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海猫
鐘が鳴った。
放課後を告げる鐘の音が学校内に響き渡る。
その音が鳴り終わるや否や、生徒達が学び舎から溢れ出る。
ある者は体育館に向かい。又、ある者は友人達と談笑しながら帰路につき。
そうして校舎はまた穏やかな喧騒に包まれる。運動場ではサッカーが始まり、陸上部がレーンの中を走りだす。どこにでもあるような中学校の風景。
それを三階の教室から眺める、一人の女生徒。
伸びた背筋に、腰辺りまで伸びた艶やかな黒髪。
猫の様なアーモンド型の瞳。
普段なら彼女の感情によって変化する瞳の輝きも今は失われてしまっている。彼女は目を閉じていたから。
そのまま彼女は窓から背を向けた。僅かに音を鳴らした上履き、その色は彼女が二年生であることを示している。
その瞼が僅かに動いた。
華奢なその肩は僅かに震えが見て取れる。
一体少女は何を想う。電気を消されたここには彼女以外誰も居ない。
存在を主張するのは壁にかけられた時計の音と、窓の外から流れ込む喧騒だけ。
不意に彼女は自らの胸に手を当てた。それはまるで自らの存在を確かめているようにも見えたし、何かに祈るようでもあった。
「ここにいるからです。此処に居るからおかしくなるのです。」
小さくてもその声は凛と響き、美しかった。鐘の音が、鳴る。
時は過ぎ、冬休みの美術室。
短髪の女子生徒が一人。思い出に、浸っている。
彼女の記憶を辿り舞台は変わる。
真夏日だった。
猫の目をした少女が居る教室の真下。二階。
ここにはまだ生徒が数人残っていた。その内の一人の少年が彼女に話しかけた。
「な、あいつどこに行ったか知ってる?」
肩を叩かれ振り返ると、そこにはクラスメイトの高橋君が立っていた。
彼は眉根を寄せ困った顔でこちらを見つめている。
「あいつって須藤君?」
彼の親友の名前をあげた。
「須藤じゃなくて。」
彼はどう言おうか逡巡しているように見えた。
そろそろ部活が始まる時間だ。つい目線が時計の方にいく。
私は美術部に所属している。人数が多いわけでもないのに、美術室自体がそんなに広くないのと皆思い思いに場所を取るせいで、少しでも遅れると目ぼしい活動場所が埋まってしまう。そうなると外で場所を探さなくてはならない。今は八月。しかも気温は40℃を超えている。でも目の前の彼を放り出して部活には行けない。
「あ。ごめん。佐藤、部活だよな…?」
焦りが顔に出てしまっていたのだろうか。
高橋君はクラスで特に目立つ存在ではないけれど、私は彼が善良な人間であることを知っている。善良な人間は時に他人に気を使いすぎる傾向がある。高橋君はそういう人間の代表例とも言っていい様な青年だった。
部活開始時間までまだ少しある。
「…大丈夫だよ。で、あいつって?」
強張っていた彼の表情が和らいだ。
「あの佐藤とよく一緒にいる…。」
私と?
「俺、人の名前覚えんの苦手で。さっきまで覚えてたのに。」
美術部の子たちは別のクラスだし。他は…。
「ミナちゃんの事?」
彼の表情が輝いた。
ミナちゃん、本名は九龍美奈子。三か月前、五月頃に転校してきた女の子。
猫の様な美しい光彩を瞳に宿した彼女は自己紹介の時も名前を呟いたきり、何も話そうとはしなかった。俯かず、毅然としてそれがさも当たり前かの様に立っていた。教師に促され席に座ってからもその態度は揺らがなかった。横顔は凛と前を見据えていた。その、人を寄せ付けない雰囲気に圧倒されたのか、当初彼女に話しかける人は居なかった、私以外は。私は彼女に興味があった。見惚れた、と言い換えてもいい。
私は、猫の瞳に惹かれたのだ。
描いてみたい、と思った。完璧に描けるかは分からない、自信も無かった。
でも、それでも…。
私が話しかけた効果があったのかは分からないが時間が経つにつれて、彼女はクラスに馴染んでいきつつある。しかし彼女は悪気無く、人を怒らせてしまう事が度々ある。彼女の辞書には社交性という言葉や妥協、我慢という言葉はないのだろう。思ったことをすぐ口に出してしまう。そんな彼女がまた何かしたのだろうか。
「…い。おーい佐藤?」
名前を呼ばれて我に返る。
「あ、ごめん。で、あいつってミナちゃん?」
彼が勢い良く頷く。
「そ、九龍だ、九龍!どこ行ったか知ってる?」
彼女はとっくに帰ったと思っていた。心当たりもない。彼の反応からして彼女が何かしたというわけでもない様だ。
「なんで高橋君がミナちゃんを探しているの?」私の問いかけに彼は頬を掻いた。
「それがさ…今日数学のノート回収あったよな。なのに九龍出してなかったらしくて。職員室通りがかったら増田に回収してこいって言われたんだ。」
増田というのは数学担当の教師の名だった。
厳しい教師でよく抜き打ちでノートを回収する。しかも当日中に出さなかった場合、次の日職員室に呼ばれ延々と説教をされるのだ。この前提出を忘れた須藤君は二時間程説教され、更に宿題も大量に追加されていた。基本的に彼女は寝ることもなく板書をとっていたはずなのに。なぜノートを出さなかったのだろう。
「それにその時に、ノート回収できなかったらお前の宿題も増やすからなって脅されててさ…。」
大きく息を吐き、彼は隣の席に座り込む。そこはミナちゃんの席だ。
「それは…。」意気消沈した彼の様子に、続きは言葉にならず息を飲み込んだ。慰めの言葉を相手に上手く伝えられない、何を言っても上っ面になるような気がして。
この様子では部活も休んだのだろう。彼はサッカー部に所属していて、今日も練習があったはずだ。練習開始時間はとうに過ぎている。
「下駄箱は見た?」
「部活休むって報告しに行く時に見たけどまだ居るみたいなんだ。」
「そっか。」
それにしても、どこに行ったんだろう。
ミナちゃんの放浪癖は前から知っていた。けれど、心配だ。でもまだ放課後で良かった。
私が彼女の放浪癖を知ったのは今から二ヶ月くらい前の事。
いきなり彼女は立ち上がった、お昼休みの喧騒で彼女の行動はそこまで目立たなかった。けれど一緒に食べようと口を開きかけた私は、少々驚いた。その背中を見送るしかなかった。ミナちゃんは着いてきてほしい時はそれを言葉にしてくれる、そうしないという事は放っておいてほしいという事なのだろう、とその時は思った。私は一人でお昼休みを過ごした。ミナちゃんの机には手の付けられなかったお弁当が放置されていたから、私はそれにそっと蓋をした。
彼女は授業が始まっても戻ってこなかった。あの時は本当に焦ったし、仮病を装い探しに行こうかと何度も思った。自分でも何故あんなに焦っていたのか分からない。
ただ、不安だった。
結局彼女は授業の半分が過ぎた頃に戻ってきた。皆の視線を気にする様子もなく、前の扉を開け平然と、自らの席に座り黒板に書いてある事柄をノートに写し始めた。彼女は授業に遅刻したという意識もなさそうで、堂々とし過ぎていた。王妃のようでまた見惚れた。その態度に圧倒されたのか、それともその先生が新任の先生だったからか、彼女は軽く注意をされただけで(その時も彼女は俯かず真っ直ぐに教師を見返していた)、程なく授業は再開された。
私は静かにノートをちぎって、メモを書いた。
『どこ行ってたの?』教師の目を盗み、彼女の机の上に置いた。
ミナちゃんは猫の目を、一瞬見開いた。その表情が示すのは驚き、という感情が一番近い気がした。内容に驚いたのか、それを渡されたこと自体に驚いたのかそれは分からない。暫くしてメモが返ってきた。
濃い筆圧で『屋上』とそこには書かれていた。
休憩時間になってから何故屋上に行ったのか、どうやって鍵がかかっている屋上に入ったのか聞いてみたけれど、彼女は何も答えてはくれなかった。
彼女はまた、屋上に居るのだろうか。
「…屋上。」
言葉が小さく漏れた。
「屋上?あそこは鍵がかかってるだろ?」
「うん、でも前は屋上に…。」
「へぇ、そうだったのか。なら行ってみるよ。ありがと、佐藤。」
「待って。私も、行く。」
「え?佐藤部活だろ?」
「…乗りかかった舟だから。それに、ミナちゃんが心配だし。」
口に出した言葉は嘘ではない。このまま部活行っても多分彼女の事が気になって、集中できない。それに、僅かな時間でも、もう暫く彼と同じ目的を共有したかった。
「…本当に良いのか…?」
「大丈夫だよ。高橋君にはいつも委員会で迷惑かけてるし。それに、屋上に居なかった時一人で探すの大変でしょ?」
校舎を走りまわる彼を想像して、つい笑みが零れる。
「迷惑なんて全然!まぁ配布物を廊下にぶちまけた時は焦ったけど。」
「あ、あれは本当にごめんね!」
「ま、九龍が三組の女子に平手打ちされそうになってるのみて動揺した気持ちも分かるよ。…彼女は何というか、普通じゃない。」
「そう、普通じゃない。」
私達は向かい合って笑った。
「まぁ、それは置いといて!佐藤も一緒に探してくれるんだったら助かる、ありがと!」
「いえいえ、いつもお世話になっていますから。」「あ。」
「ん?」
彼の疑問に応える余裕も無かった。時計の針が部活開始時間の五分前を指しているのを見たのだ。美術室はここから十分はかかる。休部連絡を忘れていた。無断欠席なんて言語道断。そんなことしてしまった日には、部長と真っ当に話せなくなる。
「ごめん高橋君!私、部に連絡…。」
「むしろ巻き込んじゃってごめんな。他の教室見ながら先に行っとく。ほら急げ。時間無いんだろ?」
「ありがと。またね!」
走る、できるだけ速く。
「あ、佐藤。鞄忘れてんぞって、あー。」
彼は二つの鞄を抱え歩き出した。
走る走る走る。廊下は滑りやすくて時々転けそうになる。美術室は四階。
放課後だからか、すれ違う人は少なくて助かった。階段を上る。三階。あと少し。
残りの階段を勢いに任せ、駆ける。
「はぁっはぁ…。」
金文字で4と記された文字を踏みつけ走る。美術室があるのは廊下の突き当り、一番奥。木製の古臭い扉の前で呼吸を整える。扉に手をかけると同時に鐘が鳴った。
「遅れました、すみません。」
言いながら扉を引く。途端、この部屋特有の画材の匂い。いつもの美術室。黒い大きな机を占領してカンバスに模様を描いていく者。石を削り形にしてゆく者。友達と談笑しながら果物を写生する者。はたまた部屋の片隅で椅子を固め寝ている者。なんというか混沌としている。でもこれがいつも通り。人を邪魔しなければ何をしてもいい。個人のしていることに過度に干渉しない。
私は美術部のこういうところが好きだ。
場の集中力をできるだけ乱さぬ様、人と作品を避けながら、ある人に近づいていく。その人は何時も窓辺で一人カンバスに向かっている。近づいた私の目を奪ったのは鮮やかな青。
その人は空を描いていた。何度見てもその美しさには息を呑む。
夏の空をそのまま切り取った様。
視線を感じたのか、雲を描いていた筆が動きを止めた。短髪の男子生徒。一見、どこにでも居る文系という感じの人。
「用があるなら、さっさと言ったらどうですか。」
丁寧な口調とは裏腹にその声色は厳しい。思わず背筋が伸びる。
「ぶ、部長。今日は部活を休みたいんですけど…。」
現、美術部部長。笹原部長は自らの集中を乱されるのを嫌う。私は見事にそれを乱してしまったようだ。
「部活を休む時は、昼休みまでに連絡するというのが原則のはずですが。」
あれ?と思う。振り向いた眼鏡越しの瞳は思ったより怒ってはいない様だった。
「…はい、すみません。」
「なぜですか?」
詰問するでもなく、純粋に疑問を感じている表情だった。笹原部長は感情で人を責めることはしない。私は部長のそういうところを心底尊敬している。憧れている、と言い換えてもいい。ミナちゃんに対する感情が陶酔なら、部長に対してのこれは、憧憬だ。部が良い雰囲気で成り立っているのもこの人が居るから。彼の疑問に答えるのは簡単だが、どう言えば良いのか分からない。
「友達を、探していて…。」
「わかりました。今回だけですよ。」
「…へ?」
思わず変な声が出た。彼は私から背を向け、再度筆をとる。
「…いいんですか?」
雲の切れ端が、彼の筆によって付け足されていく。
「貴方は作品も一段落していますし、構いません。それに、その友達とは例の転校生でしょう?」
「ミナちゃんを、知ってるんですか?」
「…友人は大切にしなくては。」
「ありがとうございます。」
「それに、貴方がいると続きが描けない。」
空を見る彼の目は澄んで。透明な青に染まっていた。頭を下げ美術室を後にする。
美術室を出て屋上へ向かう。屋上の扉には普段鍵がかかっているけれど、私はそのことを全く気にしていなかった。扉は開く、という妙な確信があったから。所々塗装が剥がれかけた扉。埃の積もった取っ手を捻る。音も無く、やっぱり開く。
生温い風が私の髪を揺らした。
「お、佐藤。」
彼が居る、何故か二つ鞄を持って。
「俺もさっき着いたところだよ。二階と一階見たけど居なくて。ここにも居ない。」
走り回ったのだろうか、首筋に汗をかいている。汗が光を反射している。思えば私も、いつの間にか汗をかいている。
「鍵、開いてた?」
彼はきっと頷く。さっきと同じ、妙な確信があった。
「俺が来た時には。変だよな、普段閉まってるのに。」
やっぱり。なら彼女は
「…一回此処に来てる。」
「え?」
「ううん、なんでもない。」
何故ごまかしたのか自分でも分からない。でもそうした方が良い気がした。
「そういえばその鞄、私の?」
「おう、持って来といた。…迷惑だったか?」
「むしろごめん、私うっかりしてて…!」
鞄を二つ持ちながらの捜索は大変だったはずだ。慌てて鞄を受け取る。
「このくらい平気だ。」
「ありがと。」
「ここにはいなかったし他のとこ探すか?」
完全下校までまだ時間がある。もう少し悪あがきしても良いだろう。
時間がないので二手に別れることにした。私は三階。彼は四階。彼女を見つけたら一階の職員室前に集合だ。
「またね。」
「また。」
手を振って別れる。階段から一番近い三年一組の教室の扉に手をかけた。
が、音がするだけで開かない。おそらく先生が鍵を閉めてしまったのだろう。
二組、三組も鍵がかかっていた。半分諦めながら四組の扉を、引いた。音も無く。屋上の扉を開けた時と同じ感覚。扉が開いた。風が吹く。
眩い光と青い空。
教卓上に置かれた鍵の束とリュックサック。
開け放たれた窓辺に、人影。
ミナちゃんだ。
彼女の黒髪が風に揺れている。
瞑想でもしているかの様に目を閉じている。
声をかけなければと思うのに声帯を震わせられない。
青空を背景に佇む彼女は浮世離れしていて。
ああこれだ、まさしくこれだ、と想う。
数か月間も思い悩んでいたのに、私が描きたかった彼女は此処に在った。
祈るように。願うように。請うように。
「ここにいるからです。此処に居るからおかしくなるのです。」
言葉の内容はとても、悲劇的なのに、彼女はとても、嬉しそうにそう言ったように、見えた。完全下校の鐘が鳴る。
「…ミナちゃん。」
彼女を呼んだ。彼女は、ミナちゃんは静かに目を開けて。私を見て、笑った。綺麗な微笑。胸が痛い。押しつぶされた様に、痛む。儚げで、そのまま消えてしまいそうな彼女。
「…アイちゃん。」
小さく私を呼んだ。その音は、いつもと同じ凛とした音。
冬休み。
私の前に描き終えた一枚の絵がある。
真っ青な空と一人の少女。あの夏の日の事を想い出していた。
あれから、時は過ぎた。様々な事が移り変わっていった。笹原部長は受験のため部活を引退して、よく喋っていた高橋君も委員会の任期が終わってから疎遠になって、それに、ミナちゃんも。
彼女はあの日から学校に来なくなった。
病気になったとかまた転校していったとか色々噂はあるけれど。どれも所詮、噂話で確証はない、未だ名簿に彼女の名前があるのを私は知っている。
あの夏、私の世界を構成していた大切な人々が、いつの間にか消えて、代わりに私に残されたのは彼女が転校してくる前の平坦な友人関係だけ。彼女達とは、心底喧嘩する事もできなければ心底笑う事もできない。楽しいと思っても、すぐに我に返ってしまう。私の居場所はここではないと何かが囁く。私はそれを聞かなかったふりをする、その繰り返し。
あの日、ミナちゃんはいつもと違った。
いつもは私のことをアイちゃんなんて呼ばないし、あんな笑顔も浮かべない。
あの日は、確かに特別だったのだ。
お伽噺のかぐや姫の様に月に帰ったのだ、なんてあり得ないけれど。でも…。彼女は戻るべき場所に戻ったんだとそんな気がしている。
そう想って信じて諦めて受け入れた、つもりだった。だけれども、風穴は塞がらない。時々、胸にぽっかり大きな穴が空いた様な感覚に囚われることがある。大声で叫びたくなる様な衝動に駆られることがある。それは今も同じ。
だからこそ、描こうと想えた。彼女の一片でさえ忘れたくはなかった、失うわけにはいかなかった。
あの時の彼女の表情。耳の中で鳴り響く声。猫の様な瞳。私は彼女の瞳が、彼女の感情に伴って変わる眼の光が。ひどく綺麗で、大好きだった。
想い出す、彼女の全て。
笹原部長に教わった空の描き方。
光、空、雲。
背景と対比する様に、でも違和感の無い様に。
彼女を浮かび上がらせてゆく。
作品を描き進めるうちに、気づいたことが在る。
私は、狂おしいほどに再会を望んでいるということ。諦めてなんていなかった。諦められる訳がなかった。
私は、求め続けるだろう。そしてこれからも彼女は私の特別で在り続けるのだろう、そんな確信が。
…泣きそうになった。
でも、今は。
作品を描き上げた今は、期待していた高揚感も達成感も無く、ただただ虚しさが募った。
これを見て彼女はなんて言うだろう。
どんな表情を浮かべるだろう。
笑ってくれるだろうか、あの時の様に。
ねぇ、ミナちゃん。
会いたい。会いたいよ。
貴方は今、何処に居るの。私は此処に居るよ。
此処に、居るのに。なんで。
「…ミナちゃん。」
完全下校を告げる鐘。
はっとした。急いで帰り支度を始める。作品を部屋の隅によけ、上から布を掛けた。忘れ物が無いか鞄を覗いた、その時。扉が引かれた音。
振り向く。
「アイちゃん。」
彼女が、居た。あの夏の日と同じ表情でミナちゃんが其処に。
「ミナちゃん。」
私も彼女の名を呼んだ。虚しさが、涙に昇華される。
又、鐘の音。
『空と猫』を見た彼女は、空の中の彼女より何倍も嬉しそうに、何の憂いもなく笑った。その瞳には、私の描いた空の青が反射していて、猫の瞳を細めた彼女はとても綺麗だった。
でもあの夏の日の美しさとはまた少し違って、暖かみに満ちていた。そうして私は、次に描きたいものを、決めた。
数カ月後、春。
私は春休みを使いミナちゃんと彼女の瞳に映った青を描いた。
作品のタイトルは、『海猫』。
描いているうちに、空は深みを増し、海に成った。空の青は海の碧に。浮かんだ雲は、水泡に。太陽の光は、水中と空を繋ぐ光の梯子に。その碧の中をウミネコの様に飛ぶ彼女を描いた。
彼女は今も私の隣で笑っている。
「…愛梨さん。」
彼女が私の名を呼んだ。
いつもと同じ凛とした声、いつもと同じ少し硬めの表情、いつもと同じ呼び方で。
私を呼んだ。
「美奈ちゃん。」
笑んで。
鐘が鳴った。
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