相似の境界

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「つー訳で俺もう駄目だわ」 「ふぅん…」  舞台2日目にして完全フリーとなった可哀想な俺をニーナは慰めてはくれず、普段と変わらずルーティンをこなしている。まあ正直どう言ったらいいものか考えあぐねているのだろう。優しい女なのだ。いや、今は未だメスなのだろうが。 ―ヒィーホッボッボッホ…  普段と違い逢引きの最中に寄って来た俺に、窓の向こうのオランウータンは露骨に不機嫌な態度を示す。本当にニーナは大したものだと思う。俺には結局ゴリラは降りてこず、役も降りた。 「俺は『先輩』を、やってやれなかった…」  思えば若い頃、向こう見ずな俺を、何も弁えず虚勢を張った俺を、だが決して舞台の上ではなく、あくまで袖で分からせてくれた、その先達の優しさ。殴られたり蹴られたりはしたが、彼等は演者の俺だけは絶対に貶めなかった。 「俺は……俺は人間失格だ…」  俺は主演の彼を、そのキャリアを傷付けた。先輩からしてもらった事を、後輩へ繋いでやれなかった。偉大なる自称天才達のイズムを、無芸な俺が断ち切ってしまった。訳の分からぬ大きな何かを、俺が終わらせてしまった。  やりきれないのだ、仕事も気持ちも。 「何で俺だったんだ?ちゃんと叱ってやれる奴を選べば良かったんだ。尊敬される、敬愛される先達が、彼には必要だったんだ」  違う。そもそも彼は俺に何かを乞うた訳ではない。少しからかわれたのを、俺が大人気なくやり返したのだ。この後に及んでも俺は、彼に理由を押し付けニーナに慰めてもらおうとしている。演技ではない、これはただの嘘つきだ。 「なぁ、今日くらい俺を優先してくれてもいいじゃないか」 「夜ね、今はダメ」  言い募る俺を、ピシャリと制するニーナ。オラウータンがこちらに敵意を向けている。俺は邪魔者か。俺が邪魔者なのか。ニーナはどっちのつもりだ、一人と二匹だとでもいうのか。 「ねぇ、彼が怒るから…」  振り返ってそう言ったニーナの、迷惑そうな顔が視界に入った瞬間、 ―ボオオオオオォォォォー!!!!! 漸く今更、俺の何かがキレてしまった。 ―オッオッオッオッ!!!ボゥ!!ホッホッ!!  これははっきりと嫉妬である。こんな状況になってまで猿なんぞを優先するニーナに怒りを抑えきれなくなったのだ。 ―ボゥ!ボゥ!ボゥオウオウオウ!!!  しかしながら、屈伏させる相手はニーナではない。 ―オゥ!オゥ!オゥ!オゥ!  一世一代のゴリラである。それはもうゴリラ120%である。ニーナを争うオスの闘争である。くれてやるものか、くれてやれる筈がない。  中央に座すのはメスではない。ニーナを被った、つまらない中年女なのだ。  俺でいいじゃないか。俺にくれたっていいじゃないか。  俺が、俺こそがニーナを守ってやれるのだ。猩々緋のマントは、俺を包むためににあるのだ。 ―オッオッオッオッ!!オッオッオッオッ!!!  俺のゴリラを皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのがニーナだ。気をきかせ、とりなしてくれるセリヌンティウスがお前だ。  殴れ。俺を殴れ。殴ってみせろ。俺はお前とニーナの間を疑っているのだ。ずっとずっと、疑っていたのだ。 ―ボオオオオオオオ!!  どん引きするニーナすら無視して、一体ニーナが誰のメスであるのかを猛烈に主張する俺。 ―オオオオオオオオオオオオオン!!!!  やがて勢いに気圧されたものか、オランウータンは諦めた様に、高台に設えられた寝床へと引き返していった。 「…………勝った」 「あのねぇ」 「籍入れよう」  ニーナの肩を抱き、真っ直ぐに伝える。勝ち得た者の権利である。緋のマントは、暴君ディオニスが奪い取った。 「結婚しよう」  飼育員もこちらに走ってきている。もう間もなく俺はまた土下座して謝る事になるだろう。俺は出禁でも良いが、彼女は無関係であると弁明しなければならない。だがその前にどうしても返事が欲しい。 「本当、アホなんだから…」  果たして彼女が猿の言葉を解するかどうか、それは知れないが、 「疑ったのはセリヌンティウスよ」 はにかんだその笑顔が、俺とニーナが確かに通じ合っている事を伝えてくれた。
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