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第三十五話 冬空の下で
その時、突如として別の声が割り込んできた。目の前の少年と同じ声だが、口調がまったく違う。目の前の少年の口を介さず、どこか遠い彼方から響いてくる。
『残念ながら時間だ、《知識》。これ以上は《王国》にこちらの動きを悟られてしまう』
若干、柔らかく、大人びている声音。おそらく最初に《知恵》と名乗った彼のものだろう。
そういえば《知恵》のジョシュアは、最初に深雪と話した時も、『こちらの動きを《王国》のジョシュアに悟られるわけにはいかない』と言っていた。彼らは《王国》をひどく恐れているようだ。深雪は首をかしげる。
「《王国》……って人に見つかると不味いのか?」
すると《知識ダアト》がそれに答える。
「我々の中にも力関係は存在する。第10のセフィラを司る《王国》も当然あなたには興味を抱いているし、彼なら直接的な実力行使に出ることも考えられる。《知識》と十柱のジョシュア、その中で最も強い権限を持つのが《王国》だからだ」
「でも……《知識》、君は『神』なんだろ? 神様なら一番偉くて力があるんじゃ……」
「確かに我々は神の如き膨大な情報を有しているが、いつだって歴史を動かすのは人間自身だ。神ではない」
「……」
「だから、あなたも《王国》には用心した方がいい」
彼の言い分だと、《知識》は人間ではないことになる。《知識》とは高度に発達した人工知能が演算してはじき出した、宇宙性ウイルス粒子・《アペイロン》の疑似人格のようなものなのだろう。
深雪はそれでも構わないと思った。たとえ人間ではないとしても、《知識》も固有の自我と意思をあわせ持った知的生命体の一つなのだ。
「分かった。最初の君が《知恵》で、今の君は《知識》。警戒した方がいいのは《王国》……だね。教えてくれてありがとう」
《知恵》や《知識》が深雪と直接の接触を図ったのも、おそらく《王国》を警戒してのことなのだろう。彼らには彼らの、何やら複雑な事情がありそうだ。最後に《知識》は簡素な口調で告げる。
「今日のところは退く」
「ああ、またいつか会って話そう!」
深雪が頷いた瞬間、少年の姿はパッと手品のようにかき消える。同時に周囲の光景も、銀河系を思わせる宇宙空間から、いつもと変わらぬ事務所の屋上へと戻ってしまった。
夜空と満天に輝く星々。深雪以外は誰もいない屋上。嫌というほど見慣れた新宿の街並み。それらを目した途端、さまざまな音がどっと耳に流れ込んでくる。
風の音、繁華街の喧騒。そして《関東大外殻》の啼き声。
それが思いの外、大きく聞こえて、深雪はひどく驚かされた。先ほどまでいた空間との落差に、ジョシュアと名乗った少年――《知恵》と《知識》の二人と話したことが夢だったのではないかと思えてくる。
(でも俺のマフラーは無くなっているし、絶対に夢なんかじゃない……!)
深雪は自身の手の平を見つめた。遠い銀河の彼方からやって来たという、宇宙性ウイルス粒子・《アペイロン》。《知識》は人間が《アペイロン》に感染することでアニムスを得ると言っていた。それが本当なら、深雪の中にも《アペイロン》が存在していることになるのではないか。
《知識ダアト》の意思は《アペイロン》の意思――ひょっとすると自分はジョシュアという少年を介して、自身の《アペイロン》と対話していたのかもしれない。肉眼では見ることはできない、極小の構造体と。
そう考えると不思議な心地だった。壮大さと矮小さ、ミクロとマクロな問題が混在し、並存し合っている。それらは決して別個に存在しているのではなく、互いに影響を与え合っているのだ。
妙な感慨に浸っていると、腕輪型端末が着信を告げる。
「ねえ、深雪っち、さっきから一人でボーッとしてるけど大丈夫? 最近、やたらスケジュール詰め込んでるし、ちょっと疲れてるんじゃない?」
「俺が一人でボーッとしてた……?」
「そーよ。だってあたし、ずーっと屋上の監視カメラをチェックしてたから間違いないわよ」
「……。そう……」
ジョシュアという少年は、マリアの監視にも引っかからなかった。いや、マリアだけではない。深雪を除けば、誰もジョシュアを察知することができなかった。その深雪とてジョシュアを感知できたのは、彼が深雪に興味を持ったからにすぎない。
そうでなければ、永遠にジョシュア=シェパードと対話することは無かっただろう。
(本当にすごいな……圧倒的な存在感に、息を吐くように次々と繰り出されるアニムス……確かに『神さま』と言われても不思議じゃない)
深雪は《知識》と約束を交わした。また会おう、そして友達になろうと。《知識》や《知恵》も承諾してくれた。
だから、いずれまた会えるだろう。来るべき時が来れば、その時に。
物思いに耽っていると、そこへ足音が近づいてくる。深雪が顔を上げるとシロが屋上へ姿を現した。
「ユキ、こんなところにいたんだ!」
「シロ?」
夜だからか、シロはルームウェアの上にモコモコとした暖かそうなニットを着ていた。彼女は深雪のそばまでやって来ると、一緒に夜空を見上げる。
「お外は寒くなってきたねえ。息が真っ白……!」
「そうだな……」
「屋上で何をしてたの?」
「それは……」
その時、「オオオオオゥゥン……」と《関東大外殻》の発する地鳴りのような音が響いてくる。獣耳を小刻みに動かすシロに深雪は尋ねる。
「この音が何なのか、シロは知ってる?」
「ううん、知らない。でも昔から聞こえてくるよ。《ニーズヘッグ》のみんなは《関東大外殻》で秘密の実験が行われてるとか、内緒の工事が行われてるとか噂してたけど、シロは……」
「シロは?」と深雪が聞き返すと、シロは少し口ごもって続ける。
「あのね……シロはたくさんの仲間と一緒だったの。でも一人また一人といなくなって、最後はシロだけになっちゃった。シロはずっと仲間を呼び続けたけど……誰も帰って来なかった。あの音を聞いてたら、寂しかった気持ちを思い出して胸がきゅってなるの。あの音も誰かを呼んでいるのかなって……シロ、ヘンかな?」
「ヘンじゃないよ。俺もシロと同じことを感じていたから」
深雪が答えると、シロはとても嬉しそうに微笑んだ。夜気によって白くなった互いの息が、かすかな風に流されていく。
「前は一年に一回か二回だったのに、今はこの音が毎日、聞こえてくる……何かあったのかな?」
シロはそう言って首を傾げた。《ニーズヘッグ》の銀賀や静紅も同じことを言っていたが、最近の《関東大外殻》は異常だという。繰り返し聞こえてくる『声』がいったい何に起因しているのか、深雪には分からない。ただ、重大事の前兆のようにも思えてならない。
しばらくすると《関東大外殻》の音は止み、何も聞こえなくなる。しんとした静けさが戻ってきたところで、シロは用件を思い出したのだろう。
「あ、そうだ! お昼にオルがココアの粉をおすそ分けしてくれたの。それでね、海ちゃんがキッチンでココアを作ってくれてるんだよ。すっごく甘くていい香りなの! ユキも一緒に行こ!」
「ああ、そうしよっか」
深雪とシロの会話をマリアも聞いていたらしい。
「ココア!? マジ貴重品じゃん! あたしの分もあるよね? ね!?」
マリアの食いつきぶりに深雪は苦笑した。貴重なのはココアだけではない。日常品や食料品さえ不足している《監獄都市》では、嗜好品そのものが入手しづらい。
「じゃあマリアも一階に上がっておいでよ。たまには息抜きも必要だろ?」
「一緒にココア飲も、マリア!」
深雪とシロはそう誘ってみるが、マリアは何故か「むぐっ」と言葉を詰まらせた。
「むむむ……そうね、ココアのためなら……! でも慣れ合うなんてあたしのキャラじゃないし……!!」
意味不明な葛藤を繰り広げるマリアをよそに、深雪とシロは一階に降りた。ココア独特の甘く芳醇な香りが漂うキッチンに、エプロンをした琴原海が立っていて、こちらを振り返る。
「あ、おかえりシロちゃん。雨宮くんを呼んできてくれたんだね」
「うん! とっても甘い匂い……!」
「そうでしょ? ちょうど出来上がったところなの」
キッチンには陸軍特殊武装戦術群のニコと剣崎玲緒の姿もあった。シロが誘ったのだろう。深雪は二人に声をかける。
「ニコと玲緒も一緒なんだ」
「わ、私は……頼まれたから仕方なく付き合っているだけ!」
ニコはぶっきらぼうに答えるが、横から剣崎玲緒がぽつりとつぶやく。
「素直じゃない……ニコは甘いもの大好き」
「ははは、そうなんだ」
深雪が朗らかに笑うと、ニコは真っ赤になってしまう。
「れ……玲緒! 余計なこと言わないで!」
そう言う玲緒もココアには興味津々のようだ。人並外れた戦闘力を誇る彼女たちだが、甘いものに目が無いところは普通の少女と変わらない。そう考えるとどこか親近感が湧いてくる。
シロはキッチンから廊下を覗きながら言った。
「……それにしても遅いね、マリア。シロ、迎えに行ってくる!」
「俺も行こうか?」
「二人で迎えに行けば、きっとマリアもあきらめるよ!」
シロはなかなかに容赦のないことを言いながら、にこっと笑う。
(……。シロってけっこう押しの強いトコあるよな。彼女の強引さに俺も何度も助けられたし、励まされたけど)
苦笑いしつつ、深雪はシロと共にエレベーターへ向かう。その道中、ふと考える。
(ジョシュアと名乗った少年との邂逅……あれは何かの予兆じゃないかって気がする。この世界で確実に何か起きつつあるんだ。それは決して《監獄都市》も無関係じゃない)
《監獄都市》は《関東大外殻》という壁に囲まれ、外界から遮断されているせいで、世の中の動きが把握しづらい反面、その影響も受けにくい。
それでも世界は確実に変化している。陸軍特殊武装戦術群の雨宮マコトや碓氷の言動の変化。《知恵》や《知識》と名乗る不思議な少年の電撃的な来訪。その片鱗は端々から感じられる。
《監獄都市》でも《東京中華街》事変の混乱が収束しつつある一方で、《新八洲特区》から不穏な話が漏れ聞こえてくることが増えた。もともと跡目争いといった組織内の不和が囁かれていた上松組の影響が、《中立地帯》のストリートにも及びはじめている。
この平穏はそう長くは続かない。何かが起きれば、あとは雪崩を打ったように激変していくだろう。
それまでにやれることは全てやっておかねば。深雪は決意を新たにするのだった。
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