6 ぼくの叔父さん

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6 ぼくの叔父さん

 窓から朝の景色をのぞくと、混じりっ気のない青い空が富山平野全体に広がっていた。心の中も明るく晴れやかになる。今日も取材日和だ!  広い平野の奥に、飛騨山脈の紺色の山並みが今日もはっきりと見えた。やる気が出るぞっ。  朝飯は、昨日の夕飯と同じ一階の宴会場で。  ざぶとんに座り食事が出てくるのを待っていると、桜子がひとりで宴会場に入ってきた。眠たそうに目をこすっている。 「須崎は?」  桜子は右手を左右に振った。 「まだ部屋にいる。はちきん、朝ご飯は食べられないって。きっと二日酔いだよ」 「そうなのか?」 「あの人、夜中にトイレで吐いてたよ。ゲーゲー吐く音でわたし、何度も起こされたんだから」 「災難だったな」  名取の予想したとおりになった。先生の自業自得だ。ほっといて朝飯を食おう。  メニューは、焼き魚とサラダの他に、「ととぼち汁」という富山の郷土料理が出てきた。小魚をすり身にした団子を入れたみそ汁だ。 「イワシを使うのが普通だけど、夏はトビウオかな」  高岡が解説してくれた。   サラダのとなりに、白くて細い麺が盛られた器が置いてあった。 「高岡くん。この麺は何?」  桜子は高岡に聞いたのに、名取が「これはダイモンそうめんですよね」とよけいな口をはさむ。 「ダイモン?」 「そうです。県内の砺波市(となみし)で作られています。ですよね、高岡さん」 「うん」  高岡が苦笑いしていた。これでは高岡の出る幕がない。おとなしいヤツだから、名取に対し決して文句を言ったりはしない。 「でもね、名取くん。ひとつ訂正」 「え?」 「漢字では大きな門って書くけど、『ダイモン』じゃなくて、『オオカド』って読むんだよ」 「そうだったのですか。すみませんでした」  名取がほほを赤らめた。  おお。名取が間違えるのを初めて見た。なにごとにも完璧なこいつがミスをおかすとは意外だ。これにこりて少しはおとなしくなるかな。 「資料にふりがなが振っていなかったんです。思いこみで。あー、きちんと調べておけばよかった……」  泣きそうな顔で必死に言い訳をする名取を横目に、オオカドそうめんを食べてみる。太さが一ミリあるかないかの極細麺をつゆにつけて、ズルズルッと一気にすする。麺のコシがすごい。冷たいつゆとの相性もバッチリだ。  おいしかった。そうめんを三杯、ご飯も三杯おかわりして腹がいっぱいになった。  ミスがこたえたのか、名取は朝食を半分くらい残していた。 「ごちそうさま!」  食べ終わったので早速、外出だ。  今日は二組に分かれて行動する。須崎先生、桜子、名取の三人ペア(名取チーム)と、オレ、高岡の二人ペア(オレチーム)の二組を作った。  予定していた外出時間の直前に猫背の姿勢で現れた須崎先生は、顔色が真っ青で具合が悪そうだ。 「顔色が良くないぞ、先生」 「まだ気分が悪くて。吐きそう」  玄関を出ようとしたとき、先生は「ウッ」とうなった。口を手で押さえながらトイレの方へ走っていった。 「須崎のヤツ、ゲロ吐きに行ったんじゃないか」  オレはイライラしながら言った。 「雄平、そんな下品な言い方しないでよ」  桜子が食ってかかってくる。 「じゃあ、他になんて言えばいいんだよ!」 「普通に、吐く、とか言えばいいじゃない」 「それじゃ正確に伝わらねえよ! 食ったものを吐くんだからゲロでいいだろ。息を吐くのとは違うんだぞっ」  見かけによらず、上品ぶりやがって。  廊下の奥にあるトイレの方から、オエーッ、オエーッとえずく音が何度も聞こえてきた。 「やっぱりあいつ、ゲロってるぞ」  吐く音を聞きたくないのだろう。桜子が耳をふさぎながら門の外に出ていった。 「名取!」 「はい」 「電車の中でゲロ吐くかもしれない。念のためゲロ袋を用意しておけ!」 「先輩。それを言うなら、エチケット袋です」 「どっちでもいいだろ!」  名取までこのありさまだ。このふたり、屁理屈なところがよく似てきたな。   門の前で待っていても、先生はなかなかトイレから出てこない。指定席を取っているわけではないから慌てる必要はないけど、予定時間がずれていくのは気になる。 「町田先輩。ボクたちはきっと、岐阜県にある『あの温泉』には行けませんね」 「なんだ、あの温泉って」 「有馬温泉、草津温泉とともに、日本三名泉と呼ばれる――」  オレははっとして、名取の口を右手でふさいだ。 「答えを言うなよ。桜子の前で言ったら、おまえは本気でぶっ飛ばされるからな」 「わかりましたよ。先輩――息ができません、苦しい。手を放してください」  オレは口から手を放してやった。 「ふたりして何をやっているの?」   桜子がオレたちを見ているぞ。 「なんでもない。なんでもない!」  慌てて言葉を返した。 「変な人たちね」  答えは「下呂(げろ)温泉」だ。名取のヤツ、くだらないシャレを披露しやがって。しかも得意のクイズ形式で。  十五分くらい待って、須崎先生が戻ってきた。 「ごめんね。待たしちゃって」 さっきよりも顔色が赤らんでいて、爽やかな表情をしている。激しく吐いたばかりの人には見えない。 「先生、大丈夫?」  桜子が聞いた。 「胃の中のものを全部出したら、だいぶ楽になったわ。さあ、行きましょう」  あれだけオレたちに心配をかけておいて、のんきなものだな。  もし先生が二日酔いで取材に同行できなかったら、オレは先生の弱みをつかんだことになる。この失態を校長に報告するぞと須崎先生を脅せば、地理研究部の廃部問題を先延ばしにできたかもしれないから。先生、助かったな。オレにとってはマイナスだ。くそっ。  今日の予定について。名取チームはまず、株式会社広貫堂が開設する資料館へ行き、売薬の歴史を調べる。広貫堂は富山の伝統産業「富山の売薬」で知られる会社だ。昼は昨日に引き続き富山ブラックを食べ、午後は須崎先生のリクエストで「高志の国文学館」に行く。富山にゆかりのある文学者の作品や愛用品を展示した博物館だそうだ。  オレチームは、午前中に電車で魚津市に移動し、米騒動関係の施設を見学する。午後は上市町にある農協や農家に寄り、お米を取材する予定だ。  越中舟橋駅で名取チームといったん離れる。オレチームは二番線、名取チームは一番線と、線路を挟んで出発ホームが別だ。  富山駅方面の電車が着く一番線ホームにはお客が二十人ほど立っているけど、オレたちが使う二番線にはオレたち以外、誰もいなかった。   両チームが乗る電車は、八時四十二分同時出発だった。 「雄平! 忘れ物はないか! けがと食べすぎに要注意だぞ!」  桜子が、向かいのホームから両手をメガホンのようにして叫んでいた。そんなの、言われなくてもわかってるぞ。 「バカにするな。おまえはオレの母親か!」  憎たらしいヤツだな。オレはアッカンベーで返してやった。  横で高岡がニヤニヤと笑っている。笑うな、恥ずかしいから!  オレたちが乗った宇奈月温泉駅行きの二両編成には、一両にお客が五人しか乗っていなかった。平日の八時台、都市部の富山市方面とは逆へ行く電車はこんなものだろう。 「町田くんと阿久根さんって、いいコンビだよね」  ロングシートにふたり一緒に腰を下ろした直後、高岡がさっきと同じ笑顔で話しかけてきた。 「あいつとオレが?」 「うん」 「誰があんなヤツ。部員の少ない部活動だから、仕方なく一緒にいるだけだ!」  ムキになって大声になる。 「ぼくには、そうに見えないな」 「は?」 「言葉ではいがみあっているように聞こえるけど、本当はすごく仲がいいんじゃないかな」 「そんなこと、ねえよ」  ふざけたことを言うなよな。 「心の中ではきっと尊敬しあっているんだ」  尊敬? まさか。 「おまえさ、人と会話するときは言葉を選んで話せよな」  オレが常に気をつけているのは、部長と副部長同士の仲が悪くなって部の運営に支障が出ること。桜子とは性格が合わないけど、高岡からいいコンビと思われるのは悪くない。これ以上否定しないでおこう。  高岡、気を遣ってくれてありがとう。  電車は富山県の田園地帯を北東に向かってコトコトと走っている。  寺田駅を過ぎ、車窓は田んぼばかりが目につくようになってきた。民家は田んぼの中に時折ポツンと建っているだけ。東京では体験のできない農村風景にくぎ付けになった。 「町田くんに聞いてもらいたい話があるんだ」  高岡がさびしそうな声を出した。 「なんでも話してみろよ」  相談事は大歓迎だ。オレは視線を、車窓から高岡の顔へと向ける。 「ぼくさ、昨日の夜、おばあちゃんとケンカしたんだ」 「ケンカだって? 物騒だな。原因はなんだよ」 「義行さんのこと」  昨日、見かけた、あの男の人の姿を思いだした。 「寝る前におばあちゃんの部屋に行って、義行さんにお金を渡さないようにもう一度お願いしたんだ。だけどおばあちゃんはぼくの願いを聞いてくれなかった。しまいには『孫のおまえには関係がない』『私と義行の問題に口を出さないで』とか言われたから、ぼく、怒っちゃった」 「怒るなんて、おまえらしくねえな。それで?」 「悔しくて、昨日は自分の部屋で、ひとりで泣いてた。大好きなおばあちゃんのことが心配だから言ったのに、聞き入れてくれなかったから」  きのうのことをひきずって、今日の朝、ばあちゃんとひとことも口をきかなかったらしい。 「もし、このまま義行さんが一生、ひきこもりのままだったら、誰があの人の面倒を見るの? もしおばあちゃんがいなくなったら、ぼくのお父さん、いや、将来ぼく自身が面倒を見ることになるかもしれないんだ。ひとごとではない。そんなのぼく、いやだし、許せないよ」  高岡は右手で握りこぶしをつくった。前に差しだしたこぶしがブルブルと震えていた。 「今日の取材が終わったら、夕方、義行さんのところに行く。ひとこと、言ってやるんだ」 「言うって、なにを」 「ひきこもりをやめてほしい、おばあちゃんからお金を取るのをやめて働いてほしいと」 「ひきこもる人は、なかなかひきこもりから抜けだせないって聞いたことがある」 「そんなこと、言ってられないよ!」 「おまえの気持ちはわかるけど、相手は三十五歳の大人だ。こういうのって、大人同士で解決することじゃないかな。オレたち高校生が口を出したところで、子供だと思って無視されるのがオチだぜ」 「やってみなきゃわからないよ!」 「でもなあ……」  世の中にはできることとできないことがある。きっとまわりの大人がさんざん注意してきたのだと思う。それでもこうしてひきこもっているわけだから。 「町田くんにお願いがあるんだ」 「お願い?」  オレの方に顔を向け、大きな目でなにかをうったえるように言った。 「ぼくと一緒に来てほしい」 「なんでオレが」 「義行さんは理屈っぽい人なので、ぼくは口で負けてしまうかもしれない。そのときに、きみに加担してほしいんだ」 「うーん」  オレは迷った。けれど――部員が助けを求めているのに、無視するのはオレの性に合わない。それに高岡には地理研に入部してくれた借りがあるんだよな。恩返しだと思えばいいか。よし! 「あの人、暴力を振るったりしないよな」 「わからない。家でゲームをやっているばかりで運動不足なので、体力はぼくたちの方が上だと思うよ。万一のときはぼくが力ずくで止める」  たしかに、体が大きい高岡の方が力はありそう。だけど、殴りあいになって警察沙汰になったら困る。刃物を振りまわしてくるかもしれないし。  まあ、高岡はいつも冷静だ。問題は起こさないと思うけど。 「わかった。つきあってやるよ」 「ありがとう!」  同意してしまった。本来は部長として止める立場なのに、オレもどうかしている。  越中舟橋駅から約四十分。オレたちは魚津市内にある電鉄魚津駅で電車を降りた。  食料品店や洋服店が並ぶアーケード街を十分ほど歩き、住宅街を抜けると、いきなり海が見えてきた。富山湾だ。空は薄い青、海は紺色に近い濃い青と、水平線でくっきりと分かれている。 海に沿って『しんきろうロード』と呼ばれる二車線の道が続いていた。 「町田くん。魚津市で米騒動が起こったのは、西暦でいうと何年でしょう?」  高岡が歩きながら質問してくる。 「おまえもクイズかよ」 「ははは。名取くんのクイズ病がぼくにも移ったのかもしれないね」  高岡もとうとう、あいつらの影響を受けたか。これじゃ本当にクイズ研究部だ。 「一九一八年だ」  まじめに答えるオレもクイズ病? 「そのとおり!」  名取だったらきっと「誰でもわかるような簡単な問題、ボクに出さないでください」とイヤミをぶつけてくるだろう。オレは決してそんな暴言を吐かない。  富山湾を右手に従えながら「しんきろうロード」を進むと、しばらくして道端に『米騒動発祥の地』と書かれた記念碑が見えてきた。  歩道の左側に木造建築の米倉庫があった。かわら屋根と白い壁が特徴だ。 「今から百年前に、ここで米騒動が起きたんだ」  高岡が米倉庫を指でさした。オレはうんうんとうなづいた。 「当時、米騒動は全国のいろいろな場所で起きたけど、つめあとは現在、ほとんど残っていないんだよな。米騒動が起こった現場に当時の建物が現存するケースはここ、魚津くらいらしい。さすがは発祥の地だけある」 「勉強してるね」  高岡がオレの説明をほめてくれた。こいつは名取と違って純粋だから安心だ。名取だったら「普段は勉強しない先輩が、珍しく勉強していますね」と、なぐり倒したくなるほどのイヤミが飛びだすに決まっているからな。  オレは米倉庫の写真を撮りまくった。倉庫は修繕されていて、教科書に載った写真のような事件当時の雰囲気は感じられないけど、レポートを書くための材料はそろった。  取材が終わるとちょうど昼になった。腹が減ってきた。さあ、待望の昼メシだ。  高岡がお勧めだという電鉄魚津駅前の食堂は、地元で有名らしく、狭い店内はお客さんで満席状態だった。五分ほど待ち、空いたテーブル席にふたりで向かい合って座った。  高岡のイチ押しだという、魚の煮つけ、みそ汁、漬物がついた「バイ飯定食」を注文した。 「二年前だったかな、お父さんとふたりで魚津に来たときに食べた。めちゃくちゃ、おいしかったんだ」  バイ飯は、富山湾で獲れたバイ貝を使った混ぜご飯で、魚津の郷土料理だ。バイを殻ごとしょうゆや砂糖、酒などで煮込み、バイのうまみが効いただしを取り、そのむき身とともに炊きこんだもの。ニンジンやゴボウ、キヌサヤエンドウも入っている。  見た目は普通の炊き込みご飯と変わらない。食べてみると、ほっぺたが落ちそうになった。  「おまえの言うとおり、めちゃくちゃにうまい!」  バイ貝のむき身のシコシコとした歯ごたえがいいし、ゴボウの風味もいい。とりこになりそう。  おなかがいっぱいになった。さあ、富山地鉄の電鉄魚津駅へ戻ろう。二両編成の電鉄富山行電車に乗った。次の目的地、上市までの所要時間は約二十五分だ。  車内は部活動の帰りとおぼしき女子高校生がいっぱい乗っていて、イスに座れなかった。  仕方がないので、運転席の真後ろに立ち、前面展望を楽しんだ。よく揺れる車両だ。ガタンガタンという、線路のつなぎ目を走る音の間隔が短い。長さの短い線路を使っているからだ。 「これから向かう上市町は製薬業が盛んなんだ。ぼくのお父さんが勤める製薬会社の工場もある。東京の本社に異動する前、お父さんはその工場で働いていたんだよ」  ひとつ、気になっていたことがあった。 「なんで合宿のテーマを薬にしなかったんだ。おまえなら薬がいちばん似合っていると感じたんだけどな」  父さんが製薬会社に勤めているから、そう思っても不思議ではない。 「薬はぼくにとって話題が身近すぎて、取りあげる気にならなかったんだ。普段なじみのない題材の方が勉強になるし」 「オレもきっと、高岡の立場だったら同じことを考えると思う」 「ぼくたちは気が合うんだね」  オレも思っていた。性格が真逆なオレと高岡に、実は性格や趣味に意外な共通点があったりする。今回の合宿でそういう部分をもっと見つけられたらいいな。  さあ、次は予定どおり、富山米の新品種「富富富」の取材だ。  高岡が「富富富」の取材をすると決めた次の日、上市にある農協に電話をして取材を依頼した。農協の担当者は、学習の役にたてばと取材を快くうけてくれることになった。  農協の本部は上市駅に隣接した駅ビルの中にある。農協が駅の中にあるなんて、東京ではきっと例がないと思う。   受付で学校名と氏名を告げると、オレたちは小さな応接室へ案内された。 米の集荷業務が担当だという三十歳くらいの男性職員が詳しく説明してくれた。  富富富は二〇一二年に富山県の農業研究所で生まれ、二〇一八年にデビューしたこと。うま味、粘り、香りが良く、食味のバランスに優れていること。農薬の使用を抑え、徹底した生産管理のもとで栽培や収穫がされるので、安心して食べられること。などなど。  品種改良にあたっての苦労話が印象的だった。オレには、富山県といえばコシヒカリのイメージがあった。新しい品種を作りだすのに、コシヒカリを超えるものを作ろうと意気ごむ。そのため緻密な研究を繰り返し、開発者は血を吐く思いだったという。オレたちのような第三者に想像のできない世界なんだろうな。  高岡の様子がおかしい。  説明を聞きながら相づちを打たない。何度も自分の腕時計をのぞいたり、急に窓の外に視線を向けたりする。 「高岡、説明をきちんと聞いてるのか?」  職員がパンフレットを取りに行くため席をはずしている間に、横に座る高岡に小声で話しかけた。 「え? う、うん。聞いてるよ」  それならいいけど。  米や農作物に関するパンフレットを三冊もらって農協を出た。次は実際に富富富を作っている農家に話を聞きに行く。農協に取材の依頼をしたときに、上市町内の農家さんを一件、紹介してもらったんだ。  上市駅前の市街地を東に歩いていると、街のいたるところに製薬会社の看板が立っているのが見える。製薬業の町か。薬に特化した町は東京にはないはず。大阪には「道修町(どしょうまち)」という名の製薬会社が集中する町があるけど。  市街地を抜けると、一面、黄金色に染まった田んぼが目に飛びこんできた。こうべをたれた稲穂はそろそろ収穫の時季を迎える。田んぼの後方に飛騨山脈の峰々がそびえていて、稲穂と山並みがひとつの視野に広がる風景は本物の絵画のよう。  富富富を作っている農家さんは、オレの父さんと年齢が同じくらいの顔が真っ黒に日焼けした男性だった。年下のオレたちに敬語で話してくるので、恐縮してしまう。田んぼのあぜ道で、収穫量や栽培の苦労話を聞いた。  高岡は、時折、田んぼでないところに目を向けたり自分の腕時計を何度も見たりする。 「どうしたんだよ。おまえらしくないぞ。取材に集中しているのか」  農家さんの取材が終わり、庭から農道に出たときに高岡に声をかけた。  高岡は正面を見たままで、オレに視線を向けようとしない。 「何かあったのか?」 「叔父さんのことが頭から離れなくて」 「オジさん?」 「ぼくさ、さっき、叔父さんに会うって豪語したけど、本当は会いたくないんだ。ずっと不安だった」  様子がおかしかった理由はそれか。 「おまえから言いだしたんだろ?」 「そうだけど――義行さんって変わってるから、本当はあまりかかわりたくないんだ。おばあちゃんのためだから、ムキになってしまったけど」 「無理に会わなくたっていいんだぜ」 「ううん。がんばる」  オレはふうーっとため息をついた。  男らしくはっきりしろと伝えたかった。今そんなことをしたらこいつを傷つけるだけだから、黙っていたけど。  結局、行くことになった。  叔父さんの「住み家」は、お世話になった農家さんから歩いて十分ほどの場所にあるそうだ。 「ちょっと歩くよ」  田んぼの真ん中に、車どうしがすれ違えないくらいの狭い農道がまっすぐに延びる。舗装されていない土の道だ。並んで歩くのは危ないので、高岡のうしろをついていく。 「あれが、おばあちゃんの実家」  高岡が、三十メートルほど先にある古びた大きな家を指でさした。近くに民家はなく、ポツンと一軒だけ。  ばあちゃんの実家だったという母屋には現在、人が住んでいないらしい。大きな瓦屋根の家だが、長年手入れをしていなかったためか、瓦が一部で剥がれて地面に落ち、外壁の木材が腐って黒く変色している。  庭や家のまわりは丈の長い雑草が伸び放題だ。まるでジャングルのように。 「叔父さんが住んでいるのは母屋ではなくて、となりの離れ」  廃墟と化した母屋のとなりに建つ、さびれたプレハブ小屋を指でさした。叔父さんはここにひきこもっているという。 「プレハブか。普通の家を想像していたよ」  離れというと、老舗旅館の本館から離れた、高級感のある別棟をイメージしてしまう。 「八畳一間にトイレと小さな台所があるだけ。まあ、マンションやアパートでいうワンルームの部屋と同じだね」  ひとりで暮らすだけだから、こんなものか。  高岡が「離れ」と表現しているプレハブ小屋の正面に、さびて茶色くなった玄関扉がある。横の面に長方形の小さな窓があり、部屋の中に分厚そうな緑のカーテンがかかっている。半分ほど開いたカーテンの間から、室内が丸見えだ。  道路からプレハブ小屋に向かって、けものみちのような細い土の道が延びている。  プレハブ小屋の横に白い乗用車が一台停まっていた。庭に、わだちができている。車が現役で動いている証拠だ。 「車、叔父さんの?」 「うん。もともとぼくのお父さんが乗っていた車なんだ。東京への転勤で使わなくなったので、お父さんが義行さんに貸してあげているんだ。本当は就職して、通勤で使ってほしいという願いがあったんだけど」  なるほど。働いていない人が自分の力で車を買えるわけがない。 「車が停まっているから、叔父さんは今、部屋にいるな」 「そういうこと」  オレたちはプレハブの玄関扉の前に立った。どんな人なのかを知らないだけに緊張してくる。ドクドクと鼓動が速くなってきた。高岡の顔もこわばっていた。 「おまえ、今までここに来たことはあるのか?」 「一年くらい前にお父さんと一緒に一度だけ。義行さんを注意するために」  玄関チャイムはない。高岡が入口扉を三回、トントントンとノックした。  十秒くらいたって、部屋の中から「誰だ」という男の人の声がした。 「啓太です」 「啓太だって? なんの用だ」 「義行さんに話があって」  三十秒くらいの間があった。時間が長く感じる。ますます鼓動が速くなっていく。 「入れ」という、かすれた声がした。  高岡はゆっくりとドアノブをつかんで、扉を開ける。  開いた瞬間、タバコのにおいと生ゴミが腐ったような鼻をつくにおいがオレたちを襲った。 「オレの苦手なにおいだ」  手で口と鼻を押さえる。高岡は平気な顔だ。こいつ、悪臭に強いのか?  正方形の部屋に、床が見えないほどのゴミが大量に落ちていた。落ちていたというより、床に高く積まれたと言った方が正しいかも。空き缶、ペットボトル、コンビニの弁当、紙くず、雑誌……。テレビでたまに見るゴミ屋敷ってヤツだ。  ハエがオレに向かって一匹、飛んできた。手でたたき落とす。床の弁当くずの中に小さな白い虫が動いていた。異臭とあいまって、吐き気がしてきた。オエッと戻しそうになって口を押さえた。長時間ここにいたら、今朝の須崎先生のように本当に吐いてしまう。 「上がるよ」  空き缶やペットボトルが無造作に転がる小さな土間で靴を脱ぎ、オレと高岡は部屋に入った。  部屋の右側面にある台所には、汚れた皿が何十枚も置きっぱなし。左側面には大きな本棚があり、漫画本が詰まっていた。  義行という名の叔父さんは、部屋の奥であぐらをかいて座っていた。オレたちに背を向けるかたちで。正面にはテレビが置かれ、ゲーム機とつながっていた。今、ゲームの真っ最中だ。体を左右に小刻みに振りながら、コントローラーを盛んに動かしている。  オレと高岡は、義行さんから三メートルほど後ろに離れたごみの上に、並んで立った。 「おまえ、富山に帰っていたんだな」 「うん。部活の用事でね」  高岡は、富山に来ることになった経緯を丁寧に話した。  義行さんの体の動きが止まった。体を正面に向けたまま、頭だけを九十度横に向けて俺たちをジロリと見た。 「啓太。おまえの横にいるヤツは誰だ?」 「ぼくの高校の友達で、町田雄平くん。今、話した部活の部長をやってる」  オレは不機嫌な顔で「こんにちは」と十センチだけ頭を下げた。 「なんで、おまえの友達が一緒なんだ」  高岡が、オレが一緒に来た理由を話してくれた。  義行さんは「そうか」とうなずくだけで別段、オレを拒否することはなかった。ちょっとほっとする。 「兄貴は元気か?」  背を向けたまま、義行さんが言った。 「元気だよ。仕事が忙しくて、毎日帰宅が遅いけどね。東京での仕事、やりがいがあるみたい」 「良かったな。おまえも元気そうでなによりだ」 「ありがとう」 「――で、俺に話しって、なんだ?」  少し間があった。いやな間だった。高岡は伝えようという内容を頭の中でまとめているのか。それともためらっているだけなのか。テレビから聞こえてくるゲームのにぎやかな音楽だけが部屋に響いた。 「俺に文句があるから、おまえは、会いたくもない俺にこうして会いに来たんだろう? 早く言ってみろよ」  義行さんの口調が荒々しくなっていく。高岡が言葉を発しないと、ますます激高していくだけだ。高岡、なにかをしゃべってくれ。 「なに黙ってんだ、この野郎っ! 早く言いたいことを言えっ!」  ゲーム機のコントローラーを激しく床にたたきつけた。  高岡の口がピクッと動いた。 「ストレートに言うよ。おばあちゃんからお金を取るのをやめてほしいんだ」 「なにい?」  凍りついたように、叔父さんの体の動きが再び止まった。 「義行さんには働いてほしいんだ。ぼくのお父さんも言ってた。義行には社会に出てほしいって」  いきなりコーヒーの缶が飛んできた。義行さんが、飲みかけの缶を投げたのだ。オレたちの足もとに転がる。中身が飛びだして、オレの白い靴下が茶色く汚れた。  なにをするんだ、って怒鳴ってやろうと思ったけど、となりの高岡が冷静なので声を上げる勇気が出なかった。 「おまえらは本当に勝手だな」 「なにが勝手なんだよ!」  高岡は、横に立つオレの耳が痛くなるくらいの怒声を張りあげた。熟れたトマトみたいに顔が真っ赤だった。 「俺をこんな人間にしたのはな、おふくろと兄貴なんだ。おまえのオヤジなんだよ!」  義行さんは急に立ち上がり、百八十度体を反転させ、オレたちの方を向いた。この人の姿のすべてを初めて、至近距離で目の当たりにした。  ひげは伸び放題、すり切れた白いTシャツに薄汚れた短パン。昨日、見たのと同じ服装だ。顔色が茶色っぽいのは、なにか大きな病気を患っているのか。 「ぼくのお父さんになんの責任があるというんだ!」  高岡は止まらなかった。  義行さんは仁王立ちになり、細い目で高岡をにらみつけた。 「俺はな、勉強が嫌いだった。なのにおふくろは勉強ができる兄貴とできの悪い俺をいつも比べた。ときにおふくろは俺の成績が悪いと、おまえは頭が悪い、兄貴を見習えと俺をののしったよ」 「おばあちゃんがそんなの、するはずが――」 「俺の話を最後まで聞けっ!」  部屋全体に響くほどの大声に、オレも高岡も一歩引いてしまった。 「しまいには勉強で兄を超えてみろと何度も言われた。俺は意地になった。見返してやる。兄貴に追いつけ追い越せと、寝る間も惜しんで勉強をやった。死ぬほど努力したよ。おかげで、富山でいちばんの進学校に進むことができた」 「すごいじゃないか。それだけのことができるのになぜ」 「人間には限界があるんだ。高校に入ったあと、俺は勉強についていけずに力尽きた。クラスメートからいじめられて精神的にも肉体的にも限界だったんだ。俺は自ら高校を中退した。そのとたん、おふくろも兄貴も俺を白い目で見るようになった。兄貴から、おまえはクズだとまで言われた。俺の気持ちを理解することもなく」 「ぼくのお父さんがそんなことを言うわけがないよ」 「いいや、言ったんだ。俺の今までの努力をいっさい認めてくれずに、おふくろと兄貴は俺を見捨てたんだ。ここに落ちているゴミのようにな!」  義行さんは床に散らばるゴミをけり上げた。弁当の空容器や紙くずが飛び散った。 「世の中がどうでもよくなった。誰が社会なんかに出るものか。こうなったら、一生、おふくろのスネをかじって生きてやるんだ」  オレはもちろん、オレのまわりでも経験した人がいない異様な世界だ。まるで人生の転落を描いたドラマを見ているようだった。人間は、ひとつネジがはずれるとあっという間に落ちてしまうものなのか。  高岡はふうっと大きく息を吐いた。 「お父さんから聞いたよ。義行さんの夢は将来、富山県内の製薬会社に入って地元の医療に貢献することだって」 「昔はな。だが俺はもう三十五歳だ。今からなにができるというんだ。高校生のおまえとはわけが違うんだ!」 「勉強に遅い、はない」 「なんだって?」 「ぼくのお父さんの同僚に、薬剤師になる夢をあきらめきれなくて、三十二歳でサラリーマンを辞めて、受験勉強をして、三十四歳で大学の薬学部に入った人がいるんだ。その人は今四十二歳。会社でバリバリ働いているそうだよ」 「そいつはエリートだろ! 俺はエリートではないんだ!」  義行さんは声を荒立てた。 「普通の人だよ。他の人と違うのは努力をしたこと。義行さんも努力すれば夢をかなえられる」 「笑わせるな。俺にそんな――」 「できるよ。絶対に」 「なに?」 「義行さんは今、自分で言ったじゃないか。中学三年のとき、死ぬほど努力して富山でいちばんの高校に入ったと。義行さんはがんばれる能力を持っている。使っていないだけさ。今からでも使えるに決まってる」 「そんなの、二十年も前の話だ」 「勉強すれば、大学にだって入れる。義行さんならできると思うんだ」 「……」  叔父さんは考え事をするように下を向く。しばらく黙っていたと思ったら、オレたちに背を向けてあぐらをかき、いきなりゲームを再開する。  オレは義行さんの奇妙な行動にあっけにとられて、立ち尽くした。高岡は義行さんに軽蔑したようなまなざしを向けていた。対処の方法がわからないようだった。  高岡の必死の説得に、なにか心に響いたものがあったのか。いや、なにもなさそうだ。  こんな人に真剣になっても無駄だ、帰ろう、と高岡に告げようとしたときだった。  突然、テレビを消すと、義行さんは再び立ちあがり、テレビの台の上に置いてあった車のカギを取る。 「俺は出かける。おまえたち、部屋から出ていってくれ!」  義行さんは、オレたちを追いだす前に自分から部屋を飛びだしていった。離れの横に停めてあった車の運転席に速足で乗りこんだ。急発進して、あっという間に車は道路の奥に消え去った。  外に出たオレと高岡は、ぼうぜんとして車を見送るだけだった。 「あの人、どこに行くんだ?」 「決まっているよ。コンビニか、ぼくのおばあちゃんのところのどちらかさ」 「行先がおまえのばあちゃんだとしたら、なぜ慌てているんだ」 「さあ」  いやな予感がした。  腕時計を見ると、時刻は夕方の四時をさしていた。 「そろそろぼくの家に戻ろう」  オレたちは上市駅の方向に歩きだした。 「きみにひとつ、誤解を解くために言っておきたい」 「なんだよ」 「さっき義行さんが言ったこと。ぼくのお父さんは決して、あの人におまえはクズだなんて言わない。そんなの、絶対に言わないから。――それをわかってほしいんだ」 「わかったよ。おまえを信じるから」 「ありがとう」  田んぼのずっと奥に輝く夕日がまぶしかった。  高岡の目に涙がたまっていた。夕日のまぶしさだけではないのかもしれない。
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