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マイが一階の和室に入ると、祖母のマサミが正座をして仏壇に手を合わせていた。マイは足音に注意して、そして自分が近づいていることを分からせるように、足の裏を畳に少し擦りながらマサミの横へ行き、ちょこんと腰を下ろした。
まだ幼い彼女は見上げるようにして祖母の顔を見た。深いしわが刻まれているが、肌は白く綺麗だ。マイはマサミが自分の方を向いてくれるのを静かに待った。
「マイちゃん、どうしたの?」
両手を腿の上において、目を開いたマサミはマイに尋ねた。
「べつに、なにもないよ」
そう言うと、マイはじっとマサミを見た。ただ単にマサミにかまって欲しくて来ただけのようだ。
「ねえ、おばあちゃん」
「なに?」
「これ、にくじゃが?」
マイは仏壇に供えた小皿に乗った料理を指差した。
「そう。肉じゃがだよ。食べたい?」
「ううん、いらない」
マイは首を振った。
「いらないのね」
そう言うとマサミは笑った。あまり美味しそうじゃないかな、そう思った。
「どうして、にくじゃがなの?」
「ん?」
「前はさ、おかしとか、りんごとかだったじゃん」
「ああ、そうだね」
「どうして?」
「肉じゃがはね、おじいちゃんが好きだったのよ」
「ふうん」
マイは腑に落ちない表情をした。
「この前おじいちゃんがいなくなって、三年になったでしょ?そう思ったらなんか急に作りたくなって」
「天国のおじいちゃんに食べてほしいの?」
マサミはニッコリ笑って、
「そうだね」
「ふうん」
マイは仏壇の中に立ててある自分の祖父の写真をじっと見つめて、
「ねえ、おばあちゃん、庭に行こうよ。キクの花が咲いてきれいなんだよ」
そう言ってマサミの服の袖を引っ張った。二人は仏壇を後にした。
マサミの夫、アキラが亡くなったのは病院への入退院を繰り返した後の事だった。マサミは出来る限りの事はしたつもりだった。看取りに対する後悔はなかった。
寂しくはあったが、同居する長男夫婦と孫の存在が彼女の悲しみを和らげた。伴侶を失くす悲しみはこんなものかな、と思って三年がたった頃、マサミは急に昔を思い出して肉じゃがを仏壇に供え始めた。
肉じゃがは確かにアキラの好物だった。だが結婚後マサミが肉じゃがを食卓に乗せたのはそんなに多くはなかった。そしてある時期から一切彼女は肉じゃがを作らなくなった。
その日の夜、マイと母親のお風呂の中での会話。
「ねえ、おかあさん」
「ん?」
「おじいちゃんは、にくじゃが好きだったの?」
「なんで?」
「ぶつだんにいつもおいているから」
「そうだね。なんか最近よく作ってるよね」
「すきだったの?」
「んー、それがねえ。私にはそんなイメージ無いんだよね」
マイは黙って母親の顔を見ている。
「食事はほとんど私が作っているから、何回も肉じゃがは作ったけど、そんな美味しそうに食べてた感じはないんだよね。いつも残さず食べてくれたけど、でもそれは他の料理もそうだったし…」
「ふうん」
「きっと、おばあちゃんの作った肉じゃがが好きだったんだろうね」
「そうなのかな」
「だと思うよ」
「お母さんは食べたことある?」
「いや、ないなあ…。何で急に作り始めたんだろ」
会話は止まり、二人は自然と水滴の付いた風呂場の壁を眺めた。
マサミは週に一度ほど肉じゃがを作り、それを冷蔵庫で保存して少しづつ仏壇に供えた。朝にお供えをして、それから数時間後に自分で食べた。それを毎日繰り返してもう三か月が経つ。
マサミは仏壇の中のアキラに心の中で話し掛ける。いつも同じ事を。
アキラとマサミは結婚した後、三人の男の子に恵まれ、集合住宅で子供を育てた。
マサミは専業主婦だった。アキラは仕事で忙しくいつも家に帰るのは夜の十時を超えていた。家事は全てマサミが担っていた。
アキラは休みの日には必ず息子たちを連れて出かけた。その日は子供たちは疲れてすぐ寝てしまうため、その時だけマサミは少しだけ気を緩めることが出来た。アキラは良い夫に違いなかった。
そんなある日、仕事で夜遅く帰って来たアキラに、いつものようにマサミは夕食を出した。アキラの好きな肉じゃがだった。この日は我ながら上手く出来たと思っていた。
夫は家族のために一所懸命働いている。それはよく分かっていた。でも毎日毎日たった一人で、まだ小さい我が子達と対峙する辛さが限界に来ていた。その苦労を知らずに美味しそうに肉じゃがを食べる夫を見て、つい思わぬことを口に出してしまった。
「おいしい?」
マサミが聞くと、アキラは笑顔で、
「おいしいよ。実家の肉じゃがは汁を煮切っちゃうんだけど、少しボソボソしてあまり好きじゃなかったんだ。少し煮汁が残るこれぐらいが丁度いい」
「今日はなんか上手くできたの」
「そうか。確かにいつもより美味しい気がする」
そう言って、アキラはぱくぱく肉じゃがを食べる。調子に乗ったマサミは敢えて嬉しそうに、
「昔付き合った人にも作ってあげたことあったんだけど、その人も美味しいって言ってたよ」
その言葉を聞いた途端、アキラの箸は止まった。
しまった、マサミはそう思ったがもう遅かった。肉じゃがには二度と箸をつけずにアキラは食事を終え、何も言わずに寝室へ向かった。
皿を下げ終えた台所でマサミは、アキラの残した肉じゃがを口に運びながら涙をぼろぼろ流した。
嘘をついた。自分の手料理を食べた男性はアキラ一人だ。
嗚咽で肉じゃがが逆流するのを無理やり喉の奥へ押し込んだ。涙はやがて口の中にも入り、肉じゃがと混ざった。
次の日、アキラはいつもの彼だった。何事もなかったように生活は続いた。
それから一カ月がたった頃、アキラが機嫌が良い日を見計らってマサミは再び食卓に肉じゃがを出した。しかしアキラはそれには一切箸を付けなかった。その日以来、マサミは肉じゃがを作らなくなった。謝ることもできなかった。
やがて息子夫婦と同居するようになり、嫁が初めて肉じゃがを食卓にあげた時、アキラは何のためらいもなく食べた。それを見て、マサミは心底ホッとした。しかし後悔の念は決して彼女から消えなかった。
仏壇の中の、写真のアキラは微笑んでいる。マサミは今日も肉じゃがを供え、手を合わせる。体が動く限り、続けるつもりだ。
完
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