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1 地理研の危機?
「今年度中に会員を五人にしなければ、地理研は廃部よ」
須崎先生は、職員室のはしっこにある自分の席に座ったまま、メガネの奥の大きな目をキラリと光らせた。
白髪まじりの短髪。白いブラウスと紺色の短めのスカートが妙に色気を振りまいている。
厳しい顔つきからして、冗談ではなさそうだ。
廃部の話はこれまでに何度もあった。今までと違うのは期限がついたこと。どういう心境の変化なのだろう。
「今年度中って、先生、厳しすぎない?」
オレは目の前に立ったまま、須崎先生の顔を思いきりにらんだ。
「校長からの命令なのよ」
「校長の?」
「部活として実績を出していなかったり部員数の少なかったりする部については廃部の方向で考えたい、という話が校長からあったの」
わが調布中央高等学校には、部活動が部として認可するには五人以上の部員が必要という決まりがある。オレの地理研は、今年度からその条件を満たさなくなった。
「新規会員が簡単に入ってこないのは、先生だってわかっているはずだ!」
オレの大きな声で、まわりにいる先生方が一斉にこっちを見る。しまった、ここが職員室ということを忘れていた! 思わず両手で口をふさぐ。
「じゃあ、言わせてもらうけど」
須崎先生が腕を組んでオレの目を見る。この人が腕を組むのはお説教が始まる合図だ。恐怖を感じて背筋がゾクゾクっとなった。視線をそらす。
「町田くん。会員が三人になってから、今日でもう四カ月がたつわ。その間、部長のあなたはなにをしてきたの!」
「なにを……って言われても」
今度は声が小さくなる。
「そもそもこうなったのは、会員を集める努力を怠ってきたあなたの責任じゃない!」
「うっ」
一歩引いてしまった。痛いところをついてくる。
先生の言うとおり、なにもしていないのは事実だ。反論ができなくなった。オレは気が弱い。
地理研究部の会員はたったの三人だけ。部長は二年のオレ、町田雄平。副部長は同じく二年の阿久根桜子。もうひとりは一年の名取和真だ。
オレが入部した一年生のころ、部員は八人だったのだが、ふたつ上の三年生六人が卒業で一気に抜け、一時はオレと桜子のふたりだけになった。そんなとき、新入生の名取が入部してくれた。助かった、と思ったものの、あとが続かず今に至るんだ。
「とにかく、あなたの力でどうにかしてみること。タイムリミットは来年の三月までよ。わかった?」
三月か。緊急事態だな。まあ、ひとりで悩んでいても仕方がない。部員たちに相談しよう。オレにはあいつらという味方がいる。
オレは職員室を飛びだすと、廊下を一目散に走った。
都立調布中央高等学校は、調布市の閑静な住宅地の中にある。
調布は東京都の多摩地域にある人口二十四万人の都市だ。オレが生まれ育った町でもある。
新宿から京王線の特急で二十分という都心に近い場所にもかかわらず、武蔵野の面影を残す地域と紹介されるとおり、水と緑にあふれている。
学校の近くには、関東地方で有数の古刹・深大寺(じんだいじ)や都内唯一の植物公園として知られる神代(じんだい)植物公園があって、自然が多い。
オレたちはそんな恵まれた環境の中で毎日、勉強に励んでいるんだ。
「あーあ。ユウウツだな」
もうすぐ夏休みだというのに、解決の難しい課題を持ちこみやがって。須崎先生、うらむぜ。
本校舎を出て、旧校舎を結ぶ渡り廊下を進む。
校舎のとなりにある雑木林から、ミンミンやらジージーやら、いろいろな種類のセミの鳴き声が聞こえてくる。本校の夏の風物詩だ。ゆっくりとセミの声に浸りたいところだけど、今はとてもそんな気分になれない。
地理研の部室がある旧校舎は、白い宮殿のような華やかな本校舎に比べ、別世界に追いやられたように学校の敷地の端っこにポツンと建つ古い建物だ。五十年前には教室棟として使っていたと聞いたことがあるけど、そんな面影はない。二階建てで壁はひびだらけ、所々に穴があいていて、今にもくずれそうな構造をしている。南側に植えられた巨木に日をさえぎられて暗いので、生徒の間で「お化け屋敷」と呼ばれている。
旧校舎の床は板張りだ。歩くたびにギイギイと音が鳴る。踏むたびに歪む階段を上って、二階にある地理研の部室へ。廊下は省エネとかで照明をいつも消していて、昼間でも薄暗い。
廊下のいちばん奥にある地理研の部室の中から、桜子と名取の弾んだ声がもれてきた。あいつら、またクイズをやっているな。
教室の出入口の扉は木材でできたスライド式で、ドアが枠にあたってスムーズに開かないため、いつも重い。開けるのに苦労する。
部室とはいっても、もともとは一般の教室として使っていた部屋なので中は広い。机やイスは何十台もあるわけではなく、折り畳み式のテーブルが二台、一人掛けのイス五台が教壇の前に置いてあるだけ。
桜子と名取はイスに座ったままテーブルをはさんで向かいあい、地理クイズに夢中だ。
「おーい。おまえら」
部室の入口のところから声をかけても反応がない。
オレが部室に帰ってきたことに気づいていないようだ。こいつらの集中力にはおそれいる。
仕方がないな。少しの間、クイズをやらせておくか。オレは部下に甘い。
名取が問題を出し、桜子が答えるといういつものパターンだ。オレは三メートル離れたあたりからふたりを見守った。
「次のご当地ラーメンは、どこの都道府県の名産でしょう?」
名取が楽しそうな顔で出題する。今日はラーメンクイズか。昨日はうどんクイズだったな。その前はそばクイズだったような。
スポーツをやらないくせにスポーツ刈りのような短い髪がトレードマークの名取は宮城県の出身。細身でスラッとしている。身長が百七十五センチと、オレよりも五センチ高いせいか、こいつ、先輩のオレに対して上から目線なんだよな。まじめなヤツだけど、そこが玉にキズ。
「長浜ラーメンは?」
「それ、簡単。福岡県!」
桜子が得意げに答えた。
食べることが大好きな桜子は少しぽっちゃりとしているけど、本人は気にしていないらしい。白地に紺の付け襟という夏のセーラー服がキツそうで、体に合っていない。スカートはパンツが見えそうなくらい短くて、太めの足をいつもオレたちにさらしている。
「それでは次です。佐野ラーメンは?」
「栃木県!」
「尾道ラーメンは?」
「広島県だよ」
「さすがは阿久根先輩。完璧ですね」
名取がうんうんとうなずいている。
「そうでしょ。食べ物の問題なら任しておいて!」
桜子はそんなの当然よ、と言わんばかりにふんぞり返っている。地理を愛するオレたちにとって朝飯前の問題だ。答えてあたりまえ。
そのあとも、旭川ラーメン、喜多方ラーメン、勝浦タンタン麺と、クイズの格闘が続く。(答えは順番に北海道、福島県、千葉県)
そろそろやめさせよう。こいつら、注意しないと際限なく続けるからな。
「おまえら、本当にクイズが好きだな!」
ふたりの間にオレが割って入った。
「あ、町田先輩。知らぬ間に帰ってきていたのですね」
名取が目を丸くする。オレの存在に、今ごろ気づいたのか。
「オレは五分前からいたよ。暇さえあれば、クイズばかりやりやがって。ここはクイズ研究会じゃないんだぜ」
「先輩、そんなことは言わないでください」
「なにがそんなことだ!」
「クイズをしながら地理を覚えるのは、究極の勉強方法なんです。ボクの言うことに間違いはありません」
「究極か。おまえらしい言葉だな」
地理研の中で――いやわが校でいちばんの秀才、名取に言われると説得力がある。
オレは日本地理なら誰にも負けない自信があった。だけど名取の足もとにも及ばない。それほどすごいヤツなんだ。
一例をあげると、『総合旅行業務取扱管理者試験』という、旅行業をめざす人には必須の国家試験がある。名取は、大人でも合格率が二十%ほどといわれているこの試験を、小学四年生のときに受けて一発合格しているんだ。十歳での合格は今も最年少記録だというから驚く。それがきっかけで新聞社やテレビ局から取材を受けて、「地理の天才小学生」と紹介されたこともある。
オレは名取を見習って、試験を受けようと参考書を調べたけれど、即、断念した。総合旅行業務取扱管理者試験は高校生には理解しにくい法律や規則の嵐で、太刀打ちができないと悟ったからだ。小学生がたった一回で合格するなんて考えられない。こいつの頭脳はどういう構造をしているのか。
名取の言葉を借りれば、まさに究極の才能だ!
「名取くんの言うとおりよ。クイズは知識の向上につながるんだから」
「なんだよ、桜子まで。いくらおまえがテレビのクイズ番組で優勝した経験があるからって、クイズをひいきするなよ」
「ひいきしてはいけないの? クイズをバカにしたら、わたし、許さないから」
桜子が目をむく。
「バカにはしてないだろ! 勝手に決めつけるな!」
オレは声を荒らげた。こいつに対しては、どうしてもムキになってしまうんだ。
鹿児島県出身の桜子は、中学一年のときに鹿児島から東京に引っ越してきた。
出会ったばかりの高一の頃は薩摩弁が丸出しだったけれど、最近は標準語で話すようになった。桜子という名前は、お母さんが地元の活火山・桜島から命名したそうだ。
こいつのいちばんの自慢は、小学五年生のころ、地元・鹿児島のテレビ局で放送していた『薩摩っ子クイズ王決定戦』というクイズ番組で優勝したこと。自慢話を何度、聞かされたかわからない。
「ボクの猛特訓のおかげで、阿久根先輩は今や、町田先輩を超える地理の猛者になりましたよ」
「なにを言っているんだ! そんなの、ありえない!」
オレは小学校三年のころから地理を勉強しているんだ。オレの方が桜子よりも地理歴が長いんだぜ。
それよりも、自分のクイズのおかげで桜子が強くなったと自慢する名取の話が鼻につく。
「そうですよね、阿久根先輩」
「うん。わたし、名取くんのおかげで知識をどんどん増やしているから」
桜子が、ボンタンアメを口に入れながら言った。
くそっ。ふたりで手を組んでオレにケンカを売るとは。
こいつは地元鹿児島の名産、ボンタンアメが大好きだ。
ボンタンアメは、水あめを練り込んだ餅を一口サイズの直方体にかためてオブラートで包んだもの。製品は高さ十センチほどの小さな長方形の箱に入っている。鹿児島産のボンタン果汁で風味をつけているのが特徴だ。
鹿児島に住む桜子のいとこがボンタンアメの製造工場に勤めていて、しょっちゅうボンタンアメを送ってくるらしい。桜子からの寄付で、部室にも常に箱で置いてある。食べなよって勧めてくるけれど、正直、オレはこのアメが好きではない。
「先輩どうしで一度、勝負してみませんか? ボクが出題するクイズで」
「おもしろそう! 名取くん、問題を出して」
こいつら、今度はクイズでオレにケンカを売る気だな。桜子なんかに負けていられない。よし、受けて立ってやる!
そう思ったとき、職員室で須崎先生が言った言葉が頭によみがえった。今は、クイズどころではないんだ。
「三人で緊急会議を開くぞっ!」
オレはイスにドカンと勢いよく座って、こいつらの顔を交互に見た。
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「どうしたのよ」
ふたりが不思議そうな目でオレを見つめる。
「さっき、オレ、須崎に職員室へ呼ばれたんだ」
「はちきんに?」
桜子が目を大きくした。
はちきんとは、桜子が名付けた須崎先生のあだ名だ。
須崎先生は高知県の出身だ。はちきんとは土佐弁で「快活で気のいい性格と負けん気が強い女性」をさす。持ち前の活発な性格で年下の先生方を引っ張っているけれど、仕事に熱中しすぎて四十五歳になっても結婚ができない先生にぴったりのあだ名だ。
「で、なにを言われたの?」
桜子が身を乗りだす。
「来年の三月までに会員を五人にしなければ、地理研を廃部にするんだって」
「町田先輩、ホントですか?」
名取がオレの顔を見た。
「でも、今に始まった話ではないからね。慌ててもしょうがないよ」
桜子はさめているのか、感情を表に出さない。もっと本気になれよ。
「オレも困っちゃってさ。須崎によると、校長からの命令らしいんだよな」
大きくため息をつくオレ。
「そうなの?」
桜子はボンタンアメを口に放りこもうとして手を止めた。
「深刻な事態になってきたわね」
「ボクは地理研を廃部にしたくありません!」
名取が勢いよく立ち上がった。
「どうしたらいいの?」
「今から考えるんだろ!」
オレはバシッと机をたたいた。指をくわえて黙って見ているわけにはいかないんだ。
「とりあえず、友達とかクラスメートに声をかけていくか。非常事態だから入部してくれとか言って」
オレが言うと、桜子が反論した。
「四月の新入生勧誘のときと同じように、地理は苦手とか言われて断られるのが関の山じゃないの?」
「実はボク、帰宅部のクラスメートを何人か誘ったことがあります。興味を示してくれたのはひとりもいませんでした。まあ、町田先輩の言うとおりに際限なく声をかければ、ひとりくらい入ってくれるかもしれませんけど」
「名取くん。それはちょっと効率が悪いよね」
桜子が腕を組む。
オレたちは黙りこんでしまった。
「あとは、文化祭かな。訪れた人が目を引く企画を考えるの。例えば――」
「ちょっと待ってくれ。桜子の意見を黒板に書くから」
オレはイスから立ち上がって、黒板の前に立った。チョークを取ろうとしたとき、名取が「あれ?」と声をあげた。
「町田先輩。うしろのポケットにいつもの地図帳が入っていませんよ」
「え?」
「あ、ホントだ」
桜子も声を出す。
オレは慌てて右手をうしろに持っていって、制服のズボンの後ろポケットをさわる。
あ、地図がない!
制服ズボンのうしろポケットに『ポケット版 東京超詳細地図』を入れている。時間があるときにいつでもどこでも気軽に地図を見るためだ。文庫本サイズだから簡単にポケットに入る。
「しまった。どこに忘れたんだ」
必死に思い出そうとするけど浮かんでこない。ポケット地図はオレの大切な宝物だ。身近にないと気になって他のことが手につかない。
「はちきんと職員室で話しているときに落としたんじゃないの?」
「いや、あのときオレはずっと須崎の前に立ちっぱなしだった。座ったときならともかく、立っているときは普通、ポケットから落ちないからな」
もしかしたら――。
「教室かもしれないから、見てくる。おまえらで対策を考えておいてくれ」
オレは部室を飛びだした。
背後から「ちょっと雄平、逃げるの?」という桜子の大きな声がしたけど、無視した。地図の方が大切だ。
「待っていてくれ。すぐに戻るから」
廊下を走った。俺の走る勢いで廊下がうねった気がした。
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