38人が本棚に入れています
本棚に追加
どのぐらいの時間が過ぎたか──、雨濡れた石の外床を踏む音が聞こえ、間もなくチャイムが鳴らされた。俺はフッと一つ息を吐き、インターフォンには出ず、タオルを二枚持って玄関の扉を開けた。そこには頭髪が薄く、恰幅の良い五十絡みの男性と、その背後に理美の青ざめた顔があった。
「失礼。茶村幹人君だね。私は坂井理一郎という。今日は君に話があって来た。中に入れてもらえるかな。雨がひどくて、立ち話では濡れてしまう」
言うように理一郎氏のスラックスは、跳ね返りの雨で随分と濡れていた。革靴だけが異様に水を弾き、薄い光に照らされて安っぽいピエロになってしまっている。
「何のお構いも出来ませんが、とにかく中へどうぞ。すぐにコーヒーをご用意します。お話はそれからじっくり聞かせていただきます」
俺が退いて空間を作ると、坂井父娘は玄関の中に入ってきた。用意してあったタオルを渡す。二人はそれぞれ服や手を拭いてから室内に上がり込んだ。
案内は理美がやってくれるだろうと思い、俺はキッチンでコーヒーを淹れた。ブラック派の俺とは対照的に、理美は砂糖とミルクがなければ飲めない。父親の好みも分からないため、戸棚にあったそれらを小皿に載せて運んだ。学生時代に飲食店でバイトしていたおかげで、盆を持つ手も慣れた手つきに見えたろうと思う。
「どうぞ。上等なものではありませんが、よろしければ」
テーブルの上に三つのカップを置いた。俺と理美では少しゆとりがあったソファも、理一郎氏が座っただけで非常に窮屈な安物に成り下がっている。
彼もブラック派なのか、味を試すためにか、出されたままを一口飲んだ。場に墓参りでもしているかのような苦い沈黙が降り、数拍置いて、彼は言った。
「香りは良いが、深みが足りない。ただ、喉越しは悪くない」
そもそも美味いなどと言ってもらえるなんて思っていなかった。これでも気を遣ってくれたのだと受け取り、俺は一言断って、二人の向かいに腰をおろした。
最初のコメントを投稿しよう!