第三話 動乱の後

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第三話 動乱の後

 深雪はいつも通り、事務所内の三階にある自室のベッドで目を覚ました。  《監獄都市》はかなり寒くなっており、雪が舞う日も珍しくない。そのため厚手の布団を被っているが、それでも夜間や早朝は凍えるほど寒い。息を吐けば白く、窓にも霜が降りている。深雪は気合を入れ、どうにか布団の外に出た。  着替えをしている最中にふと気づく。そろそろクリスマスの季節だ。《ウロボロス》が壊滅したあの日が、今年もやって来ようとしている。  ―――あの日、あの時からすべてが始まった。深雪は決して《ウロボロス》のメンバーを皆殺しにするつもりはなかった。ただ、火矛威(かむい)真澄(ますみ)、大切な仲間を守りたかっただけだ。真澄と火矛威には幸せに暮らして欲しかった。ゴーストだからと縮こまって人目をはばかるように生きるのではなく、平穏に暮らして欲しかったのだ。  しかし、真澄ももうこの世にはいない。一か月前、深雪は彼女の娘である帯刀火澄(たてわきかすみ)を連れて《東京中華街》にある紅龍芸術劇院へ向かった。そして紅神獄となった真澄と実に二十年ぶりの再会を果たしたのだ。  もっとも《冷凍睡眠(コールド・スリープ)》されていた深雪にとっては、わずか数年ぶりの再会だったが。  あの時、真澄は紅神獄として、六華主人として死ぬことを心に決めていた。深雪は必死で彼女を説得したが、ついに真澄の決意を覆すことはできなかった。やはり真澄を無理やりにでも紅龍芸術劇院から連れ出すべきだったろうか。『正解』は今でも分からない。  (ロボの……北斗政宗(ほくとまさむね)という名を最初に覚えていたのは真澄だったな。思えば真澄は俺より《ウロボロス》のメンバーの顔や名前をしっかり覚えてたし、火矛威も『ロボ』ってあだ名は知っていた。俺はチームを守ろうと躍起(やっき)になっていたけど、本当に大切なものは何一つ見えてなかったんだな……)  そんな深雪も、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。それは《ウロボロス》時代、北斗政宗が京極鷹臣(きょうごくたかおみ)と行動を共にしていたことだ。とはいっても自分以外に存在価値を認めることの無い京極にとって、北斗政宗はただの使い走りに過ぎなかったのだが。  北斗政宗のほうも京極の命令に抗うことなく、機械のように黙々と従っていた。だからついたあだ名が『ロボ』だ。そこには感情や主体性、自らの意思すらもなく、ただ『主』に従うだけのロボットという皮肉が込められていた。  深雪と京極は正面きって衝突したことは無かった。新庄を介して意見が対立することはあっても、直に拳を交えたことは一度も無い。とはいえ、誰の目にも明らかなほど両社は敵対しており、そのため京極の手下だった北斗政宗と深雪も対立関係にあったといえる。  その北斗政宗が―――東雲六道が何故、深雪をこの事務所に招き入れたのだろう。六道の正体に気づいた当初、深雪はひどく戸惑ってしまった。ただ一つ、思い当たる可能性がある。 (まさかとは思うけど……所長と京極は今も繋がっているのか……?)  何の因果か京極も東京へ―――この《監獄都市》へ戻ってきている。しかも深雪と同様、二十年前とまったく変わらぬ姿で。《中立地帯の死神》である六道がそれを知らぬはずがない。  六道と京極は今も連絡を取り合っているのだろうか。そう考えるとすべてが疑わしく思えてしまう。六道が深雪を《死刑執行人(リーパー)》にしたことも、《中立地帯の死神》になれと迫ったことも、すべては《監獄都市》のためではなく、京極から命令されてやったことなのか。 (ただ……その説には矛盾がある。京極は言っていた。自分はいずれ《監獄都市》を破壊するのだと。六道はどんな時でも一貫して《監獄都市》を守ろうとしてきた。二人が協力関係にあるなら、その行動が真逆になるのはおかしい)  それすらも京極の陰謀であり、何らかの計画のカモフラージュである可能性はあるが。  ともかく、今の六道と京極は協力関係に無いような気がする。『北斗政宗』はともかく、『東雲六道』はそうやすやすと誰かの手駒になるような性格ではないからだ。  直接、六道に尋ねてしまえば疑念は晴れて、あれこれ悩むことも無いのだろうが、深雪はなかなかそこまで踏み込めずにいた。 (俺は……この期に及んで恐れているのか。二十年前の『あの日』のことを)  《ウロボロス》が壊滅した日の記憶の一部が欠けている。それが深雪に二の足を踏ませていた。  あの時、深雪は瀕死の重傷を負い、死の淵を彷徨った。斑鳩科学研究センターで治療を受け、どうにか生き延びたものの、その時のショックで記憶の一部が欠如してしまったらしい。  《ウロボロス》のメンバーに囲まれて押さえつけられ、背中の《ウロボロス》の刺青(タトゥー)をナイフで皮膚ごと乱暴に剥がされたあたりから意識が混濁(こんだく)し、その後のことがどうしても思い出せないのだ。  欠けた記憶の一部を、六道は知っているのだろうか。それを考えると深雪は知るのが怖いような、何とも言えない気分になるのだった。 (京極は俺に《ヴァニタス》を使ったと言っていた。《ヴァニタス》は他者の精神を操り、怒りや恨み、憎悪といった負の感情を増幅させ、最後には虚無へと至らしめる能力(アニムス)だ。他のメンバーも《ヴァニタス》で操って互いに殺し合わせたのだと。俺の記憶が一部、欠落しているのは、それも関係しているのかもしれない……)  真澄や火矛威はいつも深雪と一緒で、京極と接することはなかった。二人とも京極を恐れて近づこうとしなかったから、《ヴァニタス》の影響を受けずに済んだのだろう。それだけは唯一の幸いだ。 (その真澄も今はいない。彼女は式部真澄(しきべますみ)として生きるより、紅神獄(ホン・シェンユイ)として死ぬことを選んだんだ)   一か月前、《東京中華街》が未曽有(みぞう)の混乱に陥る中、深雪たちはどうにか街から脱出し、東雲探偵事務所のある《中立地帯》に戻ってくることができた。あれから《東京中華街》がどうなったかは分からない。池袋の南側を中心に厳しい封鎖が敷かれ、以前にも増して出入りが困難になってしまった。  当然、《東京中華街》の人々との連絡も途絶えてしまい、外部にはまったく内情が伝わってこない。唯一、黄雷龍(ホワン・レイロン)が次の六華主人になったらしいという噂が漏れ聞こえてくるだけだ。  だが、深雪たちもすぐにそれどころではなくなってしまった。紅神獄(ホン・シェンユイ)の失脚によって弾圧を受けた紅家の人々が命からがら《東京中華街》を脱出し、《中立地帯》へ逃げてきたからだ。  彼らは着のみ着のままで、家財道具どころか水や食料さえ持ち合わせていなかった。おまけに体の弱い子どもや年寄りのみならず、深刻な負傷をしている者も多い。よほど酷い目に遭ったのか、どの顔も不安や恐怖、悲痛や苦悩を浮かべて疲弊(ひへい)しきっている。  そんな総勢二千人ほどの集団が大挙して《中立地帯》の北部へ押し寄せてきたものだから、とても放っておくわけにはいかないのだった。  (ホン)家の代表者は紅天若(ホン・ティエンルオ)という六十代の女性だ。ふくよかで、いかにも「お母さん」といった穏やかな容貌(ようぼう)をしている。  その天若が東雲探偵事務所にコンタクトを取ってきたのは2週間前のことだ。権力闘争に敗れた以上、もう《東京中華街》に戻ることはできない。どうか《中立地帯》で生活基盤を築くことができるよう手助けして欲しいと。  当時は所長である東雲六道の体調が(かんば)しくなかったため、深雪が所長の代理として対応に当たることとなった。紅家の人々の居住地を確保したり、食料品や衣料品をはじめとした生活用品をかき集めたりしたものの、何せ避難者の数が多すぎて、なかなか十分な物資が確保できない。  それと並行して《死刑執行人(リーパー)》としての仕事も当然、こなさなければならず、深雪は目が回るほど忙しい日々を送っていた。  もっとも《東京中華街》で起きた大事件に恐れをなしたのか、《ゴースト=ギャング》たちの抗争も小競り合い程度で、普段とくらべれば大人しいくらいだ。同じ《監獄都市》にいる以上、《東京中華街》と《中立地帯》の間に交流は無くとも、影響を受けないわけにはいかないのだろう。  静かなのは品川を中心とした《新八洲(しんやしま)特区》も同じだ。《東京中華街》があれだけ混乱しているのに、《新八洲特区》の街も、その街を牛耳る《アラハバキ》も、不気味なほど固く沈黙を守っている。  今は亡き轟鶴治(とどろきかくじ)紅神獄(ホン・シェンユイ)の間に実は子ども(火澄)がいたというスキャンダルは、《アラハバキ》にとっても寝耳に水だろう。何故なら真澄も轟鶴治も火澄の存在を周囲に明かさず、育ての親である火矛威(かむい)も娘の出生の秘密をひた隠しにしてきた。火矛威が火澄の素性を打ち明けたのは深雪だけだ。  そのため轟鶴治の隠し子である火澄の存在は《アラハバキ》にとっても驚天動地(きょうてんどうち)であり、新たなトラブルを招きかねない厄介な『火種』であるはずだ。  しかしマリアによると、轟鶴治のスキャンダルについて《アラハバキ》では厳しく箝口令(かんこうれい)が敷かれているそうだ。総組長である轟虎郎治(とどろきころうじ)の意向によるもので、そこから察するに《アラハバキ》は上手く統制が取れているのだろう。  《アラハバキ》の統率力や組織力には苦戦を強いられることも多いものの、《監獄都市》のパワーバランスが崩れかけている現状では、正直言って助かっている。これで《新八洲特区》まで混乱したら、目も当てられない悲惨な状況になりかねない。  しかし、この状況もいつまで続くかは分からない。《東京中華街》の崩壊を目の当たりにしたせいか、嵐の前の静けさなのではないかという懸念(けねん)がどうしても拭えないのだった。
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