33人が本棚に入れています
本棚に追加
第三十二話 流星の決意③
月城は、ふいに右手を目の前にかざした。流星の苦悩など気にも留めてないような、のんびりした仕草で。
流星はムッとして月城を睨んだ。罪悪感のひとつでも抱いたらどうなんだと。
しかし次の瞬間、流星はぎょっとしてしまう。
月城の右手は半透明になって、その向こうに広がる《監獄都市》の街並みが透けて見えたのだ。いや、透けているのは右手だけではない。月城の頭も一瞬だけ透けて、《壁》の向こうに沈みつつある太陽が見えた。
まるで幽霊か透明人間のように。
「……!! 月城……お前、その手……!!」
青ざめる流星だが、月城はやはり他人事のように悠然と己の透ける右手を見つめるのだった。
「俺が忘れ去ったのは、お前のことだけじゃない。過去の記憶、感覚、感情、ありとあらゆる欲望……すべて砂が零れるように消えていく。いずれ俺は自我を失い、ただそこに存在するだけの『現象』になるんだろう。俺は現実を手に入れたかっただけだが、最初から何もない人間には結局、何かを掴むことなどできないのだろうな」
流星は息を呑む。月城が落ち着き払っているところを見ると、体が半透明になるのはこれが初めてではないらしい。それほど透明化の頻度が多く、慣れてしまっているのだ。
このまま透明化が進めば、月城はどうなるのだろう。人間であり続けられるのだろうか。もし人間でなくなれば、何になるのだろう。
流星であれば、不安で居ても立ってもいられないに違いない。
だが、当の月城は不気味なほど冷静で、動じる気配すら無い。いや、彼の言葉から察するに、不安や恐怖といった人間らしい感情さえ失いかけているのだろう。だから落ち着いていられるのだ。
このまま放っておけば、流星が仇を討つまでもなく、この世から月城は消滅する。だが、月城には己の死に怯える感情さえ残されていない。
それが幸せなことなのか、それとも残酷なことなのか、流星には分からなかった。
流星と月城はしばし無言だった。ただ、夜の気配を帯びた風だけが二人の間を吹き抜けていく。やがて先に口を開いたのは流星だった。
「……関東警視庁の職員全員の記憶を改竄したのも、お前だな?」
「ああ、アニムスを使って俺に関する記憶のみ消した」
「そのアニムスを使えば、俺の記憶も消えて無くなるのか? 機動装甲隊のことも、死んだみなのことも……月城、お前のこともすべて忘れ去って、平穏に生きていけるのか?」
「……。それがお前の望みなら、今すぐにでも消去するが?」
月城の切れ長の瞳が、ちらりと一瞥する。流星の出方を窺うような―――あるいは試すかのような、言い知れぬ感情を含んだ視線で。
流星はふと考える。何もかも忘れ、恨みや憎しみを手放し、《監獄都市》での経験をきれいさっぱり忘れて、どこか遠い場所で人生をやり直す。それが最良の選択なのかもしれない。
だが―――それは果たして幸せだと言えるのだろうか。絶対に後悔しないと言い切れるだろううか。
流星は静かに首を横に振る。
「……。いや、そんな事をしても無意味だ。記憶を消したところで、事実は消えないんだからな」
「……」
その時、不意に月城が笑った。再会して初めて見せた笑顔だった。
「やはり……お前の記憶を残しておいたことは正解だった」
どういうことか。流星は眉をひそめたものの、月城の答えはない。笑みはほんの一瞬で、再び無機質な表情に戻ってしまう。
「俺は今、ある組織に身を寄せている。その組織から大きな仕事を任され、この《監獄都市》に戻ってきた。その仕事を終えるまでは当分、この街にいるつもりだ」
月城は流星をまっすぐに見つめて告げた。
「だから逃げるなよ、赤神。必ず俺を殺しに来い。俺が俺であるうちに……な」
その姿は挑発するようでもあり、どこか懇願するようでもあった。
流星が答えるのも待たず、月城は両眼に赤い光を灯したかと思うと、その体はみるみる闇に覆われ、光を反射しない漆黒の影と化してしまう。
やはり―――月城響矢のアニムスは影化する能力なのだ。気配を感じさせず流星に近づくことができたのも《ドゥンケルハイト》があったからだろう。
「あ、おいっ!!」
まだ聞きたいことが山ほどあるのに―――流星の呼び止める声が聞こえているのかいないのか。
「……ああ、そうだ。これは返しておく」
月城は突然、思い出したようにつぶやくと、流星から取り上げたハンドガンを上着の下から取り出す。
流星が月城から差し出された銃把を戸惑いながらも握った瞬間、月城の姿はバシャリと溶け、地面に吸い込まれるようにして消えていった。
「……」
流星はしばし茫然とする。何が何だか訳が分からない。
倒壊したビルも、遠くにそびえ立つ《関東大外殻》も、すべてが夕日に染められる中、広場はしんと静まり返り、ただ流星の影が長々と伸びるのみだ。風がさわさわとビルの合間の街路樹を揺らし、もの淋しさが漂っている。
月城響矢と会って話したことが嘘のように思えるが、決して夢でもなければ幻でもない。手の中のハンドガンが、月城の存在を確かに証明していた。
流星は不意に笑いが込み上げてきた。
「は……ははは……、ははははははは! あはははははははははは!!」
もう二度と会うことはないと思っていた月城が、あの月城響矢が向こうから会いに来たのだ。
関東警視庁の誰一人として月城響矢を覚えておらず、記憶しているのは流星ただ一人だけ。あれだけ大勢の仲間を殺したにも関わらず、映像や書類はもちろん指紋にいたるまで、月城の痕跡は一切合切が残っていない。
一時は流星でさえ、月城の存在を幻覚ではないかと疑ったほどだ。
だが、月城は生きていた。この世に実在して、すべて己の犯行だと認めたのだ。犯行動機は到底、認められないものだし、罪悪感や後悔すらも抱いていないようだが、流星にとっては些末事に過ぎない。
あれほど探し求めていた月城が今、《監獄都市》にいるのだ。
(……月城、お前の存在は嘘でも幻でもなかったんだ!)
靄がかかっていた思考が、みるみる冴え渡っていく。雑念が雲散霧消し、視界が晴れていくような心地だった。ようやく自分の為すべき事が見つかった。それは以前、流星が己に課していたどす黒い復讐心とは違うものだ。
「……いいだろう。望み通りに決着をつけよう、月城……!!」
月城は放っておいても『自滅』するのかもしれない。流星が手を下さずとも、月城は『人間ではなくなる』という形で、この世から消えてしまうのかもしれない。
だからと言って、流星は月城を放置するつもりは無い。
月城響矢を殺す。月城が人間であるうちに。彼に機動装甲隊の仲間たちの記憶があるうちに必ずや決着をつける。月城自身もまた、流星と戦ってケリをつけることを望んでいる。
たとえ失った人生が戻らなくとも構わない。流星にとっては、それだけで十分だ。
流星はようやく笑いを引っ込めると、今度こそ自宅へと足を向ける。その足取りに、もはや迷いは感じられなかった。
最初のコメントを投稿しよう!