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2 クラスメートはひとりぼっち
オレのクラス、二年三組は本校舎の三階にある。
夕方の五時になり、本校舎教室棟の廊下や階段ですれ違う人は少なくなった。暗くなったらひとりでは歩けないな。夜の学校は怖いから。
後ろのドアから教室に入る。窓にかかるカーテンのすき間から夕方の日差しがさしこんで、机やイスがオレンジ色に染まっていた。
オレの席は後ろのドアの近く、廊下に面したすぐのところにある。
「あった!」
ポケット地図は、オレが使っているイスの真下の床に落ちていた。予想通りだった。ホームルームのあと、教室を出る直前にポケットから転げ落ちたんだろう。
「良かった」
ほっと息をつきながら、地図を拾いあげた。
さあ、部室に戻ろう。
地図を再びズボンのポケットに入れた。地図の存在を確かめるためにおしりのポケットをポンポンと二回たたいた。
教室を出ようとして、ふと教室の前方を見たときだった。
「あれ?」
教室には横に六台縦に六列で合計三十六台の机が並んでいる。その、いちばん前の席に誰かが座っているのだ。誰もいないと思っていたからギョッとした。
刈りあげた髪と丸い顔。白いワイシャツが、力士のように太った体にフィットしている。こんな姿をしたヤツはクラスにひとりしかいない。
前を向いたままなので、オレが教室に入ってきたことに気づいていないようだ。
「おーい」
後ろから声をかけた。
そいつはイスに座ったまま大きな体を右へ回し、顔をオレの方へ向ける。
「やっぱり、おまえか」
クラスメートの高岡啓太だった。
「なんだ、町田くんか」
高岡は驚いたふりを見せずに、ゆっくりと立ち上がった。身長は百八十センチくらいあって、オレが見上げてしまうほど。
「こんな時間に、教室になにしに来たの?」
「おまえこそ、なんで教室に残っているんだよ」
オレは教室のうしろに立ったまま、高岡に話しかけた。
オレの目を見ずに、うつむく。
「――家に帰りたくなかったから」
「帰りたくないって、どういうことだ?」
「ぼくのお父さん、一週間、外国に出張なんだ。家に誰もいないから」
「母さんがいるだろ?」
高岡は首を横に振った。
「ぼくのお母さんは、ぼくが幼稚園のときに病気で死んじゃったんだ」
「なんだって?」
知らなかった。
「ぼくには兄弟がいない。ぼくはお父さんとふたりで暮らしているんだ。だから――帰りたくない」
高岡は今年の四月に富山県から転入してきた。勉強はオレよりもできるけど、こいつ、おとなしくて人と話をしないから個人情報が伝わってこないんだ。
「いつまでも教室にいられないぜ」
「うーん。そうなんだけど……」
「家に帰るしか方法がないだろ、おまえ」
「お父さんからお金をもらってあるから、そろそろ近くのスーパーに行って夕ごはんでも買おうかなって」
オレは高岡の方へ歩き、正面に立った。
このままオレが教室から出て行ったら、クラスメートの高岡をひとりぼっちのまま、ほったらかしにしてしまう。変な罪悪感にかられて、ここから離れられなくなった。
「おまえ、部活は?」
ふたりに共通した話のネタがあるわけではない。ありきたりのことをきいてしまう。
「え、ぼく? 入っていないよ。ぼくは人とのおつきあいが苦手だから、そういうのは極力、避けているんだ」
そうかもしれない。転入してから今月で四カ月目に入ったのに、高岡はクラスメートと交わらずに、いつもひとりでぽつんと教室のイスに座っている。友達がいるように見えなかったから。
ふと、高岡の机の上に、社会の授業で使う社会科地図帳が載っているのが見えた。今日の社会の授業は地理ではなかった。
「地図が好きなのか?」
ストレートにきいてみる。
「ぼく、ひとりでいるとき、地図とか時刻表とかをよく読んでる。どちらかといったら好きな方に入るのかな」
「時刻表って、もしかしておまえ、テツ?」
「テツって、なに?」
「鉄道ファンのことだよ」
「ファンというほどではないけど、富山に住んでいたときはお父さんと一緒に電車をよく乗りに行ってたよ。万葉線とか黒部峡谷鉄道とかに――」
「だったら、地理研に入らないか?」
高岡の会話が終わらないうちに声をかけていた。直球勝負だった。こいつには地理研に入る資格が十分にある、チャンスだと思ったのかもしれない。
「チリケン? なにそれ」
「あ、ごめん。正式名は『調布中央高等学校地理研究部』っていうんだ。オレが部長を務めている」
「きみが?」
「別にえらいわけじゃないけどな。名前だけ」
「そうなんだ」
「オレたちの地理研は、通称『チリペッパーズ』というんだ」
「どういう意味?」
「チリペッパーとは、赤唐辛子を焙煎せずに乾燥して粉末にした香辛料のことさ。カイエンペッパーや一味唐辛子とほぼ同じもので、タンドリーチキン、カレー、キムチなんかによく使うんだ」
はっきり言って地理とはなんの関係がない。部員を呼びこむにはインパクトがあったほうがいいと思い、部長に就任したオレがシャレでつけただけだ。
「すごく、からそうだね」
「あははは。みんなに言われるぜ」
四月の部員勧誘のとき、愛称を精いっぱいアピールした。ところが、新入生たちから「チリペッパーッて、なに?」「すごくからそう」などと言われ評判が悪かった。愛称は逆効果だった。地理の良さをアピールしても、「地理よりも歴史の方が好き」「地図は読めないから嫌い」などと言われて誰も見向きもしてくれなかったんだ。
「愛称の意味は分かったよ。で、チリケンはどんな活動をしているの?」
「話すと長くなるけど、いいか?」
「うん。いいよ、別に」
高岡に確かめてから、オレは説明を始めた。
「オレたちの地理研は、日本全国津々浦々、知らない土地を訪ねる。地形や文化などを調べて、日本国内の地理をくまなく勉強しようというのが目的だ」
「ふうん」
「活動のメインは主に四つ。合宿、巡検、文化祭、そして機関誌の作成だ」
オレの話に、高岡の体が前のめりになった。
「合宿って、どんなことをするの?」
「合宿は夏休みと冬休みの年二回あるんだ。夏は二泊三日、冬は一泊二日を基本とする。都道府県を一カ所選定し訪問して、泊まりがけで、その土地の文化、食、伝統芸能、産業などにふれる。部員が各自でテーマを決めて、関係施設を訪ねたり地元の人のナマの話を聞いたりするんだ」
「巡検は?」
「簡単にいえば日帰り旅行だ。日帰りだと移動する距離が限られるから、千葉とか神奈川とか主に関東近県に行く。現地で調べる内容は合宿と同じだけど、合宿みたいに堅苦しくなくて、いわば部員どうしの親睦を深めるためにやっているようなもの」
「文化祭は?」
「夏の合宿で得た成果を、模造紙にまとめて、秋の文化祭で発表する。研究の内容を来場者に説明して、観光ガイドの役目も果たすんだ」
「機関誌の作成は?」
「合宿や巡検での調査結果を『チリレポート』という名前の機関誌にまとめている。四月の新入部員勧誘のときや文化祭のときに配ってる。文章で書くから文章能力や表現力が必要になるんだ」
一気に話して疲れた。オレが話しているときに相づちをうっていたけど、きちんと理解してくれたかどうか。
「わかったけど、ぼく、人がたくさんいるところって好きじゃないから」
高岡は机の上の地図帳をかばんに入れた。
「そろそろ家に帰る」
「ちょっと待ってくれよ」
腕を伸ばして、高岡が教室を出て行こうとするのを止めた。
「地理研はオレを入れても三人しかいないから。部員はみんな、いいヤツだし」
「だけど……」
「いきなり入部ではなく、見学してから考えてくれてもいいんだぜ。まずは部室へ案内するから」
逃すか、とばかりに攻める。
高岡は「うーん」とうなって、しばらく考えていた。
「わかったよ。きみを信じて行ってみようかな」
そうこなくちゃ。
「ありがとう、高岡」
とりあえず、第一関門を突破した。
教室を出てふたりで廊下を歩いた。こうして高岡と一緒に歩くのは初めてじゃないかな。
「きみはいい人なんだね」
「オレが?」
急にそんなことを言われてびっくりする。
「ひとりで教室にいるぼくに、声をかけてくれたから」
「そんなの、あたりまえだろ? クラスメートなんだから」
「あたりまえじゃないと思う」
「なんで?」
「ぼく、三日前からああやって放課後、ひとりで教室に残っていた」
「三日間も?」
「うん。忘れ物かなにかで教室に戻ってきたクラスメートが四、五人いた。ぼくの姿に気づいているのに、みんなぼくを無視してこそこそ教室を出ていくんだ。声をかけてくれたのはきみだけだった」
「そんなの、偶然だよ」
「偶然なんかじゃない。ぼく、友達を作るの苦手だけど、きみとなら友達になれる気がするよ」
オレは高岡のような、気が弱くて不器用そうなヤツを守ってあげたくなる。
「オレも、おまえとならすぐに友達になれると思う」
言ったとたん、高岡が立ち止まった。オレもつられて立ち止まる。高岡の目がキラキラと光っていた。
「さっきの話、撤回させてもらっていい?」
「どういうことだ」
いきなり約束を破る気か。高岡の顔をにらんだ。
「見学ではなくて、正式に地理研に入部することにしたよ」
なんだ、おどかすなよ。もちろん、そっちの方が何倍もいい。オレは胸をなでおろした。
「うれしいけど、なんで急に?」
「ぼくは、町田くんがうらやましいんだ」
「オレが? どうして?」
「きみはクラスの人気者で、きみのまわりにはいつも人が集まってくるじゃないか。ぼくにないものを持ってるから。ぼくみたいに孤独じゃないし」
「そんなことはないよ」
「それにきみには、口は悪いけど、ほかの人にはない優しさもある。きみと深くつきあって、きみという人間をもっと知りたいと思ったから。同じ部活に入れば、いつも一緒にいられるしね」
口が悪いはよけいだけど、高岡はオレのことをそんなふうに見てくれていたのか。
再び歩き出したとき、オレはうれしくなってスキップしていた。体の大きい高岡が遅れて、三メートルほど差がついてしまった。立ち止まって高岡が追いつくのを待ち、今度は高岡に合わせてゆっくりと歩いた。
「オレも高岡がうらやましい」
「なぜ?」
「帰れるふるさとがあるからだよ」
出身地以外の都道府県に住んで、生まれたところに帰れるという、オレが一度やってみたかった経験をしている。ちょっとくやしい。
「両親の出身地が調布市内で、父さんの実家に住んでいるオレにはふるさとがない。お盆の時期も正月も、いつも調布の家にいるんだ。一度でいいからどこかに帰省してみたい」
「そういう考えもあるんだね」
高岡が今日、はじめてオレに笑顔を見せた。笑ったときに口元が魚のフグのようにぷくっとふくれるのがチャーミングだ。
「でもね、町田くん。帰りたくても帰れないふるさとだってあるんだよ」
「どういう意味だ」
高岡は黙っていた。
ヤツのうつろな表情が気になったけど、それ以上、話につっこまなかった。
「高岡啓太です。よろしくお願いします」
高岡は部室の黒板の前に立ち、緊張した様子で桜子と名取に頭を下げた。
夕方になり、部室の中はさっきよりも薄暗くなっていた。
名取が珍しいものを発見したように、高岡の全身を上から下までジロジロと見回す。
「町田先輩。本当に新入部員ですか? ドッキリ、じゃないでしょうね?」
「なんだ、ドッキリッて?」
「テレビ番組で見かける、イタズラを仕掛けて人をドキッと驚かせる手法のことです」
「オレがそんなことをすると思っているのか、おまえ」
わけのわからないことを言うな。オレは名取の頭をコツンとたたいた。
桜子が「さすが雄平。見直したよ!」と言ってオレの右腕のあたりをポンとたたく。珍しく桜子がほめると思っていたら――。
「ただの地理バカじゃなかったんだね」
「バカはよけいだ」
ちくしょう。ふたりでオレをからかいやがって!
名取と桜子が立ちあがって「やったね、名取くん」「やりましたね、阿久根先輩。部の存続まであとひとりになりました」とふたりでうれしそうにハイタッチだ。
やけに喜んでいるけど、これ、オレの実績だぞ。おまえらもオレに見習って部員を見つけて来い、と怒鳴りつけてやりたいところだ。
「高岡くん。教壇の上にあるボンタンアメ、勝手に食べていいからね」
桜子がボンタンアメの箱を指でさす。
「は、はあ?」
いきなりボンタンアメの話かよ。高岡が戸惑っているじゃないか。
「ぼく、太りやすいから、甘いものはあまり食べないんだ」
オレも食わない。高岡はオレと同志だな。
「わたし、隣のクラスだけど、きみのことを全然知らなかった。転入生って珍しいから、情報が流れてきてもおかしくないのに」
桜子がボンタンアメを口に放りこんだ。
「こいつ、おとなしくて目立たない性格だから。な」
高岡が「うん」とうなずいた。
「高岡さん。クイズは好きですか?」
次はボクの番とばかりに名取が元気よく尋ねた。
「好きでも嫌いでもないけど、テレビのクイズ番組をたまに見るくらいだよ」
まさか、いつもおまえがやってるクイズを高岡に出すんじゃないだろうな。
「これからボクが地理に関する問題を出しますから、答えてください」
「ちょっと待て。なんだか入部のテストみたいじゃないか」
オレは、名取の前に右手を出して制止した。
「テストではありません。問題の正解率から、高岡さんの地理に対する興味と理解度を測るだけです」
難しい言葉を並べて相手を説得させようとする、名取らしいやり方だけど――。こいつは自分の知識アピールのために難問を平気で出すからな。
「高岡が一問も答えられなくて、自信をなくすことがあったら困る。万一、入会を断わられたらどうするんだ」
「そんなことは先輩に言われなくてもわかっています。いつもよりもレベルを落として、授業で習う程度の初級問題を出すつもりですから」
「本当だな」
「任せてください」
名取に好きにさせることにした。実際に高岡の実力を見てみたい気がするし。
「それでは高岡さん。問題、出しますよ」
名取は問題集やスマホを見ずに、頭の中で、即興でクイズ問題を作る。表情は真剣そのものだ。
高岡はやる気が満々のようで、目を輝かせている。
「第一問です。長野県と新潟県を流れて日本海へ注ぐ、日本でいちばん長い川はなんでしょう?」
「信濃川です」
高岡は自信満々に答えた。
社会の授業で習う、基本中の基本だな。地理が苦手なヤツでも答えられる範囲の問題だ。
「第二問です。秋田県にある、日本でいちばん水深の深い湖はなんでしょう?」
「田沢湖です!」
即答だ。なかなかいける。
「では第三問。日本の国道でいちばん延長距離が長いのは、東京都と青森県を結ぶ何号線でしょう?」
「四号線!」
やるじゃないか。
「第四問です。日本にある鉄道の駅で、いちばん乗降客数が多い駅はどこでしょう?」
「新宿駅!」
答えるときの声がだんだん大きくなってくる。
「第五問.都道府県の中で、島の数がいちばん多いのはどこでしょう?」
「長崎県だよ!」
高岡は、部室全体に響くような大きな声で即答した。
全問正解だ。
「すごいね!」
桜子が腕を組みながら何度もうなずいた。
オレも見事だと思った。地理を授業で勉強していたとしても、ポンポンと答えられるものではないぞ。
ここまで見せられると欲が出る。難しい問題を試したくなった。
「名取。次はおまえが難しいと思う問題を出してやれ」
「いいんですか?」
「かまわない」
「わかりました!」
名取が乗ってきた。脳みそがフル回転していることだろう。
こいつがどんな問題を出すのか。簡単な問題から難しい問題にスムーズに切り替えられるのか――オレは興味津々に見守った。名取の腕の見せどころだ。
「第六問です。兵庫県の淡路島に属する市は全部で三つあります。その三つの都市はなんでしょう? すべて答えてください」
オレにとっては簡単だ。高岡にわかるかな?
「ぼく、小学六年生のときに、お父さんとおじいちゃんおばあちゃんの四人で淡路島に旅行したことがあるからわかるよ。答えは淡路市、洲本市、南あわじ市」
「正解です」
やるな。地理ファンでも三つすべてを答えるのは難しい。桜子はオレのとなりで「わたしは淡路市しかわからなかった」って言っているし。
次の問題はいかに。
「第七問です。日本にある町の中で、人口が五万一千人といちばん多い、広島県にある町はどこでしょう」
「あ、地図で見たよ。府中町です!」
「正解です!」
出題した名取が「すごい!」と言って目を見開いた。
脱帽だ。こいつ、しろうとではないな。普段から地図帳を愛読しているだけある。
さあ、次だ。
「第八問です。面積が三.四七平方キロメートルと、日本の市町村でいちばん面積が狭い、富山県の村はどこでしょう?」
高岡の地元問題だ、と思った瞬間――。
「舟橋村(ふなはしむら)です!」
オレの耳が痛くなるくらいの、今まででいちばん大きな声で答えた。
「声がでけえよ。もっと小さな声で答えられないのかよ」
顔をしかめて両手で両方の耳を押さえた。高岡は体がでかいが、声も大きい。
「舟橋村は、ぼくが生まれた村なんだ!」
オレの話を聞いていなかったのか、またも怒鳴るような声を出した。
「そうなの」
「そうなんですか?」
桜子と名取が目をパチクリさせた。
名取は、高岡が舟橋村出身という事実を知らないはずだ。高岡が加入したばかりのタイミングで出身地の問題を出すという偶然に、オレはただ驚くばかりだった。
「舟橋村はね、富山県のみならず、北陸三県の中で唯一残った村なんだ」
高岡の興奮はおさまらない。
平成の市町村合併で市が増えた代わりに、多くの町や村が消えた。村がひとつもなくなったり、ひとつだけになったりした都道府県は多いけど、富山県にある村が舟橋村だけだったとは知らなかったよ。
「高岡くん。舟橋村って、富山県のどのあたりにあるの?」
桜子が聞いた。
「真ん中あたりかな。県庁所在地・富山市の東にあるんだ」
「うーん、言葉だけじゃ想像できないよ」
桜子は「地図で調べてみる」と立ち上がり、部室のうしろへ歩いていった。
部室の後方の壁にある四台の大きな本棚の中に、大小さまざまな六百冊もの地図帳や旅行ガイド本が収まっている。
全国の市町村ごとに分けた草花社(くさばなしゃ)発行の都市地図が全三百六十九冊。分県地図が四十七冊。日本全国の国内旅行ガイドが全百八十冊。全国道路地図、住宅地図、古地図まである。
「すごいね。こんなにたくさんの地図本を見たのは初めてだよ」
高岡は本棚の地図を眺めながら目をぱちくりさせた。
「地図の発行で有名な草花社の社長が寄付してくれたんだ。前の校長が社長と知りあいらしくて」
オレは自慢するように話した。
これだけの数の地図を持っている地理研究部は他にないだろう。オレの部で唯一自慢できることかもしれないな。
桜子が本棚の中から富山県の分県地図を持ってきて、机の上に広げた。広げて使うシートタイプの地図で、たてよこ、それぞれ一メートルの幅がある。表裏両面に同じ地図が書かれていて、表はカラー刷り、裏は白黒だ。
全員が立ちあがり、地図を囲むようにしながら全員がのぞきこむ。地図を見るときの目は誰もが真剣だ。
「ここが富山市でしょ」
桜子が前かがみの姿勢で、広げた地図の中心から少し上のあたりを指でさした。富山市の市街地が赤い区画で表現されている。
「少し東だよね」
「ここです!」
今度は高岡が指をさす。指の先に、舟橋村と書かれた漢字があった。村の範囲は地図の中ではせまくて、わかりにくい。
「本当に小さいですね。都市地図の方が見やすいかもしれない」
名取が、顔が付きそうなくらい地図に目を近づけた。
「わかった。持ってくる」
桜子が再び部室の後ろへ行った。今度は富山の都市地図を持ってきて机に広げた。
分県地図が県全体を一枚に載せているのに対し、都市地図は同じ大きさの地図に富山市、立山町、舟橋村の三市町村だけを載せている。縮尺が大きいから細かい地域が見やすいんだ。
「都市地図でも狭く感じる。本当に小さい自治体なんだな」
オレが感想をもらす。全員がうんとうなずいた。オレの住む調布市の面積は二十五平方キロメートルで全国の市町村の平均からみると小さい方だけど、舟橋村はさらにその七分の一くらいの広さだ。日本で最も広い岐阜県高山市の何分の一なのか。
「舟橋村には駅がひとつしかないのね。越中舟橋……」
桜子が地図に目を光らせる。
「ひとつあるだけいいですよ。全国には、鉄道が通っていない自治体はたくさんありますから」
「ふうん」
名取の説明に桜子が首をたてに振った。
「阿久根先輩にクイズです」
「え、わたし?」
桜子が自分を指でさす。
「舟橋村は、平成六年まで、あるものがなかった唯一の市町村でした。その、あるものとは何でしょう?」
「えー、全然わからないよ。名取くん、ヒントをちょうだい」
「東京都内には千四百くらいあります。調布市内にも、もちろんあります。阿久根先輩もきっと一度は行ったことがありますよ」
「わたしが行ったことがある?」
さすが名取だ。ヒントの出し方がうまい。まあ、オレはヒントがなくてもわかったけれど。
「わからない! 降参よ!」
桜子が悔しそうに天井を見上げた。
「名取。オレが代わりに答えてもいいか?」
オレが豪語する。確信があった。
「どうぞ」
「郵便局だ」
中学生の頃に地理の本で読んだのを覚えていた。
「そうだよな、高岡」
「……」
返事をしない。不思議に思って高岡の顔を見ると――。
地図を眺めたまま涙を流していた。
「ど、どうした、おまえ」
オレは驚いて、高岡の右肩をつかんだ。
大きな涙がポタポタと床に落ちていた。
目にゴミが入ったのか? いや、グスングスンと声を出しているから本当に泣いているようだ。
突然の出来事に、桜子と名取は心配そうに高岡の顔を見つめていた。オレも混乱して、どんな言葉で話しかければいいのかわからなかった。
「みんな、ごめん。みっともないところを見せちゃって」
高岡は右腕で涙をぬぐった。
「本当にどうしたんだよ」
「舟橋村の地図を見て、おばあちゃんを思いだしちゃったから」
「ばあちゃん?」
オレは、高岡の肩から手を離した。
「三月まで、ぼくは舟橋でおばあちゃんと一緒に住んでいたんだ。だけど、製薬会社に勤めるおとうさんが四月に東京本社へ栄転になったから、別々に住むことになったの」
オレはしんみりとしてしまって、高岡に声をかけられなかった。
「ぼくが幼稚園のときにお母さんが病気で亡くなった話はさっき、町田くんにしたよね。そのときからおばあちゃんは、おかあさんの代わりにぼくを一生けんめいに育ててくれたんだ。ぼくはおばあちゃんが大好きだ。それで……」
「おばあちゃんとは会っていないの?」
桜子が地図をたたみながら聞いた。
「うん。東京に転勤になってから、お父さんの仕事が忙しくて、富山には一度も帰ってないんだ。今年のお盆休みも忙しくて休みがとれないって言ってた。かといって、お父さんは、ぼくを一人では富山に行かせてくれないから」
「それじゃ、さびしいね」
「おばあちゃんはひとりで暮らしているから、ぼく以上にさびしい思いをしているんだ。ぼくが話し相手になってあげたいのに……」
高岡はまた、涙を落とした。
「おまえの父さん、出張中だろ? 今、勝手に帰る手もあるんじゃないか?」
「それも考えたけど、万一お父さんに知られたら、きっと叱られるから」
高校生がそんなことで叱られるのもおかしいけど、故郷に帰れない理由が家庭の事情だとしたら、オレは反論できない。
「高岡くんは、おばあちゃんを愛しているのね」
「うん……」
オレたちは、黙りこんでしまった。
涙を流す部員の姿は見たくない。桜子も名取も、オレと同じことを考えているにちがいない。
「ねえ、雄平」
桜子はボンタンアメを口に放りこみながら、真剣な目でオレを見る。
「なんだよ」
「夏休みの合宿だけど――わたしたち、今年の行先をまだ決めていないじゃない」
「まあな」
「行き先を富山県にして、高岡くんをおばあちゃんに会わせるのは、どう?」
「そうか!」
オレはパチンと両手をたたいた。
「そういう手があったな。ナイスアイデアだぜ」
「でしょ!」
桜子が胸を張る。そんな簡単なことに気がつかなかった。
「ボクは町田先輩と違って、当然、気づいていましたよ」
名取がいやみったらしく言う。だったらもっと早く言えよ!
「高岡、それでいいか」
高岡は元気よく「うん!」と返事をした。
「部活動なら、お父さんも富山に行くことを許してくれると思うし。喜んで受けるよ」
「決まったね」
桜子がガッツポーズをした。
「良かったですね!」
名取が笑顔でパチパチと拍手を贈る。
「みんな、ありがとう!」
高岡はうれしそうに、オレに握手を求めてきた。オレはがっしりと強く手を握った。
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