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第二十四話 あの日の真実③
京極はそう言うや否や、右手のナイフを天高く振りかざす。彼の動作には何ら気負いがなく、それ故に京極の殺意が生々しく感じ取れた。ただ相手を脅すためにナイフをかざしているのではない。京極の放つ殺気は本物だ。
「ヒッ……!!」
この期に及んでも両足は頑として動かなかった。逃げ出したいのに逃げ出せない。北斗はとっさに自由になる両手を交差させ、自分の頭をかばう。
その刹那、京極はナイフを躊躇なく振り下ろす。頭上に掲げた右側の腕に、京極のナイフが深々と突き刺さった。意図的か、それとも偶然か。ナイフは肉を断ち、骨を削って深々と北斗の腕を貫通する。
「あああああっ!!」
脳天を貫くほどの激痛。喉から悲鳴がほとばしった。血飛沫が飛び散り、北斗と京極の顔を濡らす。その衝撃で翔陽の首が北斗の膝から滑り落ち、階段をごろごろと転がり落ちていった。《ピアパルク》の入口へと繋がる薄暗い階段を。北斗も気づいていたが、拾いあげたくともそんな余裕は何処にもない。
京極はどれだけ北斗が苦しみのたうち回ろうとも平然としていた。無表情のまま、一片の迷いもなければ容赦もなく、ひと息にナイフを引き抜くと、今度は北斗の左のふくらはぎに突き立てる。
「あがっ……ああああああああああ!!」
凄まじい痛みですべての感覚がマヒし、意識が朦朧としてきた。滝のような涙と汗、顔は涎や鼻水でぐちゃぐちゃだ。だが、それに構う余裕はない。体から流れ出る血の量だけ、冷静な判断力も、抵抗する気概すら失われていく。
京極はナイフを引き抜くと、それを事も無げにカランと足元へ放り投げた。
「これでお前はもう逃げられない」
その台詞と同時に、《ピアパルク》からズンという衝撃のまじった重低音が轟いた。それまで聞こえていた興奮交じりの歓声が、断末魔の悲鳴へと取って代わられる。
「向こうも始まったようだな」
涼しい顔をしてつぶやく京極に、北斗は震える声で尋ねた。
「お……俺を殺すんですか……?」
「初めはそのつもりだったが、気が変わった。お前はこのまま生かしておく……何故だか分かるか?」
京極は北斗の頭髪を掴み、目の前まで持ち上げると「にい」と笑う。この世の悪意を凝り固めたような、醜く凶悪な笑みだ。弧を描く口元は耳まで裂け、それが瘴気にまみれた悪魔のごとき言葉を紡ぎ出す。
「……お前に、この世の地獄を味わわせるためさ!!」
「そ……それはどういう……?」
わけが分からない。今でも十分、地獄だというのに、これ以上どんな地獄が待っているというのか。すると京極は冷ややかに続けた。
「雨宮が《ランドマイン》で《ピアパルク》を吹き飛ばした後、とある研究機関の者たちがやって来る。斑鳩科学研究センターの研究員たちだ。連中はゴーストの研究をしているが、慢性的に実験体が不足していて、手軽に使い捨てできる『マウス』を喉から手が出るほど欲しがっている。北斗、お前はそれにうってつけというわけだ」
「な、何を言って……!?」
「お前もその身で経験するといい。無力ということがいかに惨めか、人間でない者がいかに虐げられるかをな……そしてこの世の地獄を味わったお前は、初めて知るだろう。自分が与えられた幸せの上に、どれだけ胡坐をかいてきたかをな……!!」
言うや否や、京極はゴミを投げ捨てるかのように北斗を突き飛ばした。北斗の体はビルの壁に激突し、そのままずるずると力なくずり落ちる。京極はそれを顧みることなく、哄笑をあげながら去っていく。
「じゃあな、北斗。せいぜい足掻けよ。もし仮に生き延びたところで、お前のようなつまらない奴とは、もう二度と会うこともないだろうがな」
《ピアパルク》から響く爆発は増大し、今や地が揺れるほどだ。京極は自分をこのまま置いていくのか。狂乱に陥った《ピアパルク》を、《ウロボロス》のみなを見捨てていくというのか。北斗は歩き去る京極の後ろ姿に向かって叫ぶ。
「ま……待って下さいよ、京極さん! 京極さん!!」
京極の背中に手を伸ばすものの、そのはずみでバランスを崩し、横倒しになってしまう。必死で半身を起き上がらせると、再び去り行く京極へと血だらけの手を伸ばす。それでも京極は振り向きもしない。
「……き、京極―――ッ!!」
《ピアパルク》から聞こえてくる爆発と悲鳴は、今や《イーブスドロップ》が無くともはっきりと聞き取れるまでになっていた。火が燃え広がっているのか、階段の下から焼け焦げた臭いや煙も立ち込めてくる。
このままでは間違いなく爆発が起き、大惨事になるだろう。それが分かっていても北斗にはどうすることもできず、身動きすらできない。無力感がじわじわと心を蝕んでいく。
自分はもう少しうまくやれると思っていた。もう少し賢いつもりでいたし、たとえ腕力はなくとも知恵で困難を潜り抜けられる自信があった。自分は『主役』にはなれないし、正義感も使命感も無いけれど、絶対に悪には染まらないつもりでいた。
だが、全ては思い上がりにすぎなかったのだ。
あまりに煙が濃いせいか、近隣住人も異変に気付いたらしく、様子を見に集まってきた。みな驚いた様子で慌ただしく端末で救急車や消防車を呼んだり、住人に避難を呼びかけたりしている。
「誰か……誰か助けてください! 中に人がいるんです!! 扉の……扉の鍵が閉まっていて中から出られない……誰か俺の仲間を助けてください……!!」
北斗は泣きながら助けを求めた。頑なに心を閉ざし、誰にも本音を言わなかった北斗が、この時は恥も外聞もなく泣き叫んで助けを乞うた。だが、その言葉に耳を貸す者はいない。
それも当然だ。地下からはもうもうと黒い煙が吐き出され、時おり地響きを伴った轟音も聞こえる。誰かが手助けしてどうにかなる段階は、とうに過ぎ去っているのだ。こうなっては誰も惨劇を止められない。みな己の命を守るので精一杯で、誰かに手を差し伸べる余裕などないのだ。
北斗は青ざめ、絶望した。そんな。人を呼べば―――誰かに救援を求めれば、みなを助けられると思っていたのに。誰かに頼れば、きっと助けてもらえると思っていたのに。
もう他に手はないのか―――何か他にできることは。
「そ、そうだ……扉の鍵……! あの鍵さえあれば……!!」
《ピアパルク》の鍵は、扉の脇にある自販機の下へ潜り込んでいる。北斗は鍵を見つけられなかったが、ひょっとしたら自分の探し方が足りなかったのかもしれない。もう一度、しっかり探せば鍵が出てくるかもしれない。鍵さえ開けば―――きっと《ピアパルク》から逃げることができる。みなが助かるのだ。
その考えに一縷の希望を託し、北斗は《ピアパルク》への階段を下ろうと決意する。だが、ただでさえ腰が抜けているのに、切断されかけた手足で上手く動けるはずもない。あっという間にバランスを崩し、ざざざと階段を滑り落ちてしまう。
全身のあちこちを打撲し、擦りむくが、そんな事はどうでも良かった。死に物狂いで自販機の下にある隙間に片手を突っ込む。
だが隙間は狭く、どうしても鍵は見つからない。どんなに歯を食いしばって手を伸ばしても、指先に何が触れることは無い。
あるのはただ真っ暗な闇だけだ。
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