8 病室

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8 病室

 富山東病院は五階建ての大きなビルだった。辺りはすっかり暗くなり、各階の病室の窓から白い光がもれていた。建物の輪郭はうっすらと黒く見えるだけ。  正規の面会時間が過ぎたので、正面玄関ではなく病院の裏口から入った。警備員室の窓口でお見舞いの受付を済ませる。  病室は、高岡からの連絡で外科病棟503号室と聞いていた。名取が緊張の面持ちでエレベーターのボタンを押す。五階で降り、人の気配がない廊下をゆっくりと歩き、病室の前へ。  503号室の入口横に「高岡富栄 様」と表札が掲げてあった。  けがをしたばあちゃんや高岡の気持ちを考えると気が重いけど、病室に入らないわけにはいかない。  扉は開放されていたので、音をたてないようにしながらそのまま中へ。  病室は個室で、奥のベッドでばあちゃんが横になっていた。高岡はイスに座り、ベッドのすぐ横からばあちゃんの寝顔を見ていた。  高岡がオレたちに気づいたようで、こちらを見て立ちあがった。 「きみたち、おつかれさま」  オレたちに笑顔を向けてくれた高岡は、ほほがこけて顔色が青白かった。動きがにぶくて元気がない。 「遅くなって悪いな」  オレは高岡の前に立ち、遅れたことを謝った。 「検査の結果はどうだ?」 「命にかかわる状態ではないって。軽い脳しんとうだそうだよ。今は薬で眠っているだけ。今後大きな後遺症がなければ、一週間で退院だって」 「良かったな」  うれしいときに握手をしたがる高岡だけど、さすがに手は伸びてこなかった。 「高岡くん。はちきんは?」  桜子が聞いた。 「須崎先生は叔父さんに体当たりされたときに軽いけがをしたから、念のため、一日だけ入院するって。病室はとなり」  先生、となりにいるのか。あとで顔を出そう。 「わたし、はちきんの様子を見て来るね」  桜子は病室を飛びだしていった。 「ボクも」  名取も桜子を追いかけるように出ていった。  病室は、オレと高岡のふたりだけになった。ベッドで眠るばあちゃんを除いて。 「夕ごはんは食べたの?」 「食ってない。こんなときにメシなんて食いたくないよ」 「ぼくも食べていないんだ。じゃあ、せめてお茶でも飲もうか」  しっかりメシを食わなきゃだめじゃないか、などと言える雰囲気ではなかった。  高岡は病室の端に置かれた冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本出し、そのうちの一本をオレに手渡した。 「ありがとう」  キャップを開けて、ふたりで同時にゴクゴク。おいしいけど、冷たくて歯にしみる。 「お父さんから電話があって、もうすぐ富山駅に着くって」 「ずいぶん早いな」 「お父さんの会社、東京駅の近くなんだ。職場を出てそのまま新幹線のかがやき号に乗れば、富山駅まで二時間ちょっとさ」  北陸新幹線が開通する以前は上越新幹線で東京駅から越後湯沢まで行き、そこから在来線の特急に乗りかえて富山に向かっていた。通算で四時間近くかかったと聞く。新幹線の威力はすごいんだ。  オレたち部員がバックについているといっても、こういうときに肉親がいないと心細いだろう。母さんを亡くした高岡にとって、父さんが身近にいるのがいちばんだ。  オレたちは病室に備えてあったパイプイスに座り、向かいあった。 「きみにしか話せないことだから、ぼくの話を真剣に聞いてほしい――」  ベッドの横のテーブルに飲みかけのペットボトルを置くと、高岡はなにかを訴えるようにオレに視線を向けた。 「なんだよ、急に」 「今日の出来事は、ぼくに責任があるんじゃないかって思うんだ」 「なぜ」 「義行さんがおばあちゃんをなぐったのは、ひきこもりをやめて働くようにぼくが義行さんに注意したのが原因なんだ。ぼくの話にあの人は過敏に反応して……。ぼくのせいなんだ」  おまえは考えすぎなんだよ、と言おうとして止まった。相談ではなく、ただの悪口になってしまうから。 「おまえは悪くない」 「え?」 「当たり前のことを素直に話しただけだろ。高校生が、目上の大人に対して的確に物事を伝えるのはなかなかできないことだぜ。オレ自身も、おまえの対応には勉強になったし」 「本当に?」 「もちろんだ。おまえは立派なことをした。悪いのは義行さんの方だから、後悔する必要はない。オレが認める」  高岡は安心したようにふーっと息を一回、吐いた。 「ぼく、さっきからずっと悩んでいたんだ。もう、悪いふうに考えるのはやめる」 「その意気だ、高岡!」  こいつらしい笑顔にほっとする。これで大丈夫だ。  高岡は、ばあちゃんの方へ視線をうつした。ばあちゃんはまだ眠っていた。  今日の事件は間違いなく、高岡があの男に進言したのが発端となっている。  殴った理由を、オレは、あの男がばあちゃんからお金をもらえなかったからと推理した。けど、ばあちゃんは、当たり前のように渡していたお金を急に拒否することがあるだろうか。今までの金額を超える莫大なお金を請求されたから? だとしたら、義行さんはなぜ、そんなお金が必要だったのか?  いずれにしても、義行さんに思惑があり、彼とばあちゃんの間に意思疎通のできない何かがあったのは間違いなさそう。桜子が言っていた「ばあちゃんをなぐった本当の理由」を知りたくなってきた。その中に答えがあるはずだから。 「町田くん、どうしたの?」 「あ、ごめん。ただの考えごと」 できれば、義行さんの口からそれを聞きたい。本人の反省の弁と一緒に。 「警察とのやりとりを詳しく聞きたいな」 「わかったよ」  リクエストに応えて、上市のプレハブ小屋で刑事に尋ねられた内容をたっぷりと話してやった。高岡は相づちを打ちながら聞いてくれた。  ふたりで談笑をはじめてから三十分くらいたった頃――。 「先生の様子を見てくるからな」  ばあちゃんとふたりきりにしてやろうと思い、オレは病室を出た。  須崎先生の病室の中から、桜子と須崎先生の笑い声が聞こえてきた。 「そんなに食べて、おなかをこわしたらどうするんですか?」 「大丈夫。あたしの胃は強いから」  病室では、先生がベッドの上で上半身を起こしながら、正面のイスに座る桜子とにぎやかに話をしていた。 「桜子、いやに楽しそうだな」 「あ、雄平」  ふたりが一斉にオレの方に顔を向ける。 「だって、はちき……いや須崎先生ってすごいんだよ」 「なにが?」 「病院で出た夕ごはんだけじゃ足りないっていうから、わたしが病院の外のコンビニでケーキを買ってきてあげたの。そしたら、すごい勢いでふたつペロッと食べちゃった」  別に驚くことではない。須崎先生の大食いは有名だから。  テーブルの上にいちごのショートケーキがひとつ、載っていた。ということは、三つ目を食べるところだったのか。 「あーあ。体は元気なのに入院なんてつらいわ。早くお酒飲みたい」  先生は、ベッドの上で背伸びをする。 「先生。酒を飲みすぎると、またゲロだぜ」 「次は大丈夫よ。もう、無理して飲んだりしないから」  ホントかよ。信じられないな。 「雄平ったら、下品な言葉は使わないでって言ったでしょ」  またその話か。うんざりだ。ほんとにしつこいヤツだよな。 「うっせえな。黙ってろ!」 「たまにはわたしの話を聞きなさいよ」 「人の話を聞かないのはおまえだろ」 「なんですって!」  病室にいるのを忘れて大声を出してしまった。まずい。 「あなたたち。ケンカするなら、病室から出て行ってもらうわよ」  須崎先生ににらまれてしまった。すみませんと、ふたりで平謝り。 「町田先輩と阿久根先輩のかけあいは息が合って抜群です。まるで夫婦漫才みたいですね」  名取がニヤニヤと笑いながらひやかす。何を言っているんだ、おまえは。こんなヤツと夫婦になれるわけがないだろ! 「先生。退院は明日なんだろ? 何時に病院を出られるか聞いてるのか?」 須崎先生はショートケーキにスプーンを突っこみ、パクパクと食べ始めた。 「明日の朝ごはんのあとに帰ってもいいって担当医に言われたわよ。だけど、簡単に富山を離れられない気がする」 「どうして?」 「警察から受けた聴取で、あたし、だいたいのことは話したつもりなんだけど、上市署の刑事から『あなたから追加で聞くことがでてくる可能性がある。しばらくの間富山で待機してもらうかもしれない』って言われたの。警察の許可が出るまで、富山にとどまった方がいいかなと思って」 「わたしもプレハブの中で刑事さんに、先生と同じことを言われた。捜査に協力してほしいって」  桜子がボンタンアメを口に入れながら言った。 「取材が終わったら、オレたちはすぐに東京に戻らないと。富山に残るとしても限界があるよな」 オレは須崎先生と桜子の顔を交互に見る。 「そうだよね。いちおう、お母さんに電話で事情を話しておいたけど」 「おまえの母さん、なんか言っていなかったか?」 「ウチのお母さんって楽天家だから、何も。無事で良かったわね、なにかあったら連絡をちょうだい、くらいだった」  オレはまだ、親に連絡をしていない。 「桜子と先生を富山に置いたまま東京に帰るわけにはいかない。地理研部長としての責任があるし」  当初の帰宅予定は明日だ。あさって以降にずれこめば当然、親に連絡する必要がある。 「しばらく富山に残った方がいいようですね」  名取が言った。 「問題は、高岡くんのおばあさんの意向かな」  須崎先生は持っていたスプーンをテーブルに置いて、オレを見上げた。 「イコウって?」 「意向とは、今後にどうするかを考えること」 「よくわからないな、オレには」 「おばあちゃんのけがは幸い、軽くてすんだ。家庭内の暴行・傷害の罪は、被害者の意向が尊重されるの。つまり、今回の場合、おばあちゃんが『被害届を提出』すれば被害届が受理されて事件になることもあるし、『家族間のことなので処罰までは望まない』と申し出れば事件化せずに厳重注意で終わる場合もあるのね。おばあさんの考えひとつということ」 「難しくて、わたしにもよくわからないよ」  桜子が首を横に振った。オレたち高校生に法律の話をされても、わからないのは当然だろう。 「須崎先生、詳しいですね」 博識な名取が感心する。こいつなら、わかるかもしれないな。 「刑事ドラマや推理小説が好きだから、なんとなく知ってるだけ」  自慢好きの先生が珍しく謙遜している。 「先生を突きとばしたり、桜子を誘拐したりした罪は?」  オレが聞くと、須崎先生は真剣な顔で答えた。 「あたしのけがは大したことがないから考えなくてもいい。阿久根さんは無理やり連れていかれたけど、営利目的や生命・身体に対する加害目的がない。この場合『未成年者略取および誘拐罪』が適用されると思うんだけど、この罪は親告罪といって、被害者からの訴えがなければ罪が成立しないの。阿久根さんは、あの人に対して罰を求めていないのよね?」 「はい!」  桜子が元気に返事した。 「それなら事件にはならないはずよ。あとは警察が捜査の過程でどう判断するか……だけど」 「やっかいなことになったよな」  オレはため息をついた。法律のことは、オレたちで動かせるものでもない。警察の指示に従うしかないのだ。 「東京に帰れる日はいったい、いつになるんだ」  オレが腕を組んで考えこんだとき、「失礼します」という高岡の声が病室の入口の方から聞こえた。  となりに、高岡よりも二、三センチくらい背の高い男の人が立っていた。白いワイシャツと紺色のズボンを身につけている。 「ぼくの父、高岡昭成です」  高岡が紹介した。 「みなさん。このたびは弟の件でたいへんご迷惑をおかけしました」  高岡の父さん(以下、「高岡父」と書く)は、オレたちに深々と頭を下げた。  本当におまえの父さん?   身長が高いのは似ているけど、太めの高岡と違い電信柱のように細身だ。三十八歳と聞いた記憶があるけど、顔にしわがなく髪の毛も真っ黒で見た目が若い。白髪で真っ白、顔にシミだらけのオレの父さん(五十四歳)とは比べものにならないくらいに……。 「須崎先生。本当に申しわけありません」  高岡父は先生の方を見て、もう一回深く頭を下げた。 「いいんですよ。あたしはなんとも思っていませんから。頭をお上げください」 「すみません」  何度も小さく頭を下げる。 「お父様。それよりもあたしが心配なのは、弟さんの今後の生き方です」 「はい」 「あたし、高岡くんから詳細を聞きました。なんでも弟さんは、ここ二年間、仕事をせずにひきこもっていたとか」 「恥ずかしい話ですが、そのとおりです」 「今、警察で調べられていますが、もしお母様が警察に被害届を出さなければ、弟さんはすぐに帰ってくるでしょう。しかし、このまま怠惰な生活を続けるなら、今後も同じ事件を繰りかえすかもしれませんよ」 「母は今、眠っているため、意向を聞きだせません。実はさきほど警察から連絡がありまして、私は署に来るように通告を受けました。母の意向を確かめたあとに上市署に行き、事情を話そうと考えております。もし弟を返していただけるなら、私が責任を持って、弟を監督していくつもりです」  高岡父は再び深く頭を下げると、ひとりで病室を出て行った。 「ぼくは今夜、おばあちゃんの病室で付き添う。泊まりがけでね」 「オレたちは今夜、どうすればいいんだ」  オレは高岡に尋ねた。 「きみたちはぼくの実家に引き続き泊まればいいよ。元スタッフのおばさんたちに、きみたちを世話してもらうように伝えてあるから」 「悪いな、高岡」  オレたちは病院を出る前に、ばあちゃんの病室をのぞいてみた。ばあちゃんはすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。    通勤通学の人たちに混じって、越中舟橋駅で電車を降りた。  墨を流したような真っ黒な空に、灰色のあやしい雲が時より流れてくる。 「いろんなことがあって疲れたね。早く休みたい」  駅前から延びる、街灯の本数が少ない暗い道を歩きながら桜子がつぶやいた。 「うん……。オレも同じ」  珍しく、桜子と意見が一致した。  今日は早く眠りたい気分だ。  高岡の実家に着いたのは夜十時過ぎだった。  夜が深まった時間なのに、元旅館スタッフのおばさんがふたり、待ってくれていた。ふとんを敷いてくれたり、風呂を沸かしてくれたりと、至れり尽くせりだった。  今日も名取と同部屋だ。須崎先生がいないので、桜子はひとりで部屋を使う。  宿泊部屋のお膳の上に大きなおにぎりが六個、置いてあった。おばさんが作ってくれたらしい。これも高岡が根回しをしてくれたおかげだ。ありがとう、高岡。大変なときに申し訳ないな。  名取とふたりでおにぎりをむしゃむしゃと食べた。中身は梅干し、しゃけ、昆布の三種類だった。食欲はなかったのに、食べてみるとおいしくて、どんどん腹に入っていく。この味は、おばさんたちの料理の腕と富山米のうま味のたまものだ。  食後、旧旅館の一階にある風呂に入った。五人が入るといっぱいになるくらいの小さな浴槽に十五分ほどお湯につかっていたら、疲れがとれた。 部屋に戻ると、名取はふとんの中で眠っていた。こいつは相変わらず寝るのが早い。  名取のとなりに敷かれたふとんに入った。  ――高岡のヤツ、メシは食っただろうか。  ――ひとり部屋の桜子は、部屋で怖がっていないだろうか。  いろいろと考えてしまう。  すやすやと眠る名取とは対照的に、オレはすぐに夢の世界に入ることができなかった。   「先輩。町田先輩。朝ですよ」  聞き覚えのある声がした。目を覚ますと、名取の顔が二十センチくらい上にあってビクッとする。 「今、何時だ?」  ふとんにはいったまま名取に聞く。熟睡できなかったせいか、頭が重い。 「朝の七時です」 「おまえは早起きだな」 「なにを言っているんですか。先輩が遅すぎるんです!」  早くは起きられないぞ。オレは眠い目をこすった。 「もう少し寝かせてくれよ」 「それよりも、今、高岡先輩からLINEがありました。先輩の叔父さんですけど、警察の聴取が終わって今日、帰ってくるそうです」 「なんだって!」 「警察から、先輩のお父さんに連絡があったようです」  オレはふとんから勢いよく起きあがると、枕もとのスマホを取ってLINEを確かめた。  間違いない。オレにも連絡が入っていた。全員が、義行さんが帰ってくるのを心待ちにしていた。いちばん喜んでいるのはきっと高岡だ。オレは高岡に『よかったな!』と返した。  すぐに返信があった。 『朝の十時前に、お父さんが警察に叔父さんを迎えに行く』  部屋の出入り口の扉をコンコンとノックする音が聞こえた。 「わたし」  外から桜子の声が聞こえた。   扉を開けると、体育の授業で身に着ける赤色のジャージを着た桜子が立っていた。眠そうで目がトロンとしている。 「高岡くんからのLINE、見た?」 「見た」 「わたしたち、東京に帰れるのね」 「まあな」  オレたちは、元スタッフのおばさんたちが作ってくれた朝ご飯を食べたあと、身支度をして旧旅館を出た。  富山平野は快晴だった。晩夏の暑さがまだ残っていて、駅までの道のりをゆっくりと歩いたのに汗が止まらない。今日も飛騨山脈の青い稜線をはっきりと眺められたのが幸運だった。  今日は土曜日。越中舟橋駅から乗った電鉄富山駅行きの電車の中は、私服を身にまとった中高生でにぎやかだった。  病室で、高岡がばあちゃんとふたりで楽しそうに会話をしていた。ばあちゃんは上半身部分を三十度ほど傾けたベッドの上で、体を起こしていた。  横に、登山ウエアを身にまとった須崎先生が立っていた。東京へ帰る気が満々のようだ。 「きみたち、おはよう」  高岡の顔色が青白いのが気になった。オレと同じで、昨夜は眠れなかったのかもしれない。  富栄ばあちゃんがオレたちに笑顔を向けた。 「心配をおかけしました。みなさんには、なんとおわびをすればよいか」 「わたしたちのことは気にしないでください。とにかく、ゆっくり休んでくださいね」  桜子が優しく声をかけた。 「高岡。ばあちゃんの元気な姿を確かめたから、オレたちは今日、十二時過ぎの新幹線で東京に帰るからな」 「ぼくもきみたちと一緒に帰るよ」 「だめだ。おまえは富山に残れ」 「えっ、なんで?」 「ばあちゃんが退院するまでしっかりと看病するのがおまえの義務だ。学校が始まるまで、まだ十日あるし。それまで、ゆっくり富山で過ごすんだ!」 「でも……」  次に、桜子が口を開く。 「きみはわたしたちに気をつかってばかりで、富山に来てから、おばあちゃんとゆっくり話をする時間がなかったんじゃない? いい機会だから、わたしたちが帰ったあと、おばあちゃんとゆっくり過ごして」 「……」  須崎先生が高岡に目を向けた。 「ふたりの言うとおりよ、高岡くん。ゆっくり休みなさい。万が一、退院が遅れて九月にかかったら学校に連絡してくれればいいわ」 「――わかりました」  高岡はしょんぼりしている。納得していないようだった。 「合宿中にこんな目にあうなんて、ほんとになにがあるかわからないよね」  桜子がボンタンアメを口に放り込みながら言った。 「ホントだよ。先生。人生って、なにがあるかわからないぜ。先生にもいい人がみつかるかもしれないから、あきらめるなよ」 「町田くん。なにも知らない子供のくせによけいなことを言わないでちょうだい!」  先生が眼鏡越しからオレをにらむ。あ、オレ、先生を怒らせてしまったかも。まあ、いつものことだけど。 「おはようございます」  病室の出入口の方向から声がした。  つられるように出入口に視線を向けると、高岡父が立っているのが見えた。 「弟が帰ってきました」  義行さんは身を小さくして、恥ずかしそうに高岡父の後ろに立っていた。病室に入ろうとはしない。 「義行、早く入れ。なにをやっているんだ、おまえは」  高岡父が義行さんの背中を右手で強く押す。その勢いで、義行さんは病室の中へ押しこまれた。  顔を真っ赤にしながら、オレたちの前に立つ。  茶色だった髪の毛が黒に変わり、ひげもきれいにそってあった。今日は汚れた服ではなく、上は白い半袖のYシャツにネクタイ、下は紺色のスラックスと、会社員のような服装だった。腹のぜい肉が目立たないのは、サイズよりも大きめの服を身に着けているからかもしれない。 「このたびは、ま、まことにすみませんでした。以上です」  高岡父が厳しい顔で義行さんをにらみつける。 「謝るだけじゃだめだ。事の経緯をしっかりと話せ。ここにいる皆さんは、おまえが事件を起こした理由や事情をよくわかっていらっしゃらないから」  オレはだまって様子を見ていた。この人の本心を聞けるかもしれないから。  義行さんは体をモジモジとさせていた。 「俺……いや私は、昨日、おいっ子の啓太と話をして改心したんです。啓太から、三十歳を過ぎてから大学に入り直して薬剤師になった男性の話を聞いて、私も挑戦してみようと思いました。だけど自分は高校を中退した身。今のままでは大学に入る資格がありません。そこで私は『高等学校卒業程度認定試験』を受けようと考えました」  オレは、となりに立つ高岡の耳に口を近づけた。 「おまえの言葉が叔父さんに通じたんだな」 「そうみたいだよ」  高岡がうれしそうに言葉を返してきた。 「須崎先生、高等学校卒業程度認定試験ってなに?」  桜子の質問に、先生は笑顔で答えた。 「高等学校を卒業できなかった人の学習成果を適切に評価して、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうかを認定するための試験よ。合格すれば、大学とか短大、専門学校の受験資格が与えられるの」  義行さんは「そのとおりです」と緊張したような面持ちでうなずいた。 「試験を受けるには当然、お金がかかります。私にそんなお金はありません。資金を母に出して……いや借りようと、昨日、母の元に行ったんです。私は母に頼みました。『俺、大学に入って勉強したいことがあるんだ。その前に高等学校卒業程度認定試験を受けたい。母さんに学費を援助してほしいんだ』と。ところが、母は私の頼みを聞いてくれませんでした」  そうか。この人は学費の工面をお願いするために……。  富栄ばあちゃんは、ベッドの上で上半身を起こしたまま、オレたちの方へ顔を向けた。 「わたしは、いきなりだったこともあり、義行の言葉が信じられませんでした。二年間もお金を無心していたので当然です。悪いことに使うためのウソだ、どうせ無駄に使うに決まっている。そう思ったわたしは、ウソをつかないで、と言って断りました」 「何度と頼んでも聞いてくれなかったので私は激怒し、母の顔面を一回、なぐってしまったんです。本当に申しわけありません!」  何度も頭を下げる義行さんに、富栄ばあちゃんが「頭を上げなさい」となだめた。 「はじめは許せませんでした。わたしが義行の本心を知ったのは、昨日の夜遅くです。警察に呼ばれた昭成からの電話でした。今回のことは、義行の気持ちを無視して、悪い方向に決めつけてしまったわたしの責任です。それを聞くまでは被害届けを出そうと決めていましたが、義行の気持ちを知って、出すのをやめました」 「そうだったのか」  オレは小さくうなずいた。今回の事件は、義行さんの「改心」とばあちゃんの「誤解」が生んだ産物だったんだ。 「さっき、車の中で兄とも約束したのですが、ラーメン屋で働いて自活しながら、高等学校卒業程度認定試験の合格をめざします。将来は必ず、地元富山に貢献できる人になるので、これからもよろしくお願いいたします!」 「がんばれ、義行さん!」  オレは、義行さんに拍手を贈った。みんなもオレに同調する。病室にパチパチという拍手の音が鳴り響いた。 「叔父さん、がんばってね!」  高岡も泣いていた。 「ありがとう、啓太。おまえのおかげでいいきっかけが作れたよ」 義行さんの目から涙が流れた。 「ファイト、義行さん!」  桜子がガッツポーズする。  義行さんは右腕で涙をぬぐった。  病室が、旅立ちのセレモニー会場のようになった。  だけど――オレは疑問を抱かざるを得なかった。ひと回り以上も年下の高岡や桜子からのアドバイスをそのまま受け入れているから。きっと、人の話を疑いもせず、真に受けてしまう性格なのかもしれない。長所であり短所でもあると思うけど、それが今後、いい方向へ働くように願おう。  歓喜の中、高岡父が、高岡の前に歩み寄った。 「啓太。おまえに朗報だ」 「朗報って?」 「俺の母を――おまえのばあちゃんを東京に連れていくことにしたぞ」 「え?」  いきなり言われたせいか、きょとんとしている。 「今日の朝、おまえが席を外しているときに、母さんと話したんだ。おまえも母さんも、お互いに会えずにさびしい思いをしている。ならば、一緒に住む方がいいだろうってね」 「舟橋の家はどうするの? おばあちゃんがいなくなったら、誰も住まなくなっちゃう」 「義行に住んでもらう」 「ほんと?」 「はじめは心配だったんだが、義行が『母がいない環境で自立したいんだ』という強い意志を俺に示した。それに従うことにした。俺も、母を東京に連れて行きたいという考えが前からあったから、お互いの意思が一致したというわけさ」 「それでいいの? 義行さんは」  高岡が義行さんをチラッと見た。 「兄貴の言うとおりだ。俺は自分の可能性に賭けてみる」 「おばあちゃんもそれでいいの?」  富栄ばあちゃんは、高岡の問いかけにニコッと笑った。 「富山を離れるのは寂しいけど、若いころから東京に暮らしてみたいっていう気持ちがあったの。いちおう、啓太が高校を卒業するまでの一年半だけの約束でね」 「ありがとう、おばあちゃん!」  高岡のヤツ、また泣きだした。よく泣く男だ。  桜子と須崎先生も目頭を押さえていた。 「良かったな、高岡」  オレは涙をこらえながら、高岡と握手をした。 「町田くん。きみがぼくを地理研に誘ってくれたおかげだよ。ありがとう」  身長の高い高岡が、思いっきり腰を曲げてオレに礼をした。 「やめろよ。そんな他人行儀は」 早く頭を上げるように促した。 「きみがぼくを富山に連れてきてくれたからさ」 「違うよ。オレにはなんの功績もない。こういう結果になったのは、おまえの、ばあちゃんに対する愛のおかげだ」 「愛?」  高岡は首をかしげた。 「合宿先を富山にするきっかけはなんだった? 思い出してみろよ」 「部室で富山県の地図をみんなで見たとき、ぼくがおばあちゃんを思いだして泣いてしまって」 「人目をはばからずに泣くおまえの姿に、オレたちは胸を打たれたんだ」 「そう……なの?」 「なかなか人前で泣けるものじゃない。言葉では表現できないほど、ばあちゃんのことを愛していると感じたオレたちは、行先を富山に決めた。あれがなかったら、今年の合宿はきっと福島県にしていたからな」 「なんで、福島なんですか?」  名取が聞く。 「『喜多方ラーメンと白河ラーメンを食べたい』ってオレに豪語していたからな。ラーメンのことしか頭にない食いしん坊の桜子が」 「な、なんですって!」  桜子が、ゆでだこみたいに顔を真っ赤にした。 「人の前でわたしのことを食いしん坊だなんて。許せない。おまえ、あとで絶対ぶっとばす!」 「ぶっとばせるものなら、ぶっとばしてみろよ!」  オレは病室の外に逃げた。 「覚えてろっ!」  病室の廊下に桜子の声が響いた。
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