かみ結い

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□■□  月が昇る。  対岸から現れた月は丸く、紅い。ゆらりゆらりと揺れ動く鏡池の水面に、濃い月光が伸びた。  薄い紗の被衣を両手に掲げ、姿を覆い隠した娘が一人、池に入る。彼女が進むごとに、静かに池が波打ち、水面に浮かぶ光の道筋が歪んだ。  白い装束は赤に染まる。娘の背後では篝火がてらてらと燃え盛っていた。  火がはぜて、風が吹くたびに細かな火の粉が夜闇に散った。飛ばされた灯りは水の中にじわりと溶ける。  威厳を携え五里の任を担った娘には後に続く供人の影もない。代わりとでも言うように、透き通った薄い紗が尾を引くように水面にたゆたった。  池の岸では玲瓏と祝詞が詠みあげられる。  いくら里人たちが水神を祀り呼ぼうと、彼の者が姿を現す気配はない。  笛や太鼓が騒々しくかき鳴らされる中、妙はそろりと目を伏せた。 □■□ 「やああああっ! やだ! やめてっ!!」  伸ばした手すらあっさりと捻じ上げられて、少女は体を押さえこまれた。それでも、彼女は必死で体をくねらせ男の手から逃れようと抵抗し暴れた。 「妙」  鋭い叱責が落ちる。焦燥を帯びた声は、けれども少女の耳には届かなかった。 「やめて、父上、やめてよ」  彼女は繰り返し乞うた。  妙が前に進もうとするたびに、大きく跳ねた水が荒波を立てる。  豪奢な着物が膝裏まで水に浸かるのも、妙は厭わなかった。  ただ目の前に広がっている(うつつ)に悲鳴を上げて、泣き叫ぶ。 「やだあっ! たるぎ! たるぎっ!」  水が重い。思うように進まない足がもどかしい。後ろ手に捻じられた腕が痛かった。  背できつく縄によって拘束された手首。少年は数人の大人たちに囲まれ、すでに鏡池の深部にほど近いところまで進んでいた。  水は彼の腰まで迫ってきていた。  慣れ親しんだ少女の声を耳にした彼は、鞭を打たれたように顔を上げ、歩いてきた池の淵を振り返る。  己の肩越しに予想とたがわぬ少女の姿を見出してしまった弛祁は、瞠目した。  瞬時、彼の顔に焦りがよぎったのを、少女は離れた場所から見ていた。 「たるぎ!」 「――馬鹿、来るなっ! 戻れ、妙! 戻れ!」  弛祁は妙に向かって声を張り上げた。  身をひねって乗り出した少年の頭に、すかさず重い石が振り落とされる。何かが陥没する重鈍な音が轟いた後、鳴り渡った水音と共に盛大な波が立って、彼は池に呑み込まれた。 「――っああああああああ!」  妙は目を手で塞ぐこともできずに、流れていく光景を目の当たりにした。  数人の大人たちが立つ場所には、もう少年の姿がなかった。  慟哭が喉を突いて、胸をえぐる。ぼたぼたと目から零れ出る涙は、次々に池に吸い込まれた。水面にはほんのかすかな波紋しかたたない。 □■□  いつかこの日が来てしまうことをずっと案じていた。屋敷の離れの奥敷きに誰が住まっているのか、垣間見てしまった時から。  わずかに開いていた隙間は、昼餉が運び込まれたことですぐに閉じられた。  数年前から、たびたび鏡池で会っていた少年を己の家で見つけてしまった妙は嬉しくて、嬉しくて――声をかけようと思ったのだ。  近頃はめっきりと、池へ行っても会えないことが多くなってしまっていたから、少女の喜びはことさら深いものだった。  妙は顔を輝かせた。 「た――」 「なりません」  傍に控えていた下女は、奥敷きへ足を向けようとした少女を制した。 「これより先は行ってはなりませんよ、姫様。もう随分と前から罪人の息子を奥敷きに捕えているそうです。御身が危険にさらされるやもしれません」 「罪人の息子?」 「はい。先の細呉(さいご)の里長を殺めたのだそうです。下手人はその場で打ち首となったそうなのですが公平をきすためにも、あの息子の方は処遇が決まるまで我が長が五里を代表して預かることになったと聞いております。全く……涼瑪(すずめ)様もほんにお人がいい……」  どこか咎めるように下女はごちて、ささっと少女の背を押し離れるよう促した。妙はくるりと身を翻して、下女の手から逃げる。 「こら! お待ちなされ、姫様」  背から掛かった声を気にも留めず、妙は奥敷きにいる少年のもとへ駆けた。  けれども、いくばくも行かぬうちに衛士に阻まれ、たたらを踏むこととなった。  おっと、と白髪頭の老年の衛士は危うくぶつかりそうになった少女の肩を支えて、立ち止まった。 「そんなに慌ててどうなすった、妙姫様」 「(かや)じい。ねぇ、あの子、あの子はどうなるのっ!?」 「あの子?」  首を捻った衛士は、少女の目線の方向を辿った先に何があるのかを悟って「ああ」と呟いた。 「妙姫様は、あの方を見なすったのか。あの方は水責めの刑に処されることが決まったばかりじゃ。今や、儂の他にああも見張りの衛士をつけられての。ほんにかわいそうになぁ。何も親の業を子にまで負わせることはなかろうて」  もう目こぼししてやることも叶わん、と衛士は悲哀を滲ませて、そうぼやいた。 「まぁ、萱木(かやき)殿! 姫様にさようなことをわざわざ吹き込むなど!」  追って来た下女は頬を紅潮させて、年老いた衛士を非難した。  妙は呆然と立ち尽くした。  下女が頭上で老衛士を叱責する声も、初めに萱木が口にした言葉以外は、ただ勝手に耳を行き過ぎただけだった。 □■□ 「――っ……!」  身を根こそぎ絞りとられるような激痛は、突如、妙に襲いかかった。  月のものが来るときにも似た下腹部の鈍痛は、だが、常にある痛みをはるかに凌駕していた。 「妙!」  倒れこむように水の中へうずくまった娘に、彼女の父は青ざめた。  ぐったりと額に脂汗を浮かべ、腹部の着物をきつく握り込んだまま、妙は荒い息を繰り返す。かと思えば、ひゅっと奇妙な音を出して息を吸い込んだ少女は、奥歯を噛み締め、顔を歪ませたまま苦痛に耐えた。  水底から煙がくゆるように鮮血が湧き上がる。  妙はその様をおぼろげに目にしていた。  驚愕に色を失くした父が、鏡池の淵でうろたえていた下女の名を呼ぶ怒号の中、妙の意識は途切れた。
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