青と猫

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青と猫

 少年が一人、眠っている。 周囲の喧騒を物ともせず、 深い眠りに落ちている。    鐘が鳴った。 放課後を告げる鐘の音が、学校内に響き渡る。 その音が鳴り終わるや否や、生徒達が勢い良く校舎から溢れ出る。 ある者は体育館に向かい、またある者は、友人達と談笑しながら帰路につき、そうして校舎は、また穏やかな喧騒に包まれる。 狭い運動場ではサッカーが始まり、陸上部がレーンの中を走りだす。 そんなどこにでもある中学校の風景。 それを教室の窓から眺める、一人の女生徒。 スラリと伸びた背筋に、腰まである艶やかな黒髪。猫の様なアーモンド型の瞳。 普段なら、彼女の感情によって目まぐるしく変わる瞳の輝きも、今は失われてしまっている。彼女は瞼を、下ろしていたから。 そのまま彼女は窓から背を向けて。履いている上履きの色合いから、彼女が二年生であることが判る。 何故、二年生の彼女が主に最上級生が使っている三階の教室に居るのか。何故、敢えて此処を選んだのか。 彼女の真意は誰にも分からない。彼女自身も、わかっていないかもしれない。 彼女の瞼が僅かに動く。肩は震えて。ひどく華奢な肩だ。一体少女は何を想う。 電気を消された此処には、彼女以外誰も居ない。存在を主張するのは、壁にかけられた時計の音と、外から聴こえる楽しげな喧騒だけ。 彼女は自らの存在を確かめるように。 胸に手を当てて。 まるで、敬虔な信者が神に祈るように、呟いた。 「…ここにいるからです。此処に居るから、おかしくなるのです。」 小さくてもその声は、凛とした強さを孕んでいて、その余韻は暫し教室に残った。そして、又、鐘が鳴る。  舞台は移り。二階の教室。ここには生徒がまだ数人残っている。その内の一人の少年が、一人の少女に話しかける。  「な、あいつどこに行ったか知ってる?」 遠慮がちに肩を叩かれ、振り返ると、そこにはクラスメイトの高橋君が立っていた。彼は眉根を寄せ、困った顔でこちらを見つめている。 「あいつってだれ?須藤君?」 彼とよく一緒にいる男子の名前をあげた。 「んー、須藤じゃなくて。」 どう言おうか迷っている様だった。 そろそろ部活が始まる時間だ。つい意識が時計の針に向いてしまう。 私の所属している美術部は人数が多いわけでもないけど、美術室自体がそんなに広くないのと皆思い思いに場所を取るため、少しでも遅れると自分の活動場所が取れないことがあるのだ。そうなると外で場所を探さなくてはならない。今は八月。外で活動なんて熱中症になりかねない。 「あ。ごめん。佐藤部活、だよな。」 高橋君はクラスで特に目立つ存在ではないけど、私は彼がとても優しくて良い人だということを知っている。そして他人に対してひどく気を使う人だということも。 部活開始時間まではまだ少しある。 「…大丈夫だよ。あいつって誰?」 彼が言いやすいように、出来る限り柔らかな口調で尋ねる。強張っていた彼の表情が少しほぐれる。 「…ありがとな。よく佐藤と一緒にいる…」 「私と? 「俺、人の名前覚えんの苦手でさ。さっきまで覚えてたのに。」 美術部の子たちはみんな別のクラスだし。 「…ミナちゃんの事?」 彼の表情が輝いた。  …ミナちゃん。 本名は九龍美奈子。 今年の五月頃に転校してきた女の子。猫みたいな自由気ままな雰囲気を纏った子。彼女はいつも、よく言えば大人びた、悪く言えばなんの感情も読み取れない表情をしているからか、話しかけづらい印象をうけるのだ。その表情や不思議な雰囲気に圧倒されたのか、 当初彼女に話しかける人は居なかった、 ただ私一人を除いて。なぜ普段から目立たないように過ごしている私が、異様に目立つ彼女に話しかけ、仲良くなろうとしたかというと、席が隣になったからとか。今度部活で人物画を描こうと思っていてモデルとして彼女がぴったりだったから、とか。 色々理由はある。でも、何より私は、彼女の持つ掴み所のない独特な雰囲気に、猛烈に惹かれたのだ。興味が湧いた、と言い換えてもいい。 彼女を完璧に描けるかは分からない。でも、それでもいい。そう想ったから。 開きっぱなしの窓から風が吹き込む。 八月の風。ぬるい温度。彼女が転校してきた、五月の爽やかな風とは違う。季節はあっという間に移り変わっていく。彼女が現れてから、私の日々は目まぐるしく変わった。最初は浮いていた彼女だけれど、徐々に皆に受け入れられてきていて。なのに、ミナちゃんはまた、何かしたのだろうか。 彼女は悪気がなくても、他人を怒らせてしまうところがある。思ったことをすぐ口に出してしまうせいだ。私自身はそこが彼女の長所であり、好ましい所だと思っているのだけれど、やっぱり口にしない方がいい事もある。 「…い。おーい、佐藤?」 つい考え込み過ぎたようだ。 「あ、ごめん。で、あいつってミナちゃんのこと?」 彼が勢い良く頷く。 「そう、九龍!どこ行ったか知ってる?」 ミナちゃんはもう帰ったと思っていた。 「とっくに帰ったと思ってたけど。まさかミナちゃん、また何かした?」 私の問いに軽く微笑みながら彼は首を振る。 「違う、違う。」 「じゃあなんで?」 彼は困り切ったように、自らの頬を軽く掻き。 「それがさ…今日数学のノート回収あったよな。なのに九龍出してなかったらしくて。職員室通りがかったら、増田に回収してこいって言われたんだ。」 増田というのは、数学担当の先生だ。とても厳しい先生でよく抜き打ちで、ノートを回収する。しかも、当日中に出さなかった場合、職員室に呼ばれ長々と説教をされるのだ。この前ノート提出を忘れた須藤君なんかは二時間程説教され、更に宿題を大量に追加されたらしい。授業中に寝ていて、ノートを写していなかった須藤君も問題だけど。須藤君の凄いのは、その後も全然懲りていなかったところだ。今日の数学の授業も寝ていた、というかずっと寝ている。彼が起きているのは、休み時間や放課後くらいだ。 …それよりも。ミナちゃんだ。なぜ数学のノートを出さなかったのだろう。彼女は基本的に真面目だから板書はとっていたはずなのに。 「それにその時に、ノート回収できなかったら、俺の宿題も増やすぞって言われた…。」 大きく息を吐いて彼は私の隣の席に座り込む。ミナちゃんの席だ。 この意気消沈した様子では部活も休んだんだろう。彼はサッカー部に所属している。 「下駄箱は見た?」 「部活休むって報告しに行く時に、見たんだけど、まだ居る。」 「そっか。」 少し考える。彼女の行きそうな場所。 ミナちゃんの放浪癖は今に始まったことじゃないけれど、心配だ。 私が彼女の放浪癖をはっきりと認識したのは今から二ヶ月くらい前の事。彼女が転校してきて一ヶ月くらい経った頃。 お昼休みだった。彼女はいきなり立ち上がり、ご飯も食べずに教室をふらりと出て行ってしまって。私は、ミナちゃんが予測できない行動をとるのはいつもの事だし、お腹は空いていたし、授業が始まる頃には戻ってくるだろうと、その時は軽く考えて気にしなかったのだけれど。 彼女は、五時間目が始まっても戻ってこなかった。あの時は本当に焦ったし、気分が悪いと嘘をついて探しに行こうかと何度も思った。自分でも何故あんなに焦っていたのか分からない。 ただ…不安だった。 結局、彼女は授業が半分くらい終わった頃に戻ってきて。唖然とする教師と皆の視線を気にする様子もなく、自らの席に座り、黒板に書いてある事柄を平然とノートに写し始めて。彼女は授業に遅刻したという意識もなさそうで、むしろ堂々とし過ぎていた。その態度に圧倒されてしまったのか、それともその先生が一年目の新米教師だったからか、彼女に軽く注意した程度で、授業は再開された。私は教師にバレないように、板書をとる振りをしながらノートをちぎりとって、メモを書いた。 『どこに行ってたの?』 ミナちゃんは少し驚いたように一瞬、猫の目を見開いた。メモの内容に驚いたのか、メモを渡されたことに驚いたのか、それは分からない。それでも彼女はすぐ普段の冷静さを取り戻した様で。迷うこともなく、さらさらとメモの空白を埋め、私の机の上に置いた。綺麗な明朝体で紡がれたのは『屋上』そのたった二文字。  休憩時間になってから、なんで屋上に行ったのか、どうやって鍵がかかっている屋上に入ったのか聞いてみたけれど、彼女は何も答えてはくれなかった。 よく、覚えている。尋ねた時の、彼女の少し怯えたような瞳の色を。あんな反応をミナちゃんが私に見せたのは、あの時が初めてだった。彼女はいつも凛としていて。あんな表情を浮かべたりしない。 だから、忘れられない。彼女はまた、屋上に居るのだろうか。一体彼女は、あの時何に怯えていたのだろう。 「屋上…。」 言葉が口から小さく漏れた。 「え、屋上?あそこは鍵がかかってるだろ?」 「うん、でも前に放浪してた時は、屋上に。」 「へぇ、そうだったのか。なら行ってみるよ。…ありがと、佐藤。」 私に手を振って、背を向けた。 「高橋君。待って。私も行く。」 彼の背中を見て口が動いていた。 「え?でも佐藤部活だろ?」 「…乗りかかった舟だから。ミナちゃんが心配だし。」 口に出した言葉は八割本当。このまま部活行っても多分彼女の事が気になって集中できない。それに。彼ともう少し、同じ目的を共有しておきたかった。 「…でも本当に良いのか?」 「大丈夫だよ。高橋君にはいつも委員会で迷惑かけちゃってるし。それに、屋上に居なかった場合一人で校舎の中探すの大変でしょ?」 「迷惑なんて全然…いや、皆に配るプリントを廊下にぶちまけられた時はちょっと焦ったけど…。」 「あ、あれは本当にごめんね。」 「ま、九龍が三組の女子に平手打ちされそうになってるのみて動揺した佐藤の気持ちも分かるよ…。」 本当に良い人だ。プリントを放り出してミナちゃんを連れ出しそのまま逃走した私に向かって怒りもせず、私の気持ちまで思いやってくれるなんて。 それに、当事者が居なくなって集収がつかなくなりかけた相手の子を慰め落ち着かせてくれたのは彼だったという。それを後から聞いた時は必死にお礼を言ったけど。その時、彼は困ったような照れているようなどちらにもとれる曖昧な表情で笑っていたっけ。 「佐藤も一緒に探してくれるんだったら、助かる、ありがと!」 つられて私も笑みが溢れる。立ち上がった。その拍子に時計の方に目がいく。 「あ。」 「どうした?」 彼が尋ねてくれていたけど返事をする余裕も無い。時計の針はいつの間にか部活開始時間の五分前を指していた。美術室はここから十分はかかる。休部連絡の事をすっかり忘れていた。無断欠席なんて言語道断だ。そんなことしてしまった日には笹原部長とまともに目を合わせて話せなくなる。そんなのは嫌だし、とても困る。 「…ごめん、高橋君。私、部長に連絡しないといけなかった…!」 「いやいや、むしろ巻き込んじゃってごめんな。他の教室見ながら先に行っとくよ。ほら、急げ。時間無いんだろ?」 「ありがと。またあとで!」 私は彼に背を向けて教室を飛び出した。  「あ、佐藤、鞄忘れてんぞって、あー。」 少年が走り去った少女に向かって呟いて。彼も二つの鞄を抱え歩き出す。 そして教室には誰も居なくなり。吹奏楽部が奏でる音が何処からか、聴こえる。  走る、走る、走る。 廊下は滑りやすくて時々転けそうになる。美術室は四階にある。放課後だからか、すれ違う人は少なくて。廊下で爆走する姿は誰にも見られたくないから助かった。特に先生とかに見られたら注意されるし。 階段を駆け上がる。なんで急いでる時に限って階段は長く感じるのか。息が切れる。こんなに走ったのなんて去年の運動会以来。今年は練習中に足を捻挫したから出られなかったし。もう治ってはいるはずなのに。少し、痛む気がした。やっと…三階。あと少し。残りの階段を勢いに任せ、駆ける。 「っはぁ…っはぁはぁ…。」 金文字で4と示された文字を踏みつけ廊下を走る。美術室があるのは廊下の突き当り、一番奥だ。足が止まる。木製の古臭い扉の前で呼吸を整える。扉に手をかけると同時に、鐘が鳴った。部活開始の鐘の音だ。 扉を引く。途端、この部屋独特の画材の匂いが鼻につく。 部屋の中は、いつも通り、程よい緊張感に満たされていた。 教室の中に並べられた黒い大きな机を占領してこれまた大きなカンバスに作品を描いていく者。どこにでもありそうな中途半端な大きさの石を削り独特の感性で形にしてゆく者。友達と談笑しながら、自らのスケッチブックに色を付けていく者。はたまた教室の片隅に椅子を固め、寝ている者。 なんというか混沌としている。 でもこれが何時通りの美術室の風景だ。 他人を邪魔しなければ何をしてもいい。個人のしていることに過度に干渉しない。私は美術部のこういう雰囲気が気に入っている。場の集中力を乱さぬように、人と作品を避けながら。ある人物に近づいていく。 その人はいつも窓辺で一人、カンバスに向かっている。その人の周りだけ、不自然に空間が空いていた。 近づいた私の目を奪ったのは鮮やかな『青』。 その人は空を描いていた。 …綺麗。いつ見てもこの人の作品は息を呑むほど美しい。夏の青空をそのまま切り取ったような、色彩。背後に人の気配を感じたのか丁寧に雲を描いていた筆が動きを止める。短髪の男子生徒。一見、どこにでも居るような文系という感じの人。 「用があるなら、言ったらどうですか。」 丁寧な口調とは裏腹にその声色は冷たく厳しい。見えていないと知りながらも思わず背筋を伸ばす。 「は、はい。部長。私、今日は部活を休みたいんですけど…。」 現、美術部部長。笹原部長は自らの集中を乱されるのを何よりも嫌う。私は見事にそれを乱してしまったわけだ、彼の機嫌が悪くなるのも頷ける。 「…部を休む時は、昼休みまでに連絡する、というのがこの部活の規則のはずですが。」 あれ?と思う。振り向いた眼鏡越しの瞳は思ったより、怒ってはいない様だった。声色は冷たいままだけれど。 「はい、すみません…。」 比較的自由なこの部活にだってルールはある。 「…なぜですか?」 詰問するでもなく純粋に疑問を感じたらしかった。笹原部長は自らの感情のみで人を責めることはしない(絵を描いているときを除いての話だが)。私は部長のそういうところを心底尊敬している。憧れている、と言い換えてもいい。部が良い雰囲気で成り立っているのもこの人が居るからだ。彼の疑問に答えるのは簡単だけど、どう言えば良いのか分からない。でも、正直に。嘘をついて怒られたことはあるけれど、正直に言って怒られたことはない。 「…友人を、探していて…。」 「わかりました。今回だけですよ。」 「へ?」 おもわず間の抜けた声が口から漏れた。部長は私から背を向け、筆をとる。 「…いいんですか?」 雲の切れ端が筆の動きにつれ、増えていく。 「貴方は作品も一段落していますし、別に構いませんよ。それにその友達とは、例の転校生でしょう?」 「ミナちゃんを、知ってるんですか?」 「…友人は大切にしなくては。」 「ありがとうございます。」 「それに、貴方がいると続きが描けない。」 透明な青色。麗しい色。頭を下げ美術室を後にする。  美術室を出た私は屋上へ向かう。階段の途中途中に椅子が置いてある。長年置いてあるのか、厚い埃が積もっていた。生徒が近づかぬ様に、という予防線のつもりだろうか。それともただ単に余ったから、ここに置いてあるだけか。 どっちでもいいけれど、少し可哀想だ。 忘れられたガラクタ。 ミナちゃんもこれを見たのだろうか、その時彼女は何を感じたのだろう。私と同じ様な感情を持っただろうか、それとも何も思わなかっただろうか。屋上の扉が見えてきた。屋上は普段鍵がかかっているけれど、そのことを全く気にせず階段を上っていく。 扉は開く、という妙な確信があったから。最後の一段。スチール製の、所々塗装が剥がれかけた扉。埃の積もった取っ手を捻った。 やっぱり音も無く、開く。温い夏風が私の髪を揺らした。 「お、佐藤か。」 「俺もさっき着いたところだよ。二階と一階まわったけど居なくて。ここにも。」 走り回ったのだろうか、首筋に汗をかいていた。日差しが落ちてきている。夕陽に煌めく滴。思えば、私もいつの間にか汗をかいている。 「鍵、あいてた?」 彼は、きっと頷く。さっきと同じ、妙な確信があった。 「おう。」 「…一回此処に来た。」 「え?」 「ううん、なんでもない。」 何故ごまかしたのか、自分でも分からない。でもそうした方がいい気がした。 「…そういえば、その鞄。」 「あ、うん、。持って来といた方が良いかなって。迷惑だったか?」 「ごめん!重かったよね?」 「このぐらい平気だ!」 「ありがと。」 「…ここにはいなかったし他のとこ探すか?」 「そう、しよっか。」 完全下校までまだ少しある。悪あがきしてみても良いだろう。時間がないので効率を重視し二手に別れて教室を周ることにした。私は三階。高橋君は四階。ミナちゃんを見つけたら一階の職員室前に集合だ。 「またね。」 「またな!」 彼と手を振って別れる。三年生の教室だから緊張するけど、もう残っている生徒も少ないだろう。そう自分に言い聞かせ、一番階段から近い三年一組の教室の扉に手をかける。音がするだけで開かない。 先生が閉めてしまったのだろう。二組、三組も鍵がかかっていた。半分諦めながら三年四組の扉を、引いた。  音も無く、屋上の扉を開けた時と同じ。扉が開いた。 風が吹く。教卓の上に置かれた鍵の束と大きめのリュックサック。開け放たれた窓辺に、人影。…彼女だ。ミナちゃん。 綺麗な黒髪が風に揺れている。瞑想でもしているかの様に、彼女は瞼を下ろしている。 声をかけなければ、と思うのに声が出ない。 青空を背景に佇む彼女は浮世離れしていて。 この世のものじゃないみたいだった。間違えて地上に降り立った天女のよう。 ああ、これだ、と想う。私が描きたかった彼女は此処に在る、とそう想った。 彼女が呟く。祈るように。願うように。請うように。微かな声で。 「ここにいるからです。此処に居るから、おかしくなるのです。」 彼女はとても嬉しそうに見えた。 完全下校の鐘が鳴る。 「…ミナちゃん。」 彼女を呼んだ。彼女は、ミナちゃんはゆっくりと目を開けて。私を見て、微笑んだ。 「アイちゃん。」 彼女は私の名を呼んだ。いつもと同じ、凛とした声だった。     古ぼけた窓に結露が溜まっている。 普通の教室よりいくらか広めに思える部屋。 そこで一人の少女が絵を描いている。 周りには人が大勢居たが、まるで彼女は独りになったかのような、寂しげな雰囲気を纏っていた。  私は部活で美術室に居た。世間はもう冬休み。真っ青な空。あの夏の日の放課後。 ミナちゃんを探しまわったあの日を思い出した。 私はあの時の彼女の微笑が忘れられなくて。どうにか形にしたくて。あれからずっと彼女を描いている。真っ青な空と猫の様な彼女。 でもまだ、あの独特の雰囲気を出せていない。何回描いても彼女の表面をなぞっただけの薄っぺらいものしか描けない。気分転換をしようと席を立つ。 一応、クロッキー帳を手に持って。外の空気を吸おうと中庭へ足を向ける。 あの日のミナちゃんはいつもと違った。いつもはあんな笑顔を、浮かべない。だからあの日は特別だったのだろう。だってあれから、彼女は学校に来なくなった。理由は分からない。病気になったとかまた転校していったんだとか色々噂はあるけれど、どれも信憑性は薄そうだ。教室の中に彼女の席は当たり前のように残されていて、先生も彼女の事に関して何も触れない。 私は彼女の居ない日々を当たり前に受け入れるしかなくて。日々が過ぎ去るのを只。 でも、時々胸の奥がぽっかりと空いた様な感覚に囚われることがあって。大声で叫びたくなる様な衝動に駆られることがあって。 その時は目をつむって耐えるけど、それでも…苦しくて。 ねぇ、ミナちゃん。 貴方は今、何処に居るの。私は此処に居るよ。 変わらず絵を描いているよ。  中庭には誰も居なくて、葉を落とした木々が寒そうに生えているだけ。ベンチに腰掛け、クロッキー帳の真っ白なページを開く。 今なら、描ける気がした。 背景を気にせず、『彼女』だけを描いていく。 あの時見た微笑みを、想う。 顔の輪郭。美しい鼻筋。紅く染まった唇。白い頬。細めの顎。アーモンド型の目を彩る二重瞼。烏の濡羽色。腰のあたりまである長い髪。 丁寧に、丁寧に。 鐘の音。 寒さに足の先が冷えていくのを感じる。 でも、手が止まらない。 『アイちゃん。』 耳の中で響く私を呼ぶ声。色づく。 ねぇ…ミナちゃん。あなたはどこにいるの。 私は、ここにいるのに。 何も言わずに居なくなっちゃうなんて…酷いよ。 水滴が薄い紙に染み込んでいく。 彼女が、滲む。 「…流石ですね。よく描けています。」 不意に、後ろから声がした。目尻を擦る。 笹原部長だ。いや、彼はもう部長ではない。九月頃に引退して。でも推薦で入学が決まったからと言って最近は部活によく顔を出してくれる。今日も彼は窓辺で空を描いていたはずなのに…なぜ。 「…部長、どうして…。」 私の問いに彼は呆れた顔をして溜息をついた。 「…僕はもう部長ではありません。」 「…はい。」 でも彼を、部長以外の呼び方で呼ぶのはまだ抵抗があるのだ。 「貴方に渡したいものがあったのですよ。」「役に立つかどうかはわかりませんが。」 彼は自らの手提げ袋から板状のものを取り出して私の方に差し出す。私は恐る恐るそれに手を伸ばし、受け取った。 「では、僕は美術室に戻ります。風邪を引かないようにしてくださいね。」 「…ありがとう、ございます。」 部長は背中を向けて去っていく。あの人も来年はもうこの学校には居ないのだ。夏頃にはよく喋っていた高橋君も、委員会の任期が終わってから疎遠になって。今は冬休みで時々部活なのか姿を見かけるけれど言葉を交わすことは滅多にない。 みんな、居なくなっていく。離れていく。 ミナちゃんも高橋君も部長も、他の皆だって。 離れていくし、離していく。  感傷を振り払うために、手元に目を移した。 これは…部長のカンバス? 汚れを防ぐためなのか、表面に掛けられていた布を捲る。 そこには彼の魂が、在った。 丁寧に描かれた、真っ青な、『空』。でもあの夏、彼が描いていた夏の空と比べると少し、寂しげな雰囲気。 それでも凛としていてこの空はどこかミナちゃんを想わせる。そんな要素はないはずなのに。…似ている。 丁寧に『空』に布を掛け直して胸に抱く。ベンチから冷えきった体を離す。 戻らなくちゃ。戻って。早足で歩く。 美術室の古ぼけた扉。何度、この扉を開けただろう。これから何度、この扉を開けることになるのだろう。 取っ手を引く。暖房で暖められた空気。彼はまた新しい『空』を描いている。 「ぶ…さ、笹原先輩。」 「貴方にそう呼ばれるのは新鮮ですね。」 「…なんで私にこれを。」急いだからか、掠れた声が出た。 「要りませんでしたか?」 「い、いえ、そういうわけでは…。」 彼は私の抱えている自らの作品に愛おしそうに目を遣った。 「…僕の作品は基本空の絵だけです。それで完成形で、それ以外に何か加えると歪になる。しかしその絵は…いくらやっても完成形にはならなかった。なにかが、欠けていた。」「貴方はずっと描いていたでしょう?貴方が描く彼女を見た時、これだと。」「その作品に欠けているのは彼女です。だから、貴方の手でこの空を完成させてほしい。」 真っ直ぐに私を見つめる一対の瞳。この作品に欠けているものがあるなんて、思いもしなかった。いつもの様に完璧に見えた。 「…必ず、完成させます。」真摯な瞳を見つめて大きく頷いた。  無駄には、できない。彼の想いも、この空も。 今しかない。今なら完璧に彼女を描き出せる。 中庭に居た時よりも強く、そう想った。妙な確信、あの夏の日と同じ。 イーゼルに『空』を置く。鮮やかな色。その中に佇む彼女を想像する。想像の彼女と、夏の日の彼女を重ねて。 筆を動かしながら彼女を呼ぶ。心のなかで、叫ぶ。嘆きも悲しみも切なさも憧憬も、慟哭も、全て筆にのせる。上手く言葉にできないから絵を描く、上手く昇華できない感情があるから絵を描く。手が震えぬように、堪えながら、絵を描く。 彼女を呼ぶ、何度でも。 「…綺麗だ。」 息を吐くように呟いたのが聴こえた。 響き渡る鐘の音。 手が止まらない、手を止めない。 背景の『青』と対比するように。でも違和感の無いように。くっきりと『彼女』が浮き上がってくる。 …私は、此処に居るよ。何回でも、貴方に届くまで何回でも言う。  徐々に色づいていく。丁寧に、丁寧に。色づかせていく。 私は、ミナちゃんの瞳が大好きだった。彼女の感情に伴って変わる眼の光が美しくて、見飽きなかった。最後にその瞳を、色付かせる。光を、閉じ込めて。  …静か。他の部員はいつの間にか居なくなっていた。筆を置いた音だけが響いた。…空虚とはこういうことを言うのかもしれない。もう、空っぽだ。もう、何も無い。笑ってしまいそうになる。泣いてしまいそうになる。 …描き上げたら彼女が現れる気がしていた。 「…この彼女は笑っているのですか。それとも。泣いているのですか。」 後ろから声。鋭いひとだな、と想う。 「…わかりません。」 あの時の彼女は嬉しそうだと思ったけれど、 それはただの私の願いだったのかもしれない。幻想だったのかもしれない。だから、ミナちゃんはあの時本当は、泣いていたのかもしれない。 …私が描いたミナちゃんは泣いている様にも見える。 「でも…笑っていたら、いいなと。」 彼女が今、何処に居たとしても笑ってくれていたらいいなと思う。そしたら私も幸せな気がする。 「そうですね。」 その柔らかな声色を聴いて彼は何もかも知っているのかもしれない、と思った。彼女が居なくなった理由も、今どこに居るのかも。でも私は聞かない。聞けない。例え、彼が本当にそれを知っていて、教えてくれるのだとしても。 きっと耳を塞いで、聞かないことを選ぶだろう。馬鹿げているけどそうするだろう。私は、そういう人間だ。 「来ましたよ。」 「アイちゃん。」 ミナちゃんが、其処に、立っていた。 また、彼女が私の名を呼ぶ。 あの夏の日と同じ表情で。 やっぱり、彼女は嬉しそうに。微笑んでいた。 「ミナちゃん。」 私も彼女を呼んだ。そこで、 鐘がなった。 一人の少年が目を覚ます。 彼の中には不思議な夢を見ていた感覚だけが、朧気ながら残っている。 しかしそれも 「須藤ー?」 自分を呼ぶ親友の声に応えている間に薄れ、消えていく。 「…高橋、おはよ。」 彼は大きく伸びをして、自分の所属しているサッカー部の練習に向かうため、立ち上がる。そして教室から勢い良く駆け出して。 穏やかな喧騒を作り出す一つとなった。  そして、又、鐘がなる。
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