あわてる

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 手のひらの泡を握る。  ゆっくりと、軽く、隙間から逃げてしまわないように。  またゆっくりと、その手のひらを開く。  台所と共同通路を隔てる曇りガラスには、その名の通りの天気が張り付いていた。  食器洗いの途中だということも忘れて、私は開いた手のひらの上の泡をぼんやりと眺めている。  眺めているうちに、子どもの頃のお手伝いが甦る。  共働きの両親。奔放な長女。大人しい次女の私は、家に居ることが多かった。  その所為か、休みの日の朝食の片づけは、自然と私が担当していた。お小遣いが増えるわけでもなかった。  でも、嫌いじゃなかった。内向的で取り立てて趣味の無かった私にとって、食器洗いは何も考えずにできる無心の作業みたいなものだった。  「いってらっしゃい」と両親を、姉を見送る私は、その日も不意にシンクに溢れる泡をひと掬いして、手のひらに乗せると、ぼんやりと眺めていた。中学生の時分。徐々に泡が発散して崩れていく様子を見て、哲学のにおいがしたのを覚えている。生きるって、最初に掬った泡がなくなるまでの時間に等しいのかもしれない。その掬った泡の大きさで、その人の人生の長さや豊かさが決まっているのかもしれない。そんなことを考えていたってことを、こんなはっきり覚えているなんて……、私、変わってないのかもしれない。  手のひらの泡もまだ、ぽこ、ぽこと緩やかに弾け続けている。  変わってなんてない。  見下ろす手のひらが、膝がしらに見えてきた時、私はそう確信した。修学旅行で京都に行った時だ。班行動の途中で逸れてしまった私は、慌てて皆を探し始めた矢先。石段につまずいて膝がしらをおもいっきり擦りむいた。その傷は今でも残っているくらい。皮が剥げたそこに、細かい汚れや血を含んだ白い泡だまりができていた。痛い。けど、私はその泡から目が離せなかった。この泡は食器洗い洗剤とも違う、奇妙な泡だった。数秒眺めているうちに、その奇妙な泡は勝手に霧散した。  「君はあわてんぼうだ」あっ君が口癖のように、私に言っていた言葉だ。大学時代からの彼氏だ。一番、長く続いた彼氏だった。  狭いシンクで洗い物をしていた私の背中に、彼がまたそう言ったのだ。  「どうして?」「だってほら、カレンダー。書き込む場所が一日ズレてる。また急いでる時に慌てて書いたでしょ?」「あ、ほんとだ」「それにホラ、今も手に泡を付けたまま慌ててこっちに来たでしょ?」「あ――」「ははは、慌てない慌てない」  そう言って立ち上がったあっ君が、私を背中から抱きしめるように手を前へと伸ばして、洗い物を手伝ってくれた。  「いいよ、今日は私が当番なんだから」「いいの、いいの。俺がやりたいんだから」「あ、」「洗い物のついでに、こうやって、俺の手で君の手も洗ってあげる。気持ちいい?」「うん、きもちい――」  唇が震える。あっ君のキスを思い出したからだ。  「俺も気持ちいいよ」に続けてあっ君の唇が優しく、泡のように触れて……、泡のように溶けて消えていった。  「気持ち良かった?」「うん、気持ち良かった」「そっか、良かった」「ほら、ティッシュ使って」「うん」  渡されたティッシュに手を伸ばさず、私は手の中の白くて弱々しい泡を見つめていた。それはあっ君から出た泡だった。  「使わないの?」「…………」  私はそれには答えず、ぼんやりと、酸味の強いにおいを鼻先で感じながら、その泡を見つめ続けた。  きっと、愛おしそうに、大事そうに見つめていた、と思う。  今、この手の中にある泡は、もう半分以上も溶解していた。  いやぁ!!!  私は私の悲鳴を聞いた。  あっ君、なんで……、なんで死んじゃったのよ。  彼の手を握った私は、その手の感触が異様に柔らかかったのを思い出していた。  駆け付けた病院で握ったあっ君のその手は濡れていた。川に落ちた子どもを助けようとして、流されてしまったという。そして、二人とも助からなかった。  その手はただただ濡れていて、一粒の泡もなかった。  子どもの頃に、泡を人生に見立てたことがまた蘇って、ああ、あっ君の泡がなくなっちゃったんだ、って悲しくて悲しくて――  気付いたら、私の頬に涙が筋を引いていた。  手のひらの泡は、ほとんどなくなりかけていた。あともう少し。あともう少しだった。  そのもう少しの泡を涙目で見下ろしていると、曇りガラスに光が差した。  鮮やかな西日の陽光だった。  台所全体が光に照らされる。  手のひらの泡が、残り少ない泡が、光彩に輝き、私を温めてくれた。慰めてくれた。  私は涙で強張る眉間を緩めて微笑んでしまう。  「お母さん、ただいまー!」  私の左耳に、娘の元気な声が届く。  「ん?どしたの?お母さん?」  涙と笑顔で喉がつっかえてしまっていた。声が上手く出せなかった。  娘は返事のない私に近づくと、両手を伸ばした。  「はい!」  娘が満面の笑みで待っている。  シンクと私の間に立つと、その伸ばした手をさらに伸ばして催促してくる。  私は一度手を洗おうとして、泡水が乱暴に跳ねてしまった。食器はまだ洗い終わっていなかった。  「お母さんはあわてんぼうだ。慌てない慌てない」  クスッと笑ってしまう。今度はじっくりと石鹸で泡を立てる。  十分に泡を立てると、伸ばした娘の両手を、その泡塗れの両手で包み込んだ。  ゆっくりと、軽く、隙間から逃げてしまわないように。  手のひらの泡と、娘の手を握る。  「気持ちいい?」  「うん、気持ちいい!」  私は、また泣きそうになってしまって、それを喉奥に力を込めて堪えて、代わりにくしゃくしゃの笑みを、娘の私を見上げる笑顔に返した。  きっと、私は変わってないんだ。  きっと、ずっと。
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