5 小さな村のはなし

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5 小さな村のはなし

 帰宅ラッシュが始まる前のようで、富山地方鉄道の電鉄富山駅の構内を歩く人はまばらだった。 「先生。この駅はスイカやパスモが使えませんよ」  高岡が、定期入れを出してスッと自動改札を入っていこうとする須崎先生のことを注意した。 「え、そうなの?」  須崎先生は自動改札機の直前で足を止めた。 「富山地方鉄道専用のICカードは使えるけど、スイカやパスモなどの全国共通カードは使えないんです」  オレたち地理研部員は事前に調べておいたから失態はしない。 「ここは東京じゃないんだぜ」  オレは腕を組みながら先生に冷たい視線を送った。先生は「不便ね」と不満そうな顔だ。日本全国、どこでも東京と同じだと思っているのだろう。  自動券売機で越中舟橋駅までの切符を買った。  駅の窓口でもらった名刺サイズの紙一枚だけの時刻表を見ると、列車の運転本数は一時間に四本から五本ある。 「寺田駅までは本線と立山線というふたつの路線の電車が走るから、本数が多いんだ」  高岡の説明にナットクだ。  電鉄富山駅は頭端式ホーム(複数のプラットホームがカタカナのヨの字のようなかたちで陸続きになっている構造のホーム)で、ホームが三面、線路を四線有する大きな駅だ。  改札口を抜ける。真ん中の二番線に、銀色の車体に赤い横ラインが入った、二両編成の電車が止まっていた。十六時三十七分発の宇奈月温泉行だ。 「モハ17480形といいます。もともとは東急電鉄で走っていましたが、東急が富山地鉄に譲渡しました」  名取が車両を指でさしながら得意げに言った。オレから「すごいな」と言われるのを待っているのか、名取がオレの顔をのぞきこんでいる。富山地方鉄道の車種ならオレも知っている。今回ばかりはおまえの思惑どおりにいかないぞ。  オレたち五人は、電車のロングシートに並んで座った。冷房が効いて気持ちがいい。体が適度に冷えて、汗がすっと引いていく。  電車は静かにモーター音を響かせて電鉄富山駅を発車した。すべての座席が埋まるくらいの混み具合だった。越中舟橋駅までは六駅、十五分の短い旅だ。  しばらくの間住宅地を走り、常願寺川を渡ると車窓に田んぼが見えてくるようになる。 「舟橋村から富山市内に通勤通学する人は多いよ。富山市のベッドタウン化が進んでいて、舟橋村は人口増加率が県内の市町村の中でいちばん高いんだ」  高岡が楽しそうに話した。鉄道で十五分という距離の近さと、本数が多く使いやすいのが理由だろう。  名取が「そのとおりです」と何度もうなずく。こいつはウソをつかないから実際に知っていたのだ。最初の説明が高岡でよかった。名取が最初だったらオレはきっとムカついて怒鳴り飛ばしたに違いない。  越中舟橋駅に着いてホームに降り、地下連絡通路を通って南口に出る。あたりは住宅地だった。  駅舎は古い木造をイメージしていたけど、なんと、三階建ての近代的なビルだった。 「駅と村立図書館が併設しているんだ」  高岡が駅舎を見あげながら言った。  駅舎正面の上の方に「舟橋村立図書館 舟橋駅」という文字が入った看板が掲げてあった。  名取と桜子が、持っていたスマホのカメラで駅舎を撮る。さすがにぬかりがない。オレも見習ってスマホでパチパチ。 「ぼくの家は駅から歩いて十分。村役場の近くだよ」  駅前から延びる二車線の広い道を高岡についていく。途中、農協のマークが入った大きな米の倉庫やコイン精米所があって、農村地帯に来たことを実感する。  小学校や村役場を過ぎると、赤いかわら屋根の大きな家がみえてきた。 「これがぼくの家さ」  高岡が家を指でさした。広い敷地に、家がとなり合わせに二棟建っている。両方とも木造二階建てだ。東京でこんなに大きな家と土地を持っていたら、どのくらいの値段がつくのか。 「両方とも、おまえの家?」 「ぼくのもの、というわけでないけど、ぼくの実家。左が普段から暮らしている母屋で、右が旧旅館さ」  道路に面して和風の門が建っている。屋根はかわら、扉は格子造り。こんな門はオレの家にはないし、近所にもない。調布にある古刹、深大寺の入口にこれと似た木造の山門があるけど、高岡家は一般市民だからな。  格子扉を開け、母屋の玄関の前に立つ。玄関扉は左右にスライドする引き戸タイプだ。高岡は自分の家なのに、扉の右上にあるチャイムのボタンを押した。  しばらくして、家の中から「啓太かい?」という女の人の声がした。 「そうだよ」  カチャリとカギの音が響いて玄関扉が開く。  背が低くて、ほほがふっくらとした女の人が中から出てきた。 「久しぶりね!」  女の人は、満面の笑みで高岡のことを抱きしめた。身長差が三十センチくらいあるから、まるで巨人と小人が抱きあっているみたいだ。  高岡は「みんなの前で恥ずかしいよ」と照れた。 「部活動の仲間と顧問の先生を連れてきたよ」 「いらっしゃいませ」  女の人が丁寧に深々と頭を下げた。 「ぼくのおばあちゃんの富栄です」  高岡がオレたちに紹介した。 「よろしくお願いします!」  オレたちがあいさつをすると、ばあちゃんは「こちらこそ、よろしくお願いします」と返してきた。  白髪がなくて顔にしわもないし、若々しい。ばあちゃんには見えない。母さんといってもおかしくはない。 「本当に高岡くんのおばあちゃん?」  桜子が首をかしげている。 「もちろんだよ」 「高岡。ばあちゃん、おいくつなんだ?」  オレが何気なく聞いた。 「女性に年齢を聞くのは失礼だよ」  桜子がキッとにらむ。 「別にいいだろ!」 「良くない。あんたは女性の気持ちが全然わかってない!」  プンプンしている。こいつ、大人ぶりやがって。 「オレにそんなの、わかるわけがないだろ!」  またムキになってしまった。オレたちのやりとりを見て、富栄ばあちゃんは苦笑いしていた。 「おばあちゃん、年齢を教えてもいい?」  高岡が聞くと、ばあちゃんは優しく「いいよ」と答えた。 「五十八歳だよ」  高岡が堂々と言った。 「ええっ! そんなに若いのか」  オレは富栄ばあちゃんをまじまじと見た。名取も「信じられません」と驚いた顔をした。 「オレのばあちゃんは七十八歳だぜ!」  調布の実家で一緒に暮らしているオレのばあちゃんと二十歳も違うとは。それよりも、今五十歳のオレの母さんと八つしか違わないことの方がびっくりだ! 「ぼくのお父さんは富山大学に通っているときに学生結婚した。お父さんが二十一歳のときにぼくが生まれているんだ。だから必然的におばあちゃんも若いということさ」  オレは、父さんが三十六歳のときに生まれた。結婚が早いか遅いかで大きく差が出るものなんだ。 「お疲れでしょう? みなさん、家の中でゆっくりしてください」  富栄ばあちゃんが声をかけてくれた。オレは緊張しながら家の中に入った。  広い玄関で靴を脱ぎ、高岡を先頭に母屋の廊下を歩く。二十メートルくらいまっすぐ続く廊下の左右に部屋がある。高岡の話によると母屋はすべて和室で、一階に五部屋、二階に三部屋あるそうだ。 「土地も家屋も広いと、固定資産税の支払いがきっと大変ですね」  名取が歩きながらつぶやいた。 「おまえはよけいことを言わなくていい」  オレが注意しても名取は顔色ひとつ変えない。 「小さな自治体である舟橋村にとって、貴重な世帯だと思いますよ」 「だからよけいことをいうなって言っているだろ!」  先輩からのお小言を無視する。大したヤツだ。ただ単に税金の知識を披露したかっただけだろう。前を歩いていた高岡がこっちを振り向いて、苦笑いだ。  オレたちは今回、廃業した旅館の部屋を使わせてもらうことになっているんだ。 「さあ、みんなの部屋はこの先だよ」  母屋と旧旅館の建物は、一階にある渡り廊下でつながっていた。  旧旅館の廊下は、ホコリがひとつも落ちていないくらい掃除が行き届いている。廃業した建物と思えない。  高岡が部屋の前まで案内してくれた。  部屋の割りあては男女で分かれる。オレと名取が一階のいちばん奥にある和室、桜子と須崎先生は旧旅館に一部屋しかないというトイレ付きの洋室だ。  できれば、名取と同じ部屋になりたくなかった。男女別に二対二で部屋割りをするからやむを得ない。一人部屋でも良かったんだけど。  オレ、高岡、名取の三人で和室に入った。  八畳間のお座敷兼寝室にこげ茶色のお膳が置かれ、その周りに座布団が四枚敷いてあった。和室の外側に設けた板敷き部分(内縁)にはソファとテーブルが置いてあって、窓から夕日の光が差しこんでいる。うす緑色の畳は新しいし、畳や床にほこりが落ちていない。ばあちゃんが掃除してくれたのだろう。ゆっくり休めるぞ。 「立派な旅館なのに、なぜ廃業にしたんだ? 建物はまだ使えそうだし、もったいない気がして」  高岡に聞いてみた。誰もがきっと、そう思うから。 「いちばん大きな理由は、旅館の支配人を務めていたおじいちゃんが急に亡くなったからかな。本当はぼくのお父さんの弟――ぼくから見て叔父さんにあたる人が跡を継ぐ予定だったんだけど、その人、問題があって」 「問題?」 「あ、いや、変な話をしてごめん。なんでもないから」  なにを慌てているんだ。気になるな。 「夕食は七時からだよ。時間まで各自、部屋で休んでいて」  高岡の話によると、旅館を営んでいたときの料理長さんとスタッフさんがお手伝いに来ているとのこと。オレたちのために申し訳ない。  高岡が母屋に帰ると、オレと名取が和室に残った。  密室に名取とふたりだけでいると、こいつ、きっとオレにクイズを出してくるにちがいない。こいつは今、旅行バッグに入れてあった衣類や本を畳の上に出して整理整頓しているからおとなしいけど、終わったとたんオレに攻撃を仕掛けてくるに決まっている。  その前に、だ。 「オレ、今から越中舟橋駅に行ってくる」 「え?」  名取が作業の手を止めてオレを見あげた。 「明るいうちに、駅を通る富山地鉄の車両を撮りたいんだ」 「もうすぐごはんですよ」 「夕飯まではまだ一時間以上あるし、時間がもったいないだろ?」 「舟橋村は先輩にとって知らない土地です。もし道に迷って、先輩がここに帰れなくなったら夕食の時間が遅れます」 「迷うわけがないだろ!」  オレは舌打ちをした。旧旅館は駅から歩いて行ける距離にあるんだ。地理が得意なオレがミスをするわけがない。  高岡を誘うか考えた。あいつはばあちゃんと久々に再会したばかりで、きっと今ごろ、話に花を咲かせていることだろう。  ひとりで行った方がいいな。  外出先を高岡に伝えておこう。外出中になにかがあったらLINEで知らせることも。  渡り廊下を通って、母屋の一階にある居間へ。  高岡は居間のテーブルにひとりで座り、スマホをいじっていた。 「高岡」  声をかけると、高岡は顔を上げた。 「町田くんか」 「おまえ、ばあちゃんと話しているのかと思った」 「おばあちゃんは今、夕食の準備さ。おばあちゃんは料理が得意だから、料理長だった人と一緒に作っているんだ」  外出することを話すと、高岡は笑顔を向けた。 「きみにつきあってもいいよ。今、帰宅ラッシュの時間で列車の本数が多いから」 「いいのか?」 「うん」  高岡がいてくれた方が盛りあがるし、安心感もある。 「ありがとう」  こういうときに気さくにオレの頼みに応じてくれる高岡の存在は、オレにとって大きい。名取と桜子のふたりは正直、気が合わないからな。いいメンバーが入ってくれたと、オレは高岡に感謝しているんだ。 「舟橋村、気に入ってくれた?」  玄関で靴をはきながら、高岡が聞いてくる。 「今日、来たばかりで答えにくいけど――空気がきれいで自然が多くて、住みやすい村なのは間違いないよ」  ありきたりの答えしか返せなかった。質問を想定して、答えを事前に考えておけばよかった。  高岡と一緒に玄関を出ると、門の前の道路上に立つ富栄ばあちゃんの姿が目に映った。あれ、夕食を準備しているはずでは?  ばあちゃんの正面に、五十歳くらいの、白いTシャツにクリーム色の短パンをはいた男の人が立っていた。短めの髪の毛を茶色に染めている。  なにをしているのか。  ばあちゃんが、小さな封筒のようなものを男の人に手渡していた。 「義行さん!」  高岡が叫んだ。  男の人は、ばあちゃんから封筒を奪い取ると、近くに停めてあった白い車に乗りこんだ。  自分で運転して逃げるように去っていった。  高岡が追いかけようとした。追いつくわけもなく、途中で足が止まる。 「今の人は誰だ?」  オレの質問に答えず、高岡は富栄ばあちゃんのもとに駆けよった。 「おばあちゃん。もしかして、義行さんにまだお金を渡しているの?」  高岡は、ばあちゃんの正面に立ち、大きな声を出した。 「え、ええ」  ばあちゃんはその場で申し訳なさそうに下を向いた。 「ぼくたちが東京に引っ越す前に、ぼくとお父さんとで約束したじゃないか。義行さんにお金を渡さないようにって!」 「約束を破ったのは悪かったよ。でもね、義ちゃんを見るとかわいそうになっちゃってね。どうしても渡しちゃうんだよ」 「これ以上甘やかすと、義行さんのためにならないことは、おばあちゃんもわかっているはずなのに」 「啓太。だけどね、こればかりは……。ごめんね」  ばあちゃんはうつむきながら、逃げるように玄関を入っていった。  高岡は、顔をしかめてチェッと舌打ちをした。高岡の怒った顔を初めて目の当たりにした。 「町田くん。待たせてごめん」  オレの前に戻ってきて頭を下げる。  いままで接したことのない高岡の表情にちょっとショックを受けたオレは、顔をまともに見られなくなった。  オレたちはなにもなかったかのように駅の方向に歩きだした。さっきの出来事に触れていけないと思いがあったのか、お互いに黙ったままだ。  越中舟橋駅まであと百メートルのところまで来たとき――。 「見苦しいところを見せてしまったね」  高岡が口を開いた。 「――さっきの男の人は誰だ?」  こいつにつられてオレにもスイッチが入った。こういうとき、黙っていられないのがオレの性格だ。 「ぼくの叔父」 「オジ?」 「高岡義行っていうんだ。ぼくのお父さんの弟にあたる」  不審人物に見えたので、まさか、高岡の親戚だとは思わなかった。 「おまえの話を聞いていると、封筒の中身はお金だと」 「うん」 「健全なお金ではないんだな」 「あまり言いたくないけど、そういうこと」 「おまえの叔父さん、まともな人に見えなかった」 「義行さんは、年齢がお父さんより三つ下の三十五歳」 「え、あれで三十五歳?」  ひげが伸び放題で顔が熊のようで、髪の毛もぼさぼさ。ぶくぶくに太っておなかがまるで妊婦さんのように大きかった。大人の年齢は高校生のオレにはよくわからないけど、五十歳くらいの中年のおじさんに見えた。 「職業というか、普段はなにをやっている人なんだ?」 「高校を中退してからは、ずっとひきこもり」 「はあ?」  今、社会で問題になっている、アレだ。 「ぼく、身近にそういう人がいるから勉強した。仕事や学校に行かず、家族以外の人との交流をせずに、六カ月以上続けて自宅にひきこもっている状態をひきこもりっていうんだ」  高岡の話にオレは、最近テレビで視聴した、ひきこもりを特集したドキュメンタリー番組を思いだした。 「外出していても、ひきこもりなのか」 ひきこもりというと、部屋から一歩も出ない人を指すイメージがあった。 「近所のコンビニに出かけたり、趣味のために外出したりと、他者と直接的な交流を持たない外出ならばできる人もいる。広い意味でそれも、ひきこもりの定義に入るらしいんだ」  まさに高岡の叔父さんは、そのケースに当てはまるというわけか。 「それにしてもよく生きていけるな」 「さっきみたいに、ばあちゃんからお金をもらっているからね。でなければ、とっくに餓死してるよ」 「高校を辞めた原因ってなんだ?」 「叔父は富山でも有数の進学校に通っていた。勉強についていけなくなったというのもあるけど、いちばんの理由は、クラスの中でいじめられたかららしいんだ」 「いじめ……」 「それで登校できなくなってしまった」 「ふうん」  いじめの話題が出てくるとは思わなかった。 「一時、ウチの旅館で働いていたこともあるんだ。仕事はできなかったみたい。おじいちゃんが亡くなって跡継ぎ問題が発生したとき、義行さんが後継者の候補にあがったけど、本人にやる気がなかった」 「もしかして、それ、おまえが言ってた、旅館が廃業した原因のひとつか」 「そうだね。二年前までは舟橋の家でぼくらと一緒に暮らしていたけど、居づらくなったらしくて家出した。今は、舟橋のとなり、上市町(かみいちまち)にあるおばあちゃんの実家の『離れ』で、ひとりで暮らしてる。三十五歳にもなってテレビゲームをするだけの毎日だよ。部屋からほとんど出ない。友達はいない。親戚にも相手にされない」 「さっき、あの人、おまえの家まで来ていたじゃないか」 「義行さんは、おばあちゃんにお金をせびりに来るときだけ、部屋を出るんだ。あとはコンビニへ買い物に行くときくらい」  なんてずうずうしい人なんだ。 「封筒を受けとるとき、かなり手慣れていたよな」 「おばあちゃんは息子思いで優しいから、求められるとついお金を渡しちゃうんだ。もう二年も前からね」 「そんなに?」 「ぼくが富山に住んでいるとき、ぼくのお父さんが、おばあちゃんに何度も注意したけど、おばあちゃんは『義ちゃんがかわいそう』と言ってやめようとしないんだ」  高岡が足元の小石を蹴った。 「このままでは義行さんはダメになる。外に出て働かないと、あの人は一生、ひきこもりのまま人生が終わっちゃうんだ」 「そうだったのか……」  越中舟橋駅の駅舎を指でさした。 「さあ、義行さんの話はやめて、電車を撮ろう」  ヤツのさびしそうな表情が気になった。心の中になにか、ひっかかるものがあるのか。   オレは車両の撮影に集中できなかった。 「うわー、すごい!」  旧旅館の一階にある宴会場に入った瞬間、オレは大きな声を上げてしまった。  三十人くらいが入れそうな畳敷きの会場の真ん中に、四人用の座卓テーブルが二台置かれている。その上に刺身に天ぷら、寿司などの料理が数えきれないほど並んでいた。 「おいしそう!」  桜子がうさぎのようにぴょんぴょんと飛びあがった。 「全部食べきれるかな」  名取が心配そうな顔をする。 「見事な料理ね!」  須崎先生がパチパチと手をたたいた。  高岡を含むオレたちメンバーは座卓テーブルの周りに敷かれたざぶとんに座った。  オレの母さんと同じくらいの年齢の、ふたりの女の人が、隣の調理場から飲み物や小皿を運んでくれる。高岡から聞いた話によると、旅館にかつて勤めていた人たちらしい。 「先生はお酒をたしなむと啓太から聞いています。いかがですか?」  富栄ばあちゃんが、一升入っているという大きな酒の瓶を持ってきて、須崎先生の前に置いた。 「あたし、お酒の中でも特に日本酒が大好きなんです!」  須崎先生は満面の笑みを浮かべた。本当に好きなんだな。 「このお酒は、舟橋村でとれたコシヒカリを原料に使っています。フルーティで飲みやすいですよ」 「楽しみだわ!」  先生は早くもグラスを持った。気が早いな。 「土佐の人はお酒が強いって聞くけど、先生も例外ではないのね」  オレの隣に座る桜子が、先生を見た。 「そうだけど――阿久根さんのふるさとの鹿児島もお酒の強い人が多いんじゃない?」      「はい。わたしの両親も大好きです。鹿児島は日本酒よりも焼酎の文化ですけど」  高校生とは思えない会話だ。まあ、酒の話なんてどうでもいい。今夜は楽しくやろうぜ。  オレたち高校生はもちろん、ジュースだ。 「今回の合宿が無事に終わることを祈って乾杯!」  桜子の掛け声で、全員がコップやグラスを持ちあげた。  乾杯が終わったところで次は料理を食おう。 「富山の夏の魚といえば、タチウオ、マダイ、マアジ、バショウカジキ、アユがあるよ」  高岡が、須崎先生にお酒をつぎながら言った。 「バショウカジキッてなに?」  桜子が料理をほおばりながら聞いた。 「マカジキ科に属する、体長が三メートルを超える魚だよ。バショウの葉に似ているからそういう名前がついた。富山では『サス』って呼ばれているよ」 「サスッて、どういう意味なんだ?」  オレが聞くと高岡は得意げに返してきた。 「富山の方言でカジキのことさ」  カジキか。言葉からは想像ができないな。方言はホントに難しいぞ。 「バショウカジキは、富山では、昆布の間に刺し身を挟んだ昆布締めでよく食べる。このあと出てくるよ」  オレは刺身をガンガン食った。特にうまかったのはタチウオの刺身だ。食感がやわらかいのがいい。皮と柔らかい身の間にうまみがあるのか、かめばかむほど味が出てくる。  桜子も名取も、タチウオがいちばんおいしかったと言っていた。東京ではこんなに新鮮なものを食えないかも。 「お米は舟橋村産のコシヒカリだよ」  高岡が、ごはんの入った白い茶わんを持ち上げてオレたちに見せた。  オレはお手伝いさんがよそってくれたごはんを口にパクッと入れた。甘味があってやわらかくて。家でこんなにおいしいコメを食ったことはない。毎日家で料理を作ってくれる母さんに話したらきっと怒るな。  おいしいごはんにおいしい魚……なんて幸せなんだ! 「コシヒカリは、日本でいちばん多く作られているおコメの品種ね」  桜子が茶わんによそったごはんをじっくりと観察しながら、ひとくち食べた。 「富山のコメは、北アルプス立山連峰からの豊富な雪どけ水で育てられる。富山を流れる川の水はつねに清らかで夏場でも冷たくて、稲穂をつける暑いころの田んぼを適温にするので、しっかりと熟したおいしいコメが実るんだ」  高岡の説明に、名取がなにかを言いたそうだ。すかさず名取が口を開いた。 「富山県は、耕地面積に占める水田率は全国一位です。農業産出額に占める米の割合も全国でいちばん高く、コメ作りの元となる種もみの県外出荷量も日本一です。そういう意味で富山は、日本で有数のコメどころだと言っていいでしょう」  本当にこいつはオレの知らない知識をなんでも知っている。 「名取くん、さすが。ぼくよりも富山のこと、知ってる」  ああ、まずい! こいつをほめると後がやっかいだぞ、と高岡を注意しようとしたときは遅かった。 「町田先輩は富山県の県勢、なにも知らないと思いますけど」  冷めた目でオレを見る。高岡でなくて、なんでオレにイヤミを振るんだよ。 「知らなかったよ。悪かったな!」 「地理研の部長なんですから、もっと勉強してもらわないと困ります」  歯を食いしばる。悔しいけれど、博識なこいつには反論できない。勝手にしろっ!  いつの間にか須崎先生は、日本酒の一升瓶の半分を飲んでしまった。酔っているのか、目がトロンとしている。 「そろそろ部屋に帰るわー」  立ちあがったとき、体がふらついて倒れそうになった。まともに歩けない様子だ。いくらなんでも、飲みすぎだ。  さっきからおとなしいと思っていたら、日本酒を飲むことに専念していたようだ。 「あらひー、飲みふぎたーひたいー」  ろれつが回っていないぞ。きっと「あたし、飲みすぎたみたい」と言ったのだろう。 「大丈夫ですか、先生」  桜子が心配そうに声をかける。 「大丈夫じゃなーい。気持ちが悪ーい。阿久根さーん。あたしを部屋に連れていってー」(先生の酔っ払い言葉をオレなりに訳してみた) 「しょうがないなあ」  桜子が、フラフラで歩けない先生に肩を貸して部屋まで送っていった。 「名取。大丈夫かよ、あいつ」  須崎先生の酒ぐせの悪さはうわさで聞いていたけど、まさかあんなに激しく酔うとは。 「あの調子じゃ、先生、明日は二日酔いですよ」  二十分くらいして、桜子がひとりで戻ってきた。ドカンと大きな音を立てて、勢いよくざぶとんに座った。疲れたような顔で「もう、ヤダ!」とつぶやいた。 「はちきんのヤツ、服を着たままふとんに転がっちゃった。引率なのに生徒の前で泥酔する教師なんて、普通いないよ」  やつあたりをするように、コップに入ったジュースを一気に飲んだ。 「だからあの人、四十五歳になっても結婚できないのよね」 「飲酒と結婚は関係があるのか?」  オレが尋ねると、桜子は「そんなのわからないよ! 適当に言っただけ」と言った。 「あーあ。酔っ払いと同じ部屋に寝るのはイヤだな」  桜子のグチが止まらない。だったら名取と先生を交換してやろうかと口から出そうになったけれど、そんなのできるわけがない。 「まだ刺身が残ってるぜ。もっと食えよ」  オレがなだめると、桜子はストレスを発散させるように刺身をパクパクと口に入れていく。その調子でイヤな出来事は忘れろよ。  腹がいっぱいになったし、オレたちも部屋に戻ろう。  明日の朝まで自由時間だ。  いつの間にか部屋の日本間にふとんが二組、並べて敷いてあった。名取と並んで寝るのか。ちょっと――いや大いに不安だ。  名取お得意のクイズ攻撃&イヤミ攻撃にさらされると思いきや、こいつ、疲れていたようで、歯を磨き終えるとふとんに入って、すぐに眠ってしまった。助かった。変わったヤツだけど、眠気に勝てないところは名取も人並みの人間だ。  ひとりの時間ができた。さあ、地理の勉強だ。  オレは家から持ってきた鉄道地図をカバンから取りだした。部屋に置かれたお膳の上に地図を置き、富山県のページを開く。  明日は富山地方鉄道で魚津方面に向かう。どんな路線でどんな駅があるのかを調べておこう。  集中して一時間くらい地図やスマホをながめていたら、オレにも眠気が襲ってきた。今日は無理しないで休もう。地図を閉じたあと、部屋の電気を消し、ふとんにもぐりこんだ。  ふとんがやわらかくて気持ちがいい。よく眠れそう。  明日もいい日でありますように。
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