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かみ結い
はたり、はたりと娘の顔は白粉に覆われた。細やかな微粒が肌の表面を綺麗にならしてゆく。
つくられた白い肌、差された赤い紅。一つに結わえられた濡れ羽色の髪は、背を伝って緩やかに流れる。
娘の支度を手伝っていた下女は、衿元を整えていた手を止めた。世の者とは一線を画した娘の美しさに、彼女は感嘆の息を漏らす。
「……綺麗」
下女の言葉を受け、娘が微笑する。
けれども、娘に笑みを向けられた瞬間、後ろめたさが下女の胸中に湧き上がった。
思わず娘から視線をそらしてしまった彼女は、肩で切りそろえられた短い髪を静かに揺らし、俯く。
今宵、この娘は水神のもとへと捧げられる。贄として水に入るのだ。
下女は俯いたまま、そっと娘の顔を伺い見た。
娘の目がこちらではなくどこか別の場所に向けられていることに気付いて、彼女は知らず安堵していた。
すっきりとした娘の顔は今は横を向いている。娘の目は芒洋と、そう遠くはない昔を思い起こしているかのようだった。
そんな娘の姿に、彼女は詰まりそうになる息を急いで嚥下させた。
彼女は知っていた。
水神に求められる娘が、なぜ彼女でなければならないのかを。
□■□
「あなたは、だあれ?」
少女は問いかけた。
悠々と流れ込む川の恩恵を受けて、たっぷりとした水をたたえている池のほとり。
草木が覆い茂るこの場所で、唯一異質な存在感を示す大岩の上に、少年が一人、大して物怖じした風もなく腰かけていた。
少女の方へと向いた少年は、切れ長の目を眇めると「ああ、大屋敷の子?」と問うた。
少女が纏っている色鮮やかな着物。何度もくしけずられたのであろう腰まで流れる濡れ羽の髪。
どれをとってみても少女が裕福な家の娘であることは明らかであった。大方、下女たちの目を盗んで屋敷から抜け出してきたのだろう、と彼はあたりをつけたのだ。
でなければ、特別な儀以外、人の立ち寄らぬこの鏡池に少女がやってくるはずはなかった。
少年の予想通り、彼女はこっくりと首肯した。少女の素直な答えに対し、彼もまた満足そうに頷いてみせる。
「やっぱりそうか。そうだね、君は私の問いにきちんと答えてくれたから私も君の問いに答えてあげよう」
私は誰かという問いだったね、と少年は確認した。少女は再び頷いたが、彼はそれには目もくれず、うすらと笑みを深めて言った。
「私はね、水神だよ。この川の主、この鏡池に住むね」
「水神様!?」
突拍子もない声を上げた少女の目は、見る見るうちに丸くなっていった。あまりの驚きように可笑しくなった少年は、耐えきれずにくつくつと喉を鳴らして笑いだす。眦にうっすらと滲みだした涙を指で払いながら、彼は言った。
「そんなに驚くことじゃないよ。それに正確に言うと、まだ水神ではないんだ。だけれど私は近いうちに水神になるんだよ」
「近いうちに?」
「そう。近いうちにきっとね。その時は君も知ることになるのだろうけど」
少年は冷たい苦さを口元に閃かせる。
彼の微笑が一体何を指してのものだったのか、その時の彼女は知る由もなかった。
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