か!?」 「どうやら活動限界を迎えてしまったようです。いかにこの私といえど、そろそろ休息しなければ」  できれば肝心の情報を明かしてからにして欲しいと思うものの、無理強いはできなかった。エニグマは数日かけて《東京中華街》の情報を集めてくれたのだ。『主』としては、その労をねぎらうべきだろう。 「数日がかりの調査だったもんな……ありがとう、ゆっくり休んでくれ」  するとエニグマは嬉しそうに、にんまりと笑う。 「ふふ、ありがたいお言葉ですねえ。とにかく今日はこれで失礼します。ああ眠い眠い……!」  どうやら彼の体力は限界だったようで、台詞(せりふ)を言い終わらないうちに、エニグマの体はぼんやりと輪郭(りんかく)を失ってゆく。そして黒い(もや)に戻ったかと思うと、そのまま黒猫へと吸い込まれていった。  最後に黒猫は「くあ」と大きな欠伸(あくび)を一つすると、深雪のベッドで丸まって眠りはじめた。部屋は再び静けさに包まれる。 (幽霊みたいなのに、眠気は感じるんだな)  少し笑ってから深雪は視線を窓の外へと向けた。  深い闇に包まれた《監獄都市》。その向こうに《関東大外殻》は今も横たわっているのだ。闇に阻まれて姿こそ見えないものの、《壁》は「ゴオオオオ」と大地を揺さぶるかのような重低音を奏でている。  依然として不気味ではあるものの、エニグマの話を聞いたあとだからか、その響きはどこか哀愁(あいしゅう)を帯びているようにも感じられた。低いながらも音に抑揚(よくよう)があるからだろう。 (確かに泣いているようにも聞こえるな。それとも誰かを呼んでいる……? いや、まさかな……)  それにしても、どこかで聞いたことが気がする。でも、どこだったか―――首をひねった深雪だが、ようやく「ああ」と思い出す。 (そうだ……鯨の声だ! 水中で録音された鯨の鳴き声……あれをもっと低くて長くした感じに似てる。そう言われてみると生物の声にも聞こえてくるな)  その地鳴りにも似た響きに耳を傾けていると、不思議な心地になる。深雪はずっと《関東大外殻》は無くすべきだと思ってきた。あの《壁》が存在するばかりに東京は『陸の孤島』と化し、貧困や暴力が放置される無法地帯となっている。だから東京が外の世界と同じような自由と発展を手に入れるためには、あの不気味な《壁》を取り除かなければならないのだと。  だが、この嗚咽(おえつ)にも似た咆哮(ほうこう)を聞いていると、妙に胸が締めつけられるのだ。この声の主は何を訴えているのだろう。何がそんなに辛く苦しいのだろう。彼は一体何を求めているのだろう。  今まで《関東大外殻》さえ無くなれば、《監獄都市》は良くなると信じてきた。けれど、果たしてそれは正しいことなのか。《関東大外殻》はその後どうなってしまうのか。そもそも排除すること自体が可能なのか。そんな疑問すら沸き上がってくる。  もっとも《関東大外殻》の排除を考えているのは深雪だけではない。京極もまた《壁》の破壊を望んでいる。深雪は《壁》を無くすことで《監獄都市》を昔の東京に戻すことが目的だが、京極は《監獄都市》の破壊そのものが目的なのだ。  そう―――この街には京極鷹臣(きょうごくたかおみ)もいる。今はまだ《アラハバキ》も大人しく、《新八洲(しんやしま)特区》も統制が取れているように見えるが、所詮(しょせん)は嵐の前の静けさに過ぎない。京極は今もこの街を破壊するため(うごめ)いているのだろう。奴がこのまま大人しくしているとは思えない。そう考えると自然と背筋に緊張感が走る。 (……今はとにかく、できることからやっていくだけだ)  学ぶことや考えることは山のようにあるが、焦っても始まらない。明日も朝が早く、そろそろ寝なければ身体がもたない。  深雪はそう頭を切り替え、窓のカーテンをそっと閉じるのだった。
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