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1ニョロ
カチリ。
この微かな音は、私の一日が始まる合図。
午前7時、タイマー管理された照明が光量を増して、目蓋越しの視界を薄白に染めていく。
目覚まし時計は使わない。
けたたましい音が不快だし、この部屋をシェアしている彼らに不要なストレスを与えてしまうから。中でも寝室を共にする彼は特に神経質で、時に気性の荒さを垣間見せる。
リネンシーツがザラリと頬に心地良い。四肢を伸ばして、人肌に温まった部分と、冷えたままの部分の温度勾配を楽しむ。空調と加湿器が常時稼働しているこの寝室は寒暑と無縁だが、寝覚めは喉が乾く。
枕元のペットボトルに腕を伸ばした。
炭酸水の生温い苦さが、喉を滑り落ちていく。
そういえば、今日は休日だった。
ベッドに身を横たえたまま周囲を窺っても、夜行性の彼の姿は見当たらない。シェルターに身を潜めて寝静まっているのだろう。それに倣って私も毛布のシェルターで照明を遮り、暫しの惰眠を貪らせてもらうとする。
みんな、おやすみ。どうか良い夢を……
何処かで間の抜けた電子音が鳴っている。
執拗に繰り返すそれが自室のインターフォンだと気付いて、思わず嘆息を吐く。人がせっかく良い気持ちで微睡んでいるというのに、なんだと言うのか。いつものショップに何か注文してたっけ?
居留守を決め込みたいところだが、なんだか室内が少し匂う。彼自身は基本的に無臭だが、排泄物は流石にそうもいかない。やれやれ。そうだ、ついでに水も換えてやろう。
状況を前向きに捉えてシーツから身を引き剥がし、寝起きのアオジタトカゲみたいにズルズルと這って玄関へ向かう。
「はい」
「あの、私ですね、こちらの地域を担当させていただくことになりました。ついてはご挨拶のお時間を少しだけもらいたくて……」
「わかりました。じゃ、これが挨拶ということで。では」
「あ、いや、ちょっと待ってください。受信料、お支払いいただいてますか?」
「……あぁ、放送局の方ですか」
「はい。こちら、えっと……蛇飼様の履歴が確認できなくて」
「テレビ置いてませんので。以前の担当者さんにも、そうお伝えしたはずですが」
「そうですか。前任からの引き継ぎが不十分で、申し訳ありません。ただ、その後、状況にお変わりございませんか? あの、もしよろしければ、お部屋を少し拝見しても……?」
「……どうぞ。ドアはすぐに閉めてくださいね」
玄関でモソモソと靴を脱ぐオジサンを見守っていると、なんだか過去にもこんな場面があった気がしてきた。不毛だ。
私にとって、この部屋をシェアする彼らと過ごす時間こそが至福だというのに、なぜテレビなど見なくてはならないのか。そもそも彼らは外耳こそ持たないものの、振動に鋭敏だ。無闇矢鱈に音を発生させる装置など百害あって一利なし……という言葉を飲み込む。この人も仕事でやっているのだ。大人の対応でここには仕事がないことを認識してもらわなくては。
室内を順番に見ていく「担当者」を横目に捉えつつ、とりあえず寝起きのコーヒーを淹れる。
「へー どのお部屋にも、大きな水槽がたくさんあるんですね。この中には何がいるんですか?」
「それ、テレビと関係ありますか」
「あぁ、いえ、実は息子がコオロギを飼ってまして。こちらの水槽とか、植物と流木をとても綺麗にレイアウトされていて…… あ、残りは奥のお部屋だけですね」
「そこ、寝室ですよ。コーヒー飲みます?」
「いえいえ、どうぞお構いなく。すみません、寝室にテレビを置くご家庭が多いのでこちらも拝見します。すぐに済みますから……ひぃいっ!」
にわかに甲高いオジサンシャウトが室内の空気を震わせる。様子を窺いたいところだが、あいにくこちらはコーヒーに湯を注いでいる最中で手が離せない。
とりあえず、寝室に向けて声を掛ける。
「どうかしましたかー」
「あ、あの、ベッドの上に……蛇! 大きな蛇が!」
「あぁ、その子はまだ若いので、そんなに大きくないですよ。せいぜい2メートルちょっとしか……砂糖とミルク、いります?」
「まだ若いとか砂糖とか、そういう問題じゃなくて。こ、この蛇、本物ですか! なぜこんなところに!?」
「さっきまで私が寝てたから、温かいんでしょう。最近、急に涼しくなりましたよね」
コーヒーを注いだマグカップを持って行くと、廊下に尻餅をついている「担当者」が見えた。後方に突っ張った腕で辛うじて上半身を支えながら、両足の踵で懸命に床を蹴って寝室から少しでも距離を取ろうとしている。その仕草は、仰向けにされて藻掻くアメフクラガエルを連想させたが、初対面の相手に伝えるのは流石にはばかられた。
ここは社会人として、何か気の利いた話題を提供してリラックスしてもらうべき場面だ。間違いない。
「その子は『アルバーティスパイソン』っていうニシキヘビ科の中型種で、ニューギニア島周辺に生息しています。和名は『シロクチニシキヘビ』といって、その名のとおり赤銅色の胴体に対して、口唇周辺だけが白いんですよ。名前は『アル』君といいます。カワイイでしょう」
「な、名前って、貴方が飼ってるんですか。ってか、睨んでる! 私を睨みながら頭を持ち上げて、シューシュー言ってますよ!」
「貴方が驚かせるからですよ…… 咬まれても毒はないので問題ありませんが、牙の本数はニシキヘビ科で最多です。砂糖とミルクは?」
「咬む? やはり咬むんですか、この蛇! 咬まれたらどうなりますか!?」
「血が出ます。ブラックのままで良いですか?」
「し、失礼します!!」
尻餅をついた姿勢で四肢をバタバタとのたうたせて、廊下を後退していく「担当者」。深夜放送で流れていたホラー映画に、こんな場面があった気がする。そのまま玄関に置いた仕事鞄をちゃんと回収して、ドアを後ろ手にガチャガチャと開けて去って行った。
なかなか器用だな……と感心したけれど、残念なことに靴を履き忘れている。玄関から外を覗いても姿が見えなかったので、ポイポイっと放り出しておいた。
さて、部屋に戻った私は、残された二人分のマグカップを前に黙考する。ひょっとして、あの人はコーヒーが苦手だったのか。次の来客には紅茶と日本茶も選択肢として提示すべきか。
しかし、慌ただしい人だったが、テレビを置いていないことはわかってくれたはず。互いに最低限の目的は果たせたのだから悪くない結果と言えよう……と考えたところで、水換えをするつもりだったことを思い出した。
「アル、お待たせ」
寝室に戻ると、当の本人(あるいは本蛇)は何事もなかったかの様にシーツの上で悠々ととぐろを巻いている。
ベッドを取り囲んで配した大型ケージに水入れを戻す。アルは新鮮な水が嬉しいのか舌をチロチロ出し入れしながら、身をくねらせて水入れに沈んでいく。全身を覆う赤銅色の鱗。それらは水中で金属質の光沢を纏い、実に艶めかしい。なんと美しい生き物だろうか。
水中から鼻先だけを覗かせ、満足げな表情を見せるアルを眺めながら、少し冷めたコーヒーに口を付ける。
「そう言えば、君達のご飯をそろそろ買いに行かないとな」
蛇飼さんは冷凍庫の中身を思い出しながら、洗面所へ向かった。
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