1,ピアノソナタ第3番

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1,ピアノソナタ第3番

見延鈴音(みのべすずね)は、ピアノを弾いている指が曲の流れから脱落してミスタッチすると、その瞬間演奏をやめ「もうー!」と深い溜息をついた。 鍵盤の上に顔を突っ伏したい気分だったが、それはさすがに憚られた。 鈴音が弾いているのは、ショパンのピアノソナタ第3番。ショパンのピアノ曲の中でも傑作として名高いが、同時にかなりの難曲でもあった。 鈴音がこの曲に挑むのには理由があった。 彼女が中学2年の時、たまたまラジオのクラシック番組でこの曲を聴いてたちまち魅了されたからだ。 特に曲の終盤でピアノの音色が滝のように流れ落ちるところは、フィギュアスケートの華麗なスピンを思わせ、息が止まるほどのめり込んだ。 人間の10本の指で、こんなに流麗で鮮烈な音色を弾くことができるとは。 鈴音は親の影響でクラシックは比較的好んで聞いていたしショパンはもちろん知っていたが、ピアノソナタ第3番を聴くのはこれが初めてだった。 ショパンは病弱な体でピアノに精魂を傾けるように作曲していたという印象を持っていたが、ピアノソナタ第3番の終楽章のこの力強さは、一体何なのだろう。 全身全霊を曲に注ぎ込んだとしか思えない。 そして、ショパン本人が演奏しているかのような、ショパンの魂が響いてくる卓越した演奏。 技巧を超えて、神がかっていた。 曲が終わると、鈴音はラジオにかじりつくようにして曲名と解説を聞いた。 演奏者(ピアニスト)は、初めて聞く名前だった。「K」。 ショパンの魂の伝道者として、その名前は一瞬にして鈴音の心にくっきりと刻まれた。 Kが鈴音の生まれるずっと昔に飛行機事故によって31歳の若さで他界したことを知り、彼女は悪寒と発熱に同時に襲われたような気持になった。 夭折、それはその時代の人々にとっては悲劇としか言えないが、後世の人間にとってはその悲しみの酸味が消えて、一種の切なく甘美なロマンを感じることがある。 鈴音はKについて調べ、彼が時代の寵児ともいえる一世を風靡した天才ピアニストだったことを知った。 鈴音は彼の才能、とりわけショパンのピアノソナタ第3番の演奏を愛し憧れ、その反面嫉妬した。 Kの演奏を聴いた時から、鈴音の人生には明瞭な目標が形をなした。 それは、Kのようにショパンのピアノソナタ第3番を弾きこなすこと。 電子ピアノを買ってもらい、家の近くのピアノ教室に通い始めた。 人並だが漫然と生きてきた感のある鈴音の豹変ぶりに、親は目を見張り、良いことだと応援した。
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