狐が愛した初猫は

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 どのぐらいの時間が過ぎたか──、(あま)()れた石の()(どこ)を踏む音が聞こえ、間もなくチャイムが鳴らされた。俺はフッと一つ息を()き、インターフォンには出ず、タオルを二枚持って玄関の扉を開けた。そこには頭髪が薄く、恰幅の良い五十絡みの男性と、その背後に理美の青ざめた顔があった。 「失礼。()(むら)幹人君だね。私は坂井()(いち)(ろう)という。今日は君に話があって来た。中に入れてもらえるかな。雨がひどくて、立ち話では濡れてしまう」  言うように理一郎氏のスラックスは、跳ね返りの雨で随分と濡れていた。革靴だけが異様に水を弾き、薄い光に照らされて安っぽいピエロになってしまっている。 「何のお構いも出来ませんが、とにかく中へどうぞ。すぐにコーヒーをご用意します。お話はそれからじっくり聞かせていただきます」  俺が退()いて空間を作ると、坂井(おや)()は玄関の中に入ってきた。用意してあったタオルを渡す。二人はそれぞれ服や手を拭いてから室内に上がり込んだ。  案内は理美がやってくれるだろうと思い、俺はキッチンでコーヒーを淹れた。ブラック派の俺とは対照的に、理美は砂糖とミルクがなければ飲めない。父親の好みも分からないため、戸棚にあったそれらを小皿に載せて運んだ。学生時代に飲食店でバイトしていたおかげで、盆を持つ手も慣れた手つきに見えたろうと思う。 「どうぞ。上等なものではありませんが、よろしければ」  テーブルの上に三つのカップを置いた。俺と理美では少しゆとりがあったソファも、理一郎氏が座っただけで非常に窮屈な安物に成り下がっている。  彼もブラック派なのか、味を試すためにか、出されたままを一口飲んだ。場に墓参りでもしているかのような苦い沈黙が降り、数拍置いて、彼は言った。 「香りは良いが、深みが足りない。ただ、喉越しは悪くない」  そもそも()()いなどと言ってもらえるなんて思っていなかった。これでも気を遣ってくれたのだと受け取り、俺は一言断って、二人の向かいに腰をおろした。
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