一章 静寂

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今から来てとは言われたものの、近道をしても自転車片道十五分はかかる。 その上 母とは三年以上は顔を合わせていない。 久しぶりの再会が最悪な形で迎えることに落胆している隙もない。 ソファに放り投げたパーカーにジャージのズボンと全く危機感を感じさせない服装。 不測の事態にとシミが目立つタオルをリュックに入れて部屋を出る。 忘れ物をした。 慌てて部屋へ戻り そのものを取ると、新品の電動自転車に跨る。 少し漕げば十分なスピードが出るという注意書きを無視し無我夢中に漕ぎ続けた。  空が薄暗くなり、今日の献立でも考える、そんなことを考えてる暇はない。 今の彼は家につくこと以外の思考は受付ないであろう。 歩行者優先という倫理を唱えている暇があるのなら、一秒でも早く事を済ませることが最優先である。 疎らな家の前の人影 玄関は新鮮な魚を切ったときのような血なまぐさい匂いが充満している。 廊下を伝うと、所々に血の雫が滴り落ちている。 ゆっくりとドアを引く、手の汗でうまく開けられない。 息をゴクリと呑み、思い切り開ける。 テレビの横でうずくまりすっかりと憔悴仕切ってしまった母と、壁際にうつ伏せで倒れる父 バラエティ番組の観客の作られたよう笑い声が嫌にも耳に響く。 テーブルの上には血の付いた果物ナイフ 母の首には薄っすらと残る索条痕 正当防衛が成立しても問題はない状況 固定電話を手に取る。 「電話はやめて!」 息を吹き返したかのように、私を制止する母 手の血がYシャツにこびりつき、生臭い香りが鼻をツンと刺激する。 「電話はやめて、お願いだから電話は」 オウムのように何度も同じ言葉を復唱する母にイライラしながらも受話器から手を離す。 部屋に入って何時間だったのだろうか、銅像のように動かない母をじっと見つめるだけでは逮捕されるのは時間の問題である。 次に打つ手は遺棄しかない。 いかにも年代物の雰囲気を漂わせるタンスを漁ると、ホコリまみれの毛布が並べられている。 毛布に二枚で完全に覆うことができる。 「これで包もう。」 母からの返事は無い。 銅像の状態が続く。 そんな母を尻目に軍手を履き、上半身を包む。 腕に重みがのしかかる。 もう少しで包めるというのに。 「やめろ、てめえ何する気だ。」 少し前より声を張り上げ、今にも襲いかかる勢いで服を掴む。 恐怖で口を閉ざす。 むしろおかしいのは母なのではないか。 正当防衛とはいえ、母がやったことにはかわりはないのに、ここまで怒られる筋合いなど毛頭ない。 一体何がしたいというのだろうか。 母を説得するよりも自分一人で片した方が得策 母をキッチンまで連れ出し、父を包み込んだ。 自分の父を郵便物のように包む其の手は震え、涙がこぼれ続けた。 「もう喋らないんだね。」 そう呟いてみても、毛布に包まれきった父の姿が残るのみだった。 哀愁を抱いている時間も無かった。 父のお気に入りのハイブリッドカーのバックドアに詰め込み、スーパーの袋に入れられたお菓子の詰め合わせを乗せる。 運転席に乗るのは免許取り立ての五年ぶり以来だった。 オートマ車が主流になり始めた頃でもマニュアル車にこだわっていた。 カッコいいという至って単純な理由でも父は快く、いやむしろ薦めてくれた。 幸い父の車はマニュアル車であった。 クラッチペダルとアクセルペダルを間違えないかと助手席で口酸っぱく言われていたあの頃が懐かしい。 間違いなく私は父親っ子であった。 父の運転を助手席で眺めているのが何よりの楽しみでもあった。 「もう戻ってこないんだね。」 雨も降っていない快晴の天気にワイパーを作動させてしまった。 大型ショピングモールを通過し、キャンプ場としても有名な森林地帯を更にまっすぐ進むとクマ出没注意と書かれた無人の山が見える。 脇に車を止め、持参したクワとシャベルを振り下ろしながら、捜索範囲にまで及ばないであろう深さまで掘り続けた。 「父さんごめんよ。」 毛布は目に見えない深さまで落ちていった。 桃色のタオルで汗を拭きながら、穴を懸命に埋めていく。 足跡で探られないように痕跡を消し、シャベルとクワは目に入らなさそうな山奥へと捨て去った。 夜が更けるのをじっと待ち、コンビニのおにぎりと新発売と謳われたスパイシーチキンで餓えを凌ぐ。 深夜3時電柱の明かりだけが光を灯す住宅街 一台だけがポツリと止められた駐車場に車を止め、後は車輪の痕跡を消すのみ。 あたり一面に広がる跡 日が昇るまでにミッションを遂行させなければならない。 しかしこれでは間に合わない。 仕方がないと、山奥の車輪の跡だけを残し、いかにも初めて現場を目撃したという風に持ちかける作戦に出る。 作業を終え、自宅へと車を停めると、朝日が姿を表していた。 夏の朝は早かった。
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