1

4/4
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/92ページ
「怖がらせ過ぎたかしら? そんな怯えた顔をしなくても船に乗れば鬼は来ないわ」  気楽そうに言ったウナギがハッとして霧の奥を見つめた。 「時間のようね……」 「えっ?」  少女が目を凝らすと霧の奥から船影が見えてきた。手漕ぎボートのような船を想像していたが、かなり大きい。 「船に乗ったら極楽浄土へ。船に乗らなかったら地獄に……」  ウナギに言われたことを反芻する。乗るか乗らないかで言えば乗るしかない。地獄で責苦なんて味わいたくないのだから。 「そうそう。最後に一つだけ。さっきも言ったけどアナタの肉体はまだ死んでいない。もし、生き返りを求めるのなら船の中で名前を思い出しなさい」 「名前……?」  少女は直ぐに言葉の意味を知った。日常生活を思い出せないだけならまだしも自分の名前まででてこない。ど忘れなんて言葉で片付けられなくなってしまった……。 「あ、れ? おかしいな……。名前、名前なんだっけ? 私の名前……やっ、名前だけじゃ……ない。何も思い出せない! なんで? 私は誰なの?」  少女は頭を抱えてしゃがみこんだ。水面に映る女の子の顔にも見覚えがない。  ウナギが少女のもとに泳いできた。 「“自分が自分である”これは生者だけの特権。生まれ変わりをする魂は自己が無いまっさらな魂でないとダメなの。死者になろうとしているアナタから己に関する記憶が失われたのもそのためよ」  学校で習ったこととか日常生活のこととか一般常識は思い出せる。一方で思い出せなくなっているのは自分自身に関することだけのようだ。  両親の顔も一緒に暮らしていたときのことも、夏休みの思い出も趣味や好きな食べ物も何も思い出せない。  まさに自己を確立するものが何もないまっさらな状態だ。 「だから、自分が何者であるのかを思い出すことは生者としての権利を取り戻すこと。アナタが生を望むなら対岸に着く前に自分自身のことを思い出しなさい。それじゃ、ワタシは次の子のところに説明をしに行かないといけないから。あーーーいそがいし」  ウナギは手を振るように尾ビレを振りながら水底へ向かって行ってしまう。  少女は呼び止めようと「待って」と声をだしたが、ウナギは水底に姿を消した。  船がゆっくりと近づいてくる。もう濃霧でもハッキリと見える距離だ。フェリーと同じくらいの木造船。甲板上には屋敷が建っている。こちらも木造でかなり古い。  少女の前に停船すると甲板から板が降りてきた。その板の上を歩いて少女は船に乗った。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!