狐が愛した初猫は

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「理美と別れてほしい。手切れ金は渡す。私は愛だの恋だの誠意だのに(ほだ)されたりしない。互いの利をもって円満に終わらせよう。二千万でどうだろうか」  理美が、わっと声を上げて泣き出した。俺は彼女のためにも折れない。いいえ、と首を振る。 「その程度の(カネ)で理美さんへの気持ちが薄れるわけがないでしょう」  すると彼は、 「では、四千万ではどうかな」  と訊いてきた。俺は再び、いいえと首を振った。 「先ほどのお話と整合性が取れません。あのお話が単なる自慢話になってしまいます」  理一郎氏が怪訝そうに眉根を寄せた。 「君は何が言いたいのかね。四千万なら、十分すぎる額だろう」  年収五百万にも届かない俺にとって、確かにそれは巨大な金額だ。しかし、だからと言って、簡単には引き下がれない。 「互いに利を追求するならば、貴方(あなた)が痛いと思う額でなければ話になりません。貴方は出せる金額を言っている。おそらく五千万が限度と(たか)(くく)っておられたのでしょう。とすると、こちらが涙を呑んで理美さんと別れるのに必要なのはその三倍。一億五千万が、互いに譲歩する最低ラインだと思います。誠意を金で表すのでしたら、これぐらいは見せていただかないと、僕は絶対に納得しません」  しばらく睨み合いのような状態が続いた。俺は決して目を逸らさない。睨み殺すつもりで彼の瞳を見つめた。理美はずっと泣いている。その(ない)(かい)を察すればこそ、()()たる譲歩はできやしない。  やがて理一郎氏が、(ひと)(うな)りし、呟くように「分かった」と言った。 「娘の幸せを、その額で買おう。但し、二度と理美に近づくな。もしもこの約束を守らなければ、私は君に然るべき(つう)(ぼう)を食らわす。五体満足で生きていけると思うなよ」  そして、彼は小切手に「金壱億伍仟萬圓也」と書き込んだ。苦々しく小切手帳からそれを切り離し、俺に手渡してくる。 「……本当に悔しいのは僕ですよ。でも、貴方の誠は見せていただきました」  俺はそう言って、彼に一言断り、泣き続ける理美の前に膝をついて彼女の手を取った。 「守り切れなくてごめん。……どうか幸せに。それだけを願ってる」  言ったところで理一郎氏が勢いよく立ち上がり、強引に理美の腕を掴んで部屋から出て行った。彼女の最後の言葉さえ聞けなかった。俺は荷物でも置くようにその場に座り込み、何とも言えぬ感情で少しだけ泣いた。
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