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金輪際 無芸、52歳。当前だが芸名である。学生の頃、酔った先輩に付けられたのをそのまま使い続けている。俺が若い頃はこういう訳の分からない芸名で訳の分からない事を訳の分からない劇場でやってる訳の分からない輩が沢山いた。そしてバブルが弾けてほぼ滅んだ。自称天才共が夢半ばで役者を辞めていく中、特に目立たなかった俺だけがこの仕事を続けているというのが何だか笑えるので、この芸名を変えるつもりはない。俺はきっと生涯『無芸』のままだろう。
職業、舞台役者。エキストラ以外でテレビに出演した事はない。未婚で安アパート暮しなのでやっていけてるくらいの収入。両親は随分前に亡くなった。姉がひとりいるが、親父の葬式以来連絡をとっていない。俺の生活について誰文句をいう者もいないので、この年齢でまだ売れない役者をしている。
趣味、ゴリラ。
まてまて、変人と断ずるのは些か早計というものだ。俺のゴリラはそんじゅうそこらのゴリラではない。真似などでは決してない、俺のそれはもうゴリラ、ゴリラなのである。圧倒的ゴリラ、夢のようなゴリラ。俺のゴリラに全米が涙すること請け合いである。
だからまて、変人じゃない。なぜなら俺はこの趣味を人に明かしたり、あまつさえ披露したりはしないのだから。変だと思うから人前でしない。ホラ、それなら変人ではないだろう。変だというのをちゃんと理解しているのだから。
俺が趣味としてゴリラを嗜み始めたのは26歳、大穴馬券で30万を当てた時の事だ。余りの喜びに部屋中を暴れ回り、気が付くとゴリラの真似をしていた。当時の隣人が怒鳴り込んで来てみたいな細かい事は省くが、結局その日は半日程やっていた。
日が傾くまで続けて、ふと、これはゴリラではなく、ゴリラ役を演じているだけにすぎない事に気付く。
良い役者であれば反省し、ゴリラの演技を確かなものとするべく修練するだろう。だが俺は違った。
斜陽に目を細めながら、俺は役ではなく、ゴリラになろうと決意したのだ。故に趣味である。役者としての事ではない。お理解り頂けるだろうか?理解らないか、そうだろうな。
嗜む際には毎回ビデオで撮影し、自分が今どれ程のゴリラであるかを入念にチェックしている。多い時には週2で動物園に通い詰めゴリラを観察し、また自宅でも可能な限りゴリラの映像に目を通す。自己評価では現在86%程度のゴリラ。90越えてからが戦いである、未だ完成は遠い。
俺の密かな夢は、この趣味が完成したその時に、一番良いものを映像として遺し、俺の葬式で流す事である。極近しい者にだけそれをみせ「あいつなんだったんだよ」と呆れる顔を眺めながら身を焼かれるのだ。そのためには日々精進、道半ば。
そんな訳で、あくまで仕事はまた別。
「……ふぅん、嫌われちゃったの?」
「さぁな、でも。俺の演技も、奴の演技も、チケット枚数には影響ないって、解ってくれると嬉しいかな」
「何?顔で売ってるだけだっていうの?貴方、それただの嫉妬よ?みっともないわ」
言いながら、手巻きタバコに火を着け、ゆったりと紫煙を燻らせるニーナ。俺は発泡酒で少し唇を湿らせ「そうかもな…」と否定は出来ずにいる。
「上手なの?そのナントカ君」
「俺は評価する立場じゃないよ。予算を削るために選ばれた役者だもの。主演様がクソでもミソでも手放しで褒めちぎるさ」
「そんなのきいてない」
ぶった台詞では赦してくれないニーナ。しかし、はっきりと意見を述べるほど、俺は自信家じゃないのだ。
「……いいものは持ってると思う」
結果、尻すぼみに勢いを落とす俺に、ニーナはがっかりしたように「ばかね」と言い、
「それで済ますなら、仕事に拘りなんか持たないで頂戴」
燻るタバコを、押し潰すようにして火を消した。
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