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第三十六話 葛藤する『システム』
一方、《知恵》のジョシュアは《関東大外殻》の真上に立ち、灰色がかったその青い瞳で《監獄都市》全域を見下ろしていた。
吸い込まれそうな闇夜には満天の星々、その下に広がる街にも人工の灯りが星のように輝いているのが見える。
その灯りの下に一つ一つ、生命の活動が営まれているのだ。天の星々一つ一つが壮大なる規模で活動しているのと同じように。
そんな地上の光を目にしていると、《知恵》のジョシュアはいつも不思議な郷愁、そして強烈な愛おしさを覚えるのだった。
人間ではない自分が、人の世に郷愁を覚えるのは何故だろう。地上の光を目にしていると、遠い宇宙の記憶が蘇るからだろうか。
《知恵》のジョシュアの首元には、先ほど雨宮深雪がくれた萌葱色のマフラーが巻いてあった。《関東大外殻》の上はかなりの高さがあるため、非常に風が強い。《知恵》のジョシュアはマフラーが風に飛ばされてしまわないよう片手で押さえる。
(あれが雨宮深雪……《雨宮=シリーズ》の六番か。なるほど、斑鳩夏紀がほだされるわけだ。あんなどこにでもいそうな少年が、僕たちを脅かしかねない存在だなんて。まったく、この世界は何がどう転がるか分からないものだな)
それを言うならジョシュア=シェパードも同じだった。ウオール街で名の知れた投資家兼コンサルタントにすぎなかった彼が、世界を統べる『神』になろうとは、いったい誰が予想しただろう。
(いずれにせよ、僕の目的は変わらない。僕たちはより完成された存在にならなければならないんだ。《王国》を克服し、余計な個性を除去し、普遍性と持続性を獲得する。そのためなら我が身を滅ぼしかねない脅威すら取り込んでみせる……!)
(きっと《知識》もその選択に賛同してくれるだろう。いや……そうせざるを得ないはずだ。何故なら――『我々はあなた達であり、あなた達もまた我々である』からだ。僕たちは同じ船に乗り合わせてしまった運命共同体なのだから……!)
さすがの《知恵》も、深雪と出会った時のように《知識》を『インストール』することは滅多にない。理由のひとつとして、《知恵》の脳が《知識》の負荷に耐えきれないからだ。
『この世界を統べる最高位のシステム』を自任する《シェパード=シリーズ》でさえ、長時間は持ち堪えられないほど《知識》の情報量は膨大だ。
ビュオ、と吹き抜ける風に煽られ、マフラーがはためく。なおも街を見つめ続ける《知恵》のジョシュアに突然、声をかける者があった。
「ここで何をしている?」
「やあ、《王冠》のジョシュアじゃないか。久しぶりだね」
《知恵》は背後を振り返り、微笑する。彼の真後ろ、同じ《関東大外殻》の真上に四十代ほどの男性が立っていた。
《知恵》のジョシュアと同じ髪と瞳の色、黒いスーツとタートルネックという服装もまったく同じだ。《知恵》のジョシュアが年を重ねれば、こうなるであろう姿をしている。
特徴があるとすれば、《知恵》に声をかけた中年男性は口ひげを蓄えている。彼は第1のセフィラを司る、ジョシュア=ケテル=シェパード。通称、《王冠》のジョシュアだ。落ち着いた見た目の通り、十柱のジョシュアの中でもとりわけ寡黙で物静かな性格だ。
《王冠》は静かに口を開く。
「……どうした、マフラーなどして? 体温調節などアニムスでどうとでもなるだろう。そうしていると《原初の人類》みたいだぞ」
《王冠》の言う《原初の人類》とは、《アペイロン》に遭遇する前の旧人類を指す。アニムスを発現していない、旧人類に限りなく近い人々を意味することもある。
「いいじゃないか、たまには。僕たちのような高次の体系的生命体にも遊び心は必要だよ」
証左
「……そういうものか」
「そういうものさ」
《知恵》のジョシュアは肩を竦めて答えた。それから、どこか悪戯っ子のような挑発的な微笑を浮かべて《王冠》に尋ねる。
「君こそ、どうしてここへ? 《王国》に僕を見張れとでも命令されたのかい?」
「……」
《王冠》は何も答えなかった。返答に窮しているのだ。それは《知恵》の指摘が図星であることのだった。
無理もない。《王冠》は最も《王国》に信頼されているジョシュアなのだから。《知恵》は気分を害すことなく、にこりと笑った。
「……冗談だよ。さあ、行こう。ここでサボっていたのがばれたら《王国》に叱られてしまう」
「サボっていた? わざわざこんなところまで来たのも、そのためか?」
「《王国》には内緒だよ」
そう告げる《知恵》は内心で確信する。《レナトゥス》の保持者である雨宮深雪と接触したことは、《王国》や《王冠にはまだ悟られていないのだと。
十柱のジョシュアが得た情報は全て《知識》に集約され、共有されるが、中には例外もある。
ごく短時間で取得した優先度の低い情報は、他のジョシュアに共有されることなく廃棄されるのだ。たとえば時候の挨拶やたわいない雑談まで逐一、蓄積していたら、世界中のネットワークに接続し、昼夜問わず莫大な量の情報を収集している《知識》といえどもパンクしてしまう。
《知恵》はそんな《シェパード=シリーズ》の特性を逆手にとって、雨宮深雪と接触を図ったのだ。
だから《知恵》や《知識》が雨宮深雪と会話をしたことは、今はまだ他のジョシュアには伝わっていない。
雨宮深雪の存在は《王国》も当然、知っているが、彼はまだ動き出すつもりは無いようだ。だから《知恵》たちは《王国》より先に、多少の危険を冒してでも雨宮深雪に会っておかなければならなかった。
その甲斐あって、秘密裏に目的を果たす事ができたが。
その時、《関東大外殻》からオオオオオン、と地鳴りのような咆哮が響き渡ってくる。《壁》の真上に立っていると、まさに地面が揺れているかのようだ。《知恵》はつぶやく。
「……悲しい声だね」
しかし《王冠》は理解できないとばかりに眉根を寄せ、首を傾げるのだった。
「声……? 僕にはただの音にしか聞こえないが」
それを聞いた《知恵》は微笑んだ。悲しみと失望、そして寂しさを灰青色の瞳に湛えて。
《王冠》と《知恵》は同じ『ジョシュア=シェパード』だが、それぞれの思想や性格、行動原理には大きな差がある。《理解》、《峻厳》、《勝利》といった《シェパード=シリーズ》にしても、それぞれの思惑を抱え、個別に動いている。
同じクローンであるはずなのに、何故、こうも個性が生まれてしまうのか。どうして、互いの違いに葛藤と苦悩を抱いてしまうのか。《知恵》はそれがもどかしくてならなかった。
《知恵》は常々、不思議に思う。自分たちが『この世界を統べる最高位のシステム』であり、高次の体系的生命体であるのなら、個別の意思など必要ないはずだ。
全ての情報は《知識》に集約され、瞬時に並列化し、《シェパード=シリーズ》へと共有される。そうであるなら、『子機』である自分たちの個性など不純物に過ぎないのではないかと。
なのに、どうして《シェパード=シリーズ》には『個』が存在しているのだろう。それでは人間と何ら変わりがないではないか。『個』があるが故に《シェパード=シリーズ》の円滑な意思決定が阻害され、『個』の存在が『最高位』であるはずのシステムにとっての欠陥になりはしないか。
考えれば考えるほど納得がいかない。
いずれにせよ、それは《シェパード=シリーズ》が未だ完成された存在ではないことの、残酷なる証明でもあった。
「……そうか。そういうものかもしれないね。僕の言った事は忘れてくれ」
《知恵》は雨宮深雪のくれた萌葱色のマフラーにそっと右手を添えると、《監獄都市》に背を向けて歩き出す。《王冠》は逡巡したものの、すぐに後をついてきた。
そして《王冠》のジョシュアと《知恵》のジョシュアの瞳に赤い光が瞬いたかと思うと、二人の姿はかき消えてしまった。
あとに残ったのは、嗚咽を漏らす巨大な《関東大外殻》のみだ。
それから一週間後。《アラハバキ》の御三家である上松組組長・上松将悟が逝去する。
それは《監獄都市》に新たな危機が忍びよる前触れでもあった。
《第12章 終わり》
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