35人が本棚に入れています
本棚に追加
だからと言って紅家の家人たちが手加減などするはずもなく、憎悪のこもった怒声を神狼へと浴びせてくる。
「目の前から失せろ、この人殺しめ!」
「帰れ! 今すぐここを出て行け!!」
「二度とあたしたちの前に姿を現すな!!」
そう言って石やら鉄屑やら手当たり次第に神狼へ投げつける。一つ一つは小さくても、二千人近い人々から一斉に投擲されれば、さすがに命に関わりかねない。どれだけ神狼の覚悟が固まっていようと、深雪は見過ごすわけにはいかなかった。
「や……やめてください! 神狼を責めたって何の解決にもならない! みなさん冷静になりましょう!!」
ところが紅家の人々は興奮しきっているのか、深雪の言葉に耳を貸す者はいない。
「どけ! そいつをかばうなら、お前も同罪だぞ!!」
「そうだ! いったい誰のせいで、あたしらがこんな目にあってると思ってるんだ!!」
「それともあれか!? お前も結局、口先で上手いことばかり言って、最後には紅家を裏切るつもりなのか!!」
「ち……違います! 決してそんなつもりじゃ……」
不毛な押し問答に突入しかけたその時、騒ぎを一喝する声がその場に響き渡る。
「おやめなさい!! いったい何をしているの!!」
声のしたほうを見ると、厳しい表情をした紅天若がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
紅家のまとめ役である天若は毎日、各テントを行き来して家人の相談事を聞いて回っているのだが、その巡回中に騒ぎを聞きつけたのだろう。天若の姿を目にして、さすがに紅家の家人たちも水を打ったように静まり返る。
「天若さん……!」
「けどよ、こいつらが!」
何人かが反論の声を上げるものの、天若はぴしゃりと叱りつける。
「お黙りなさい!! 雨宮さんはこれまで行き場のない私たちのために尽力して下さったのよ!! 敵地も同然の《中立地帯》で、土地も家もすべての財産を失った私たちに手を差し伸べてくれたのは、雨宮さんと東雲探偵事務所だけ……! それを一時の感情に流されて……自分たちがどれほど愚かで恥知らずな真似をしているか分からないの!?」
「……!!」
「それに神狼は私たちの『家族』よ。彼にどんな経緯があろうと……たとえ黒彩水の実弟だとしても、紅家に名を連ねている以上、身内として迎え入れるのは当然のこと。これは亡き紅神獄さまのご遺志でもあるのよ。それなのに……あなた達は事もあろうか神獄さまの顔に泥を塗るつもりなの!? 頭を冷やして自分たちのしたことを今一度、じっくりと反省なさい!!」
「……」
凄まじい剣幕で天若に怒鳴られ、さすがに紅家の家人たちも意気消沈し、しょんぼりと肩を落とす。彼らとて道理を理解してないわけではないが、どうしても怒りを抑えることができなかったのだろう。それほど肉体的にも精神的にも追い詰められているのだ。
彼らの苦しい心情を察してか、天若は幾分か表情を和らげると、困った子どもをなだめるような口調で続けた。
「今後、二度とこのような暴挙は許しませんよ。さあみんな……持ち場に戻って」
すっかり毒気を抜かれたのだろう。家人たちはめいめい散らばっていく。さっきまで怒り狂い、殺気立っていたのが嘘のように彼らの足取りは重く、その背中には濃い疲労が浮かんでいる。
神狼に物をぶつけるのは許せないが、家人たちの疲れ果てた姿を見ると、深雪は気の毒だという気持ちが沸きあがってくる。彼らがこの街で暮らしていけるよう、どうにかして生活の基盤を整えなければ。
その場に深雪と神狼、雨杏と天若が残ると、天若は深雪に向かって申し訳なさそうに頭を下げる。
「……ごめんなさいね。みな慣れない環境でストレスが溜まっているのよ」
「気にしないでください。俺も事情は分かっているつもりです」
「ありがとう。みなには私からよく言っておくわ」
天若は安堵を滲ませて頷くと、次に神狼へと視線を向けた。わずかに身を固くする神狼に構わず、天若は懐かしそうに微笑んで神狼の手を取ると、そのふくよかな両手でぎゅっと握りしめた。
「それから……あなたは神狼ね。ちょうど五年ぶりくらいかしら。すっかり大きくなって……よく来てくれたわね」
「お久しぶりでス、天若さん」
「あなたにも申し訳ないことをしてしまったわね。ごめんなさい、神狼。家と家の事情……大人の都合のせいで辛い思いをさせてしまって……本当に可哀想なことをしてしまったわ。良かれと思ってしたことだけど、完全に逆効果になってしまったわね。けれど神獄さまは、ずっとあなたのことを気にかけていらっしゃったのよ」
「いエ……謝らなければならないのハ俺のほうでス。紅家ハ俺を家族としテ迎え入れてくれたのニ、俺は応えることガできなかっタ。神獄さまガ亡くなられた時モ、何もできなくテ……!」
「いいのよ……こうして顔を見せてくれたのだもの。みんなはまだ、あなたのことを誤解しているけれど、いつかきっと分かってくれる。だからあなたも皆を恨まないで……どうか私たちに力を貸してちょうだいね」
「是! 俺にできることなラ、何でモ!」
他の家人たちと違って、天若は神狼にわだかまりを抱いていないようだ。紅神獄の側近だった彼女は黒彩水への憎しみよりも、紅神獄への忠義を重んじているのだろう。
二人のやり取りを目にした深雪はほっと胸をなでおろす。紅家の家人が神獄を受け入れるのはまだ難しくても、まとめ役である天若は神狼を歓迎してくれた。彼女を通して少しずつ神狼と紅家の関係が改善されていけば良いのだが。
「それで……改めて相談って何ですか?」
深雪が切り出すと、天若は途端に困り果てた顔をした。
「以前も少し話をしたと思うのだけど……いよいよ物品や資材の不足が深刻になってきているの。《監獄都市》の冬はこれからが本番でしょう? 本格的に寒さが厳しくなる前に、住居の建築資材や暖をとるための燃料、食料や衣料を調達しなければならないのだけれど、その目途が立たなくて困っているのよ」
紅家の家人が集まっている新宿北部は難民キャンプと化していた。プレハブ小屋ならまだいいほうで、風が吹けば飛んでいきそうなビニール製のテントが周辺一帯を埋め尽くしている。
住居にも困っているくらいだから、暖房設備の入手にも苦労しているらしく、野外で焚火を熾して煮炊きしたり、暖を取っている者の姿があちこちで見られる。この様子だと排泄処理や洗濯、ゴミ捨てなどの衛生管理にも大変な思いをしているだろう。それを裏付けるかのように雨杏の言葉が続く。
「医療物資も尽きかけています。お年寄りや幼い子どもの中には、寒さや避難生活のストレスで体調を崩している者もいるんです。それなのに薬が足りないせいで十分な治療もできなくて……このままでは冬を越せません」
「それは確かに深刻ですね……」
《中立地帯》は《監獄都市》の中でも貧しい地帯だ。《東京中華街》のような観光収入もなければ、《新八洲特区》のようにみかじめ料を納めるための会社組織があるわけでもない。新宿から東側、《ストリート=ダスト》の集まる裏路地は子どもや若者が多く、常に貧困が蔓延している。
そんな《中立地帯》においても紅家の置かれた状況は悲惨で、貧困うんぬんではなく、もはや生き延びるのが困難なレベルだ。お年寄りや子どもが途方に暮れたように佇んでいるのを見ると、深雪は胸が締めつけられる。
天若や雨杏の言う通り、早く手を打たなけれ大勢の命が失われることになってしまう。天若は表情を曇らせてつぶやいた。
「こうなる事は予想できたから、持てる物はみな《東京中華街》の紅家邸から持ってきたけれど……それもすっかり使い果たしてしまったし。本当に『金』だけあっても、『モノ』が無ければ世の中どうにもならないわね……」
「……」
最初のコメントを投稿しよう!