第四話 紅家の苦難

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第四話 紅家の苦難

(そういえば……紅家の天若(ティエンルオ)さんから至急、相談したいことがあると連絡を受けていたな。そろそろ出かけないと……)  身支度を終えた深雪は、事務所の一階に降りて焼いた食パンを野菜ジュースで胃に流し込み、さっそく玄関へと向かう。すると紅神狼(ホン・シェンラン)が戸口で深雪を待ち受けていた。いつもの黒いチャイナ服に身を包み、どことなく硬い表情をしている。 「神狼……?」 「……。深雪カ。(ツァオ)」 「おはよう。珍しいな、神狼がこんな早い時間に事務所に来るなんて」  神狼は事務所が大きな事件を抱えていない時は大抵(たいてい)、中華料理店・《龍々亭》で鈴華(リンファ)や彼女の祖母である鈴梅(リンメイ)の仕事を手伝っている。特に早朝は料理の仕込みがあるため、《龍々亭》にいることが多いのだが。 「もう体はいいのか?」  神狼は深雪たちを襲撃してきた《進化兵》との戦闘で深刻な負傷をした。あばらを数本、骨折し、内臓も一部損傷していたという。生まれ故郷である《東京中華街》が混乱に陥った際にも、怪我と高熱で起き上がれなかったくらいだ。 「あア、痛みモほとんど無イ。完全復帰までハ、もう少し時間がかかりそうだガ、日常生活ハ問題ナイ」  神狼の顔色も一時期よりずいぶんと良くなった。体調が回復してきているのだろう。 「そっか、本当に良かった。ひどい怪我だったもんな。鈴華(リンファ)鈴梅(リンメイ)ばあちゃんも一安心できて喜んでるよ」 「二人にはひどく心配ヲかけてしまっタ。診療所を退院するまデ、ずっとつき添ってくれテ……とても感謝してル」  ところがそう微笑んだのも束の間、神狼はうつむいて黙り込んでしまった。何か言いたいことがあるのに切り出せないのだろう。わずかに沈黙が流れたあと、神狼は意を決したように顔を上げる。 「深雪、これかラ(ホン)家の人たちのトコロへ行くんだロ?」 「ああ、その予定だけど」   「その……俺も一緒ニ行っていいカ?」 「俺は構わないけど……いいのか? 紅家との間には過去にいろいろあったんだろ?」 「確かニ……俺ハ紅家に迎え入れてもらったのニ、そのまま出奔(しゅっぱん)しテ、恩を仇で返すような真似ヲしてしまっタ。だかラ、あの人たちニ快く思われていなくてモ仕方がナイ。それでモ……このまま避け続けるワケにはいかないかラ」  神狼は苦しそうに表情を歪めながらつけ加える。 「……紅家ガ《東京中華街》を追われた原因ガ、あの人……《導師(タオシ)》にあるなラなおさらダ」 「神狼……」  神狼は深手を負い、身動きが取れなかったこともあって、一か月前の《東京中華街》の動乱に関わることはなかった。  それでも彼は知っている。六華主人である紅神獄(ホン・シェンユイ)(ホワン)家当主である黄鋼炎(ホワン・ガイエン)が亡くなり、《東京中華街》が崩壊寸前になり、そして大勢の(ホン)家の人々が殺されて街を追われた一連の大事件の裏に、実兄である黒彩水(ヘイ・ツァイスイ)が関与していることを。  黒彩水は《東京中華街》を混乱に陥れた黒幕の一人だと言ってもいい。だからこそ神狼は弟として、兄の被害者となってしまった紅家の人々に責任と申しわけなさを感じているのだろう。  だが、《レッド=ドラゴン》の内情に通じている紅家の人々は当然、神狼(シェンラン)黒彩水(ヘイ・ツァイスイ)が血の繋がった兄弟だと知っている。神狼が紅家の人々に会いに行ったところで、素直に受け入れてもらえるだろうか。 「本当にいいのか? 紅家の人たちは神狼を歓迎してくれないかもしれない。それどころか拒絶されることだって……」 「構わナイ。神獄さまが亡くなったのハ、もとはと言えバ《導師(タオシ)》に火澄(かすみ)の存在ガ露見(ろけん)したかラ。俺が火澄ト一緒にいるところヲ、《導師(タオシ)》に見られてしまったからダ。だかラ、紅家ガ《東京中華街》から追放されてしまったのハ、俺にも責任があル。それに……俺だっテ、紅家の一員であることニ変わりはないんダ。『家族』ガ苦境に置かれているなラ、助け合うのハ当然のことダ」  神狼の眼差しに迷いはなく、まっすぐに深雪を見つめている。彼の意思は固く、何が起ころうとも受け入れる覚悟なのだ。 「……分かった。それなら一緒に行こう」  紅家と神狼の間に、過去にさまざまな行き違いや葛藤(かっとう)があったのは事実なのだろう。だが、その名に紅の字を冠している通り、神狼も(ホン)家の一員には違いないのだ。神狼はそこから逃げるのではなく、立ち向かうことを選んだのだろう。  そうであるなら、深雪も彼の選択を尊重したかった。  深雪と神狼が向かったのは新宿の北部に広がる荒涼とした一角だ。そこはかつて《進化兵》と東雲探偵事務所の《死刑執行人(リーパー)》が激しい戦闘を繰り広げた場所でもあった。  《進化兵》の攻撃は容赦がなく、街は圧倒的な力で破壊されていった。家屋はもちろん電柱や道路といったインフラや店舗、マンションのような大型集合住宅までことごとく破壊され、コンクリートの塊すら残っていない。  ただ、新しい『移住者』が居を構えるのには都合のいい面もあった。無人の土地だけあって、『先住民』との衝突や摩擦といったトラブルが少ないのだ。そのため《東京中華街》から逃れてきた紅家の人々は、その焦土と化した一帯を新たな拠点として暮らしていた。  とはいえ、紅家の人々の新生活は決して楽ではない。何もないところから一から生活を再建しなければならないのだ。再生への道のりは険しく、一か月が経過した今も衣食住が満ち足りているとは言い難い。  特に問題を抱えているのが住居であり、一帯にはそこかしこにテントが設置されていて、難民キャンプのような様相(ようそう)を呈していた。日増しに気温が低下していく《監獄都市》では、さぞ寒さが身に堪えるだろう。そのためか家人たちも濃い疲労を隠せないようだ。  深雪が神狼を連れてテント群に近づいて行くと、すぐにその中から見知った顔が近づいてきた。 「雨杏(ユイシン)さん!」  李雨杏(リ・ユイシン)(ホン)家の代表を務めている紅天若(ホン・ティエンルオ)の右腕だ。彼女は医療従事者で、今も体調を崩した人々の世話をしていたのだろう。胸ポケットから聴診器がのぞいている。雨杏はさっそく深雪に話しかけてきた。 「雨宮さん、今日も来てくれたんですか?」 「はい、天若(ティエンルオ)さんから連絡を受けたので」 「そうなんですか、ありがとうございます。それで、えっと……そちらの方は雨宮さんのお知り合いですか?」   どうやら雨杏は神狼のことを知らないらしい。思えば彼女の姓は『紅』ではなく『李』だから、もともと紅家の人間ではないのだろう。《東京中華街》では真澄(紅神獄)の専属医療スタッフとして働いていたと言っていたから、《監獄都市》に来たのはここ最近のことかもしれない。  彼女は神狼が《レッド=ドラゴン》を去ったあとに《東京中華街》へやってきたから、神狼のことを知らないのだろう。  ところが紅家の家人たちはすぐに神狼に気づいた。それもそのはず、血の繋がった兄弟だけあって、神狼(シェンラン)の顔立ちは黒彩水(ヘイ・ツァイスイ)とよく似ている。  同族を虐殺した男の顔を、そう簡単に忘れられるはずもない。誰かが「あっ!」と声を上げて神狼を指差したのをきっかけに、周囲がにわかにザワつきはじめる。 「おい、あいつひょっとして……」 「黒彩水……か?」 「いや違う、黒彩水にしてはやけに幼いぞ。弟じゃないか?」 「ああ、間違いない! 黒彩水の弟だ!」 「黒彩水……?」 「黒彩水だって!?」  あたりは瞬く間に不穏な空気に包まれていく。千人以上の憎悪や敵意のこもった視線が一斉に注がれ、深雪でさえも生きた心地がしなかった。この場には幾度となく足を運んでいるが、こんなことは初めてだ。  神狼は強張った表情で両手を握りしめつつ、それでも逃げることなく紅家の人々を見つめている。 「……」 「あの……? どういう……?」  神狼を知らない雨杏は、彼と紅家の間に横たわる因縁(いんねん)を知らないのだろう。いったい何が起こっているのかと戸惑うばかりだ。 (これは……やはり神狼を連れてきたのはマズかったか……!?)  早くも後悔する深雪だが次の瞬間、最も危惧(きぐ)していたことが起きてしまう。紅家の若者が急に立ち上がったかと思うと、神狼に石を投げつけてきたのだ。  神狼は身を翻して石を避けるものの、それを皮切りに紅家の家人たちも次々と石や缶や瓶などを雨霰(あめあられ)のごとく投げつけてくる。さすがにすべてを避けきることができず、とうとう拳大の石が神狼の額に直撃してしまう。 「クッ……!」 「神狼!」  神狼は小さく呻いて額を抑えるが、その指の隙間から真っ赤な血が滴り落ちる。それを見た深雪はぎょっとしてしまうが、紅家の家人はお構いなしに、口々に容赦のない罵声を浴びせかけるのだった。 「出て行け! 忌々しい殺戮者の一族が!!」 「お前の兄のせいで紅家は三分の二の家人を失ったんだぞ! みんな黒彩水の率いる暗殺部隊、《月牙(ユエヤ-)》に殺されたんだ!!」 「うちの娘も《月牙(ユエヤ-)》に殺された……あんなに優しい子だったのに! あの子が何をしたっていうの!? あんまりよ、ひどすぎる!!」 「俺の息子は来年、結婚を控えていたんだ!! 幸せになるはずだった……それなのに全部、黒彩水がぶち壊したんだ!!」 「(ズー)家の奴らはいつもそうだ! 《レッド=ドラゴン》の仲間を平気で手に掛ける!」  「なんて残忍で汚らわしいんだ! 反吐が出る!!」 「この人殺し! 殺人鬼め!! よくもこの場に顔を出せたもんだ!!」 「この上、私たちから何を奪おうってんだい!?」  紅家の人々の怒りはとどまる気配がなかった。悲鳴まじりの罵詈雑言(ばりぞうごん)とともに石やゴミが絶え間なく飛んでくる。 「やめてください! 神狼は(ヘイ)家の陰謀には関与してないんです! 神狼は何も悪くない!!」  深雪は神狼をかばいつつ必死で叫んだ。紅家の家人の怒りももっともだ。家族を殺され、住む場所を奪われ、納得できるわけがない。主犯の一人である黒彩水を憎む気持ちも、許せないと憤る感情もよく分かる。  だが、神狼には何も罪が無いのだ。彼が黒彩水と兄弟であるのは事実だが、少なくとも神狼が紅家に直接、危害を加えたわけではない。  紅家の人々が神狼に攻撃するのは、ただの八つ当たりに過ぎないと分かっている。分かっているからこそ、罵倒されても石を投げられても、神狼は反論することもなければ反撃すらしない。 「……いいんダ、深雪」 「神狼……でも!!」 「《導師(タオシ)》の行動ハ俺のため……俺たち(ズー)家の生き残りノ居場所を作るためダ。だかラ……紅家がこんなことになったのハ、俺にも責任があル。……彼らガ俺を憎むのも当然のことダ。紅家の一員としテ、《導師(タオシ)》の弟としテ……どんな責めでモ負うつもりダ」  唇を噛みしめてうつむく神狼の姿は、まるで罰を受ける罪人のようだ。紅家の人々が苛烈な反応をすることは、神狼も予測していただろう。彼らの怒りや憎しみがどれだけ理不尽なものだとしても、真正面から受け止めるつもりでいるのだ。 (神狼……そこまで覚悟して……!)
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