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第三十話 流星の決意①
その日は朝から寒く、どんよりと厚い雲が垂れこめていた。流星は身支度を整え、マンションの三階にある自宅を出る。
一人暮らしで普段はほとんど留守にしており、寝るためだけにあるような部屋だ。家賃は安いものの、そのぶん手狭で、一日中籠っていると気分が滅入ってくる。だからよほどのことが無い限りは、外出するよう心がけていた。
今や寒さがすっかり厳しくなり、厚手の上着は欠かせない。もともと黒のライダースーツを愛用していたが、怪我が治りきっていない腕では衣服の着脱が難しく、冷え込む日には傷が痛むため、最近は伸縮性のあるスポーツウエアやパーカーを選ぶようにしていた。
現場は深雪たちに任せきりで、流星が出ることはほとんど無い。それでも念のため、ハンドガンを上着の下、胸元のホルスターに装備しておく。流星は今、身を守る術がないのだから。
能力を使うことは、医師である石蕗麗から止められていた。一度、《臨界危険領域者》となった者はアニムスが暴走しやすい傾向があるという。アニムス値が安定するまで《レギオン》は使うなと言われたこともあって、余計にハンドガンは手放せない。
ただ、負傷した右手を動かすと未だに強い違和感があり、細かい動作ができない。銃の扱いにしても、たとえ銃把を握ることができたとして、トリガーを引けるかどうか怪しい。
それでも丸腰で《監獄都市》の街中を歩くことを考えたら、いくらかましだ。
東雲探偵事務所へ向かったものの、体が完治していない流星にはやることがない。二階のミーティングルームで二、三時間ほど潰してから、再び自宅へ戻ることにした。
その前にスーパーに立ち寄って今晩の夕食の買い出しを済ませておく。インスタントやレトルト、冷凍食品と、キュウリやトマトといった生野菜。それらをビニール袋に入れて帰宅の途につく。
ここ最近、ずっと似たような生活を続けている。すこぶる平穏なのだが、平穏すぎて何となく違和感がつきまとう。抗争の鎮圧に凶悪犯罪の調査、そして《リスト執行》と、《死刑執行人》となって目まぐるしい日々を送ってきた流星には、どうもこのゆったりとした生活が慣れない。
そうして街中を歩いていると、通りの向こうに関東警視庁ゴースト対策部・機動装甲隊が移動していくのが見えた。
機動装甲隊――警察官だった流星が、かつて所属していた部署だ。
機動装甲隊はゴーストの制圧を目的に設置された部隊だが、警察官はアニムスを持たぬ生身の人間だ。超常的な力を持つゴーストに対抗するため、機動装甲隊は強化外骨格と呼ばれる黒い機械装甲を装備していた。
頭部から足先に至るまで全身を特殊鉄鋼で覆った、いわば機械化された鎧で、その装甲は銃弾を通さないほど分厚く、全長は三メートルにもなる。精巧な機械腕 は人の力では決して持ち上げられない、大口径の機関銃を扱うことも可能だ。
ものものしい装備を抱えて市街地を駆け回り、能力を操るゴーストと戦うため、強化外骨格には燃料や動力も積んでいる。
強化外骨格の重々しい足音と電子制御されたアクチュエーターの駆動音が相まって、かなりの騒々しさとなるため、遠目からでもすぐに分かる。
もっとも現役の機動装甲隊の中に知り合いは一人もいないし、流星はもう警察官ではない。機動装甲隊の移動していく表通りを避けるように、裏通りへと回ったのだった。
ただ、あの特徴的な黒の強化外骨格を目にすると、嫌でも思い出す。自分が何故、何のために《死刑執行人》になったのかを。
(とにかく体を回復させねえとな……これじゃ何もできやしねえ。深雪たちも頑張っているみたいだが、ウチは少数精鋭だから、一人でもメンバーが欠けたら戦力が大幅に落ちる。だから一刻も早く戻らねえと……)
そこまで考えて、流星はふと立ち止まった。我知らず、溜め息が漏れる。
「戻らねえと……だよなあ……」
そして何とも言えぬ重苦しい気分に包まれるのだった。
やらなければならないことが山積している。それは分かっている。流星はまだ復讐を何一つ果たしていないのだ。こんなところで立ち止まってはいられない。
事務所のことを考えても、これ以上、負担はかけられなかった。深雪たちも頑張ってはいるものの、そもそも東雲探偵事務所は《死刑執行人》の数が少なく、一人でも欠員が出ると業務に大きく影響する。だから、できるだけ早く現場に復帰するのが望ましい。
頭ではそう分かっているのだが。
流星が退院してから始めたことの中に、自炊がある。今までは空いた時間にカップ麺など適当なもので食事を済ませていたのだが、それを知った石蕗麗が眉を吊り上げて激怒したのだ。
「馬鹿者! そんな食生活で体が回復するわけがないだろう! 食は生命の基本だ! せっかく命が助かったのだから、もっと体を大切にしろ!!」
『主治医』に雷を落とされてはかなわない。睡眠時間を十分にとって早寝早起きをするようになったし、食事も三食、栄養面に気を付けて真面目に摂るようになった。毎晩の深酒も控えているおかげで、流星の体調は怪我を除けばすこぶる改善されつつあった。
だが、精神面はどうにも優れない。意欲が湧かず、気が付けばぼんやりしている。体力は戻りつつあるが、気力が戻らないのだ。
原因は自分でも分かっている。流星はかつて関東警視庁ゴースト対策部の機動装甲隊に所属していたが、同僚たちを月城に殺され、その事件を期にゴーストとなったのだ。
それからは復讐のみを考えて生きてきた。いつか月城と再会する日が来たら、必ず同僚の仇を討つ。すべてを失った流星にとって、それだけが生きる目的だった。
だが、流星はいつしか復讐に迷いを抱くようになっていた。
(……俺は本当にこのままでいいのか? 復讐に囚われ続けても、得るものは何もない。自分を過去に縛りつけ、あえて険しい道を進み……その先にいったい何がある?)
今までは、そんな考えは邪念だと思っていた。たとえ何も得られなくとも構わない。せめて仇だけでも討ってやらなければ、殺された仲間の魂が浮かばれない。自分にしかできないことだと、流星はそう信じていた。
(だが……結局は俺の自己満足に過ぎないんだ。殺された仲間たちに、仇を討ってくれと頼まれたわけでも何でもねえんだから……)
数か月前、流星は国立競技場跡地で月城と念願の再会を果たした。ところが月城は流星をまったく覚えていないという。最初は馬鹿にしやがってと激怒したが、本人は流星とは面識がない、仇である月城と同じ姿形をしているだけの別人だと主張するのだ。
そんな事が果たしてあり得るのだろうか。流星にはわけが分からない。
(俺は、どうしても復讐に生き甲斐を見出すことができない。月城を憎む気持ちはあるし、殺された仲間を悼む気持ちもある。だが……どうしても最後の一線を越えることができなかった。いっそ何も考えず、ただ月城を殺すことができればどんなに良かったか。でも俺にはできない……できないんだ……!)
これまで何度も復讐の鬼になろうとしてきた。あらゆるものを犠牲にしても仇を討つのだと、それだけを拠り所にして生きてきた。《死刑執行人》になったのもそのためだ。
流星は、月城の正体はゴーストだと考えている。月城の犯行は、そう仮定しないと不可能なことばかりだからだ。ゴーストである月城を殺すには、ゴーストを殺すことに慣れておかねばならない。
ゴーストと戦う術を身につけるため。いわば月城殺しの予行演習のために、流星は《死刑執行人》となったのだ。
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