空の箱

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それからまた数年後・・・はっきりと思い出せない記憶のことを気にすることもだんだんとしなくなり、あまり思い出すこともなくなってきた頃のこと。 私は穏やかで信頼できる相手と恋愛をしていた。 そして昔と違って友人や周囲の人たちと関係も深く考えることが多くなり、付き合い方が変わってきていた。 出会った人達や色々な経験を経て、人と付き合う上で重要な事は何なのかを自分なりに試行錯誤して見つけてきたからだった。 自分自身の日々の生活や心の持ち方もゆったりやるようにしていこうと心がける様になり、自分と向き合うことが増えて、それまで知らなかった自分の面や、以前ならば、なるべく見たくない様な自分の部分とも向き合うことができるようになってきていた。 そんな中で急にあの電話のイメージが思い浮かんだ。 これは何年振りかで思い出すことができるチャンスかもしれない。 今なら何を言っているのかも聞き取れそうな気がして、 集中して記憶を探ろうとした。 捕えようと強く思うと消えてしまいそうなイメージを、 逃げて行ってしまいそうな記憶の断片を必死に掴まえようとするみたいに、何度も浮かんだイメージを少しでもはっきりさせようと繰り返し反芻してみる。 時々霞んでしまいそうになる記憶は、まるでこっそりどこかに隠れてしまおうとするみたいで、不安になったりしながらも、ひたすら意識を集中して、静かにそして注意深く細部まで思い出せるようにと祈りながらイメージを辿ってみた。 するとまたあの電話とあの部屋の白い壁が見えてきて、 今度は電話をしている自分自身も見えるような気がしてきた。 そして、あの時、自分は感情を高ぶらせて電話をしていたことを思い出し始めた。 そうだ、あの時・・・私は電話の相手に自分の気持ちをぶつけながら、泣きそうになるのを堪えながら話していたんだった。 あの当時、付き合っていた彼とだんだんと上手くいかなくなっていて、 私は彼を好きな気持ちがありながらも、もうこのまま付き合い続けても先は望めないだろうという予感を感じていた頃で、 あの電話で彼と話しているうちにそれが決定的になるような言葉を聞いて、 とてもがっかりしたのだった。 もうこの人とは一緒にいられないのだと分かってしまって、相手への罪悪感や自分の彼を想う強い気持ちをどう処理していいのか分からずに混乱して、自分を襲ってきた色んな感情と戦っていたのだった。 そのことを思い出すと、やっとその時の感情がするすると流れ出てきて、どんな気持ちでどんなことを言っていたのか思い出してきた。 それまではまるで夏の長い日照りのせいで川底まで完全に乾ききっていた川が、自分が川だったことをずっと忘れていたけれど、久々に水がやってきたことで川だったことを思い出したかの様な感覚だった。 乾いた川底が少しずつ流れてくる水を受け入れていくように私も自分の気持ちを少しずつ感じていった。 以前はイメージを見てもなにも思い出せず感じられなかったけれど、 思い出す感情はゆっくりと私の乾燥してガチガチにひび割れていた心の感覚を濡らして、次第にそれは水かさを増し、雨の後の渓流のように勢いよく流れてきた。 そして私はやっとその時の自分の気持ちが感じられるような気がしていた。 感情の流れが感じられる様になったら、あの時の自分はものすごい強い感情を持って相手に話をしていたんだった、そして言いたくても飲みこんで言えなかった言葉もあった・・・そんなことを実感を伴いながら思い出していた。 その時の自分が感じた悲しみや苦しみ、切なさや怒りが入り混じったものがやっとどんなものだったのか、心の記憶の箱の中から噴き出してくるのが感じられた。 最初は怖いとも感じたが、思い出せたこと、それを思い出して再び感じられたことへの安堵感も少しずつ感じていった。 その感情の中身は綺麗なものとは程遠いものだったけれど、当時の自分のありのままの感情だった。 その感情に触れたことで心が動き出したのか、気が付かないうちに、さらさらと涙が静かに頬をつたっていくのがわかった。 それからしばらくして突然の感情の波を感じて嗚咽気味になりどうしていいか分からずただ心の感じるままに、自分が心と体がしたいように任せて力を抜いて泣きたいだけ泣き続けた。 どのくらい泣いたんだろうか・・・。色々な事をひとつずつ思い出すたびに、出たり止まったりする涙と、とめどなく湧いてくる感情と、どのくらいの時間向き合っていたんだろう・・・。 長い時間が経った後、私は疲れ切って抜け殻の様になっていた。 けれど以前と違うのは自分の存在を空虚な感覚でなく、実感を持って感じられるということ、そして今までずっと持っていた毒気の様なものが抜けているのを感じることができた。 そしてそのことでほっとすることができたのだった。
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