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かちゃ、と静かな音がした。
二〇一号室の扉をゆっくりと開閉し、ひょっこりと顔を出す。
「……誰もいない、よね?」
左右を確認する。廊下に人の気配がないことを確認し、アパートの廊下に出た。早足で階段まで行き、たたたっ、と軽やかに降りていく。
さーて。秘密の夜の散歩、はっじまるよー。
いつもと異なるハイなテンションに自分でも「浮かれんな」と思う。でも、仕方ないじゃん。可愛いお洋服を着てるんだもん。
ゴツめの黒いチョーカー。フリフリのスカート。スモールメッシュの網タイツ。リボンの付いた厚底の靴。全体的に黒を基調としたファッションに身を包み、鼻歌まじりに夜道を歩く。
髪型はツインテールで色はピンク。巷では「地雷系」と呼ばれるファッションだけど、個人的には大好きなお洋服だ。
こんなにも可愛い服を着ていると、昼間の自分とは違って乙女っぽくなったな、と実感する。いわば、地雷系女子ファッションは、可愛い女の子に変身できるコスチュームなのだ。
……とはいえ、この格好で外に出るのは恥ずかしい。周囲の視線が気になり、恥ずかしくて顔が真っ赤になってしまうから。
だから、夜に散歩をするのがマイブームってわけだ。まるで夜の一人ファッションショー。
あまりに楽しいから、その場でターンをしてみる。スカートがお花みたいにふわりと舞った。あはは、かーわいっ。いけいけ、ごーごー!
「ふんふんふーん……うん?」
かつん……かつん……っ。
浮かれて歩いていると、不審な足音に気づいた。自分の足音じゃない。他人のだ。しかも、背後から聞こえてくる。
……まさか、ストーカー?
え、やだこわい。こんな人気のない夜道で襲われたらどうしよう。
試しに早歩きをしてみる。しかし、足音もついてきた。もっと速く歩く。かつん、かつん。駄目だ、振り切れない。この靴じゃロクに走れないよ、どうしよう。
足音は大きくなっていく。
かつん、かつん。
かつかつかつかつ。
……これ、ヒールの音?
もしかして、追ってきているのは女性?
考えているうちに、肩をがしっと掴まれた。
「こっち向きなさいよ」
おそるおそる振り返るが、怖くて目を合わすことができない。視線を相手の胸元に落とす。そこには大きな胸があった。断定はできないけど、Eカップくらいはあるだろう。
「ちょっと。下向いてないで、私の顔を見なさいっての」
イラつく女性の声を頭から浴びて、ますます恐怖が心を巣食う。
ゆっくりと顔をあげる。
女性と目が合う。
おもわず目を見開いた。
「私、相葉志穂。高校一年生の頃から佐藤和也と付き合ってるんだけど」
「はっ……か、和也? だ、誰ですか、それ」
「とぼけないでよ。私、見たんだからね――あなたが和也の部屋から出てきたのを!」
シラを切ろうとしたが無理だった。
そう……二〇二号室は佐藤和也の暮らす部屋。
彼女――相葉志穂は『彼氏の部屋から見知らぬ地雷系女子が出てきた瞬間を目撃した』のだ。
ヤバいんですけど……全然可愛くないんですけど、大ピンチなんですけど!
「とりあえず、話を聞かせないよ。地雷系の断崖絶壁女」
断崖絶壁?
意味がわからなかったが、自分の胸を見てはっと気づく。貧乳を揶揄されたのだ。べつに恥ずかしいことではないけれど、何故か両手で胸を隠してしまう。ほっといて、このおっぱいお化けめ。
◆
「とりあえず、話を聞かせてもらうから」
「……はい」
すぐそばにある小さな公園に入り、二人用のベンチに腰かける。
「で、あなた誰? 名前は?」
一瞬、言い淀む。
本当のことを言うわけにはいかなかった。この難局を乗り越えるには、嘘をついて乗り切るしかない。
「妹、です。妹の佐藤由香」
「たしかに和也には妹さんがいるって聞いているわ。でもね、そんな嘘が通じると思ってるの?」
志穂が睨みつけてきた。駄目だ。完全に浮気相手の女をこらしめる顔をしている。
「う、嘘じゃないですよ。たまにお兄ちゃんのお部屋に行ってお料理を振る舞ったり、お掃除したりしてるんです」
「今どきそんなに心優しい妹がいるわけないでしょ! ラノベか!」
「事実はラノベよりも奇なり、です!」
ここで引くわけにはいかない。死んでも妹キャラで貫き通す。
「もっとマシな嘘つけないの? こんな夜遅くに兄の部屋に行くとかありえないから。今、二十二時よ?」
「お、お兄ちゃんのこと、好きなんだもん……あの、この歳でお兄ちゃん離れできないの、やっぱり変ですか?」
くらいなさい、志穂!
うるうるおめめの上目づかい攻撃!
「うぐっ。か、可愛いくて健気な子ね……いやいや。騙されないわ。あなた、和也の浮気相手でしょ!」
「違います! 正真正銘、お兄ちゃんラブな地雷系女子です!」
「何よそれ。堂々とブラコン宣言して恥ずかしくないの?」
「い、いいじゃないですかぁ! お兄ちゃんは優しくてかっこよくて、由香のヒーローなんだもん……ぐすん」
「な、泣くことないじゃない。ごめんね、由香ちゃん……じゃなくて! あなた、妹さんじゃないでしょ……ない、のよね? 浮気相手なのよね?」
狼狽える志穂。案外、彼女はチョロかった。この調子で可愛さと健気さをアピールしていけば、信じてもらえるのでは?
「あれ? でも、妹さんは眼鏡をかけているって和也から聞いたような……」
「ぎくっ」
「それに見た目は地味な子だって言ってた。髪の毛をピンクに染めたりするかしら?」
「ぎくぎくぅ」
「怪しいわね……じーっ」
「い、妹ですよ? 今日はコンタクトで、この髪はウィッグなんです。あはは……」
「ふぅん……ちょっとウィッグ外してみなさいよ」
「だ、だめです! 爆発します!」
「なんでよ! もしかして、それ地毛じゃないのね!? やっぱり妹じゃないんでしょ!」
「地毛じゃないけど、妹ですぅぅ! あー、引っ張らないでー!」
「やかましい! 観念しなさい!」
「言いがかりですよぉ! このおっぱい星人!」
「な、なにおう! あなたこそ、この……ばーか! あほー!」
気づけば、お互い立ち上がって言い争っていた……なお、志穂は悪口の語彙力がないので「ばーか」と「あほー」しか言わない。そういう少し足りないところは可愛いなと思った。
「はぁはぁ……あくまで浮気相手だと認めないつもりね?」
志穂は肩で息をしながら尋ねた。
「認めません。妹ですので!」
「そう。ま、シラを切るならそれでもいいわ。明日、和也に問いただすから」
「お、お兄ちゃんに? あの、優しくしてあげてくださいね……?」
「はあ? あなた、彼女ヅラしないでくれる?」
「妹ヅラしてるだけです」
「あまり調子に乗らないで。いい? 私のほうが、和也にずっと愛されているんだからね?」
ついには愛情でマウントを取りに来る志穂。その表情は得意気である。だが、論点がだいぶズレていることに気づいていないようだ。
とはいえ、興味深い話題ではある。彼女の話を少し聞いてみよっかな。
「あの、ちなみになんですけど、なぜお兄ちゃんに愛されていると思うのですか?」
尋ねると、志穂は急に頬を赤く染めてもじもじし始めた。
「和也はね、素直になれない私のことを優しさで包み込んでくれるの」
「へえ……そうなんですね」
「私が可愛くないこと言って困らせたときも。ワガママ言って怒ったときも。和也はいっつもそばにいてくれて、私の頭を撫でてくれる。私にめいっぱい甘えさせてくれる……私のしてほしいことを察してくれる、とっても優しい彼氏なのよ」
「ぐはっ!」
あぶないところだった。思っていた以上に甘い惚気で吐血しかけたよ。
「和也は私だけに優しいんだから。浮気相手のあなたにはわからないでしょうけどね」
「は、はぁ……そうですか」
「そうよ。その……しょ、将来、私と結婚したらいい旦那さんになると思うわ」
志穂は「きゃっ、言っちゃった!」と恥ずかしそうに言った。顔を両手で隠し、もじもじしている。
かあっと頬が熱くなる。
何故こんな聞いているだけで恥ずかしくなる惚気話を聞かされているのだろうか。親友との女子会かっての。
「子どもは二人がいいわ」
「し、知りません。お兄ちゃんと相談してください……」
「どう? 思い知った? 私のほうが和也に愛されているし、私もまた和也を愛している。あなたのつけ入る隙なんてないんだからねっ!」
「はい。あの、志穂さんの勝ちでいいです……」
「私の勝ちでいいってことは、和也から手を引くってことでいいのね?」
「そもそも浮気相手じゃなくて妹ですが」
「まだその設定で通すつもり? いい加減、妹である証拠を見せなさいよ。身分証ないの?」
ぎくっ。
それはマズい。当たり前だけど、佐藤美香の学生証なんて持ってないよ。
「見せられません。お財布、持ってきていませんし」
「怪しすぎる……じぃーっ」
マズい。疑いの眼差しを向けられている。どうにか信じてもらわなきゃ。
「じゃあ、お兄ちゃんに関するクイズを出してください。妹だから、なんでも答えられます。もちろん、ただの浮気相手じゃ答えられないレベルのディープなヤツで」
「いいわ。では問題。和也が中学時代に犯した黒歴史は? ちなみに私は彼と同じ中学出身。私の知らない彼の黒歴史はないわ」
「えっと……どれですか?」
「え? どれって選ぶほど知ってるの?」
「修学旅行で名前の書いてあるパンツを忘れて、みんなの前で名前を呼ばれたことですか? お札のようなデザインの付箋を使っていたら『陰陽師』というあだ名が定着したことですか? 英語の先生をうっかり『ママ』と呼んでしまったこと? あるいは、夜の校舎に忍び込み、校庭に魔方陣を描いたことがバレて全校集会で注意されたこと……」
「ど、どうして知ってるのよ……あなた、同じ中学だったっけ? こんな派手な見た目の子はいなかったけど、高校デビューした可能性も捨てきれないわ」
「中学は違いますけど、妹なので知っています」
どう? これで信じてもらえた?
そう思ったが、志穂は半眼でこちらを睨んでいる。どうやらまだ疑っているらしい。
「怪しいわね……同じ中学出身ならこの程度のことは知っているはず。妹であることの証明にはならないわ」
「そんなぁ……どうすれば信じてくれますか?」
「家族のエピソードが欲しいところね……問題。和也が十五歳のとき、妹さんと大ゲンカをした理由を答えなさい」
「十五歳のとき……」
「中学三年生のときね。彼、このことは家族以外では私にしか話していないと言っていたわ。この問いに答えられたら、あなたを妹だって認めてあげる」
「……妹の動画配信チャンネルで唯一お気に入り登録をしてコメントをくれる人が、お兄ちゃんだってバレたからですね」
「せ、正解! 和也の優しさが空回りした泣けるエピソードよ!」
「泣きたいのはこっちですが」
「そ、それはそうかもね……あの、本当に妹さん? 佐藤由香ちゃんなの?」
「そう言ってるじゃないですか」
「由香ちゃん! 疑ってごめんなさい!」
志穂は両手をパンと合わせてごめんのポーズを取った。
よ、よかったぁ。どうやら信じてもらえたっぽい。
「いえ、誤解がとけたのならよかったです……辛い過去を思い出しちゃいましたが」
「ご、ごめんねー。あの、和也にはこのこと内緒にしてくれる?」
「いいですけど……どうしてです?」
「だ、だって……私、和也のことで惚気まくっちゃったもん。恥ずかしいじゃない」
顔を赤くする志穂が可愛くて、おもわず頬が緩む。
「わかりました。二人だけのナイショ、ですよ?」
「由香ちゃん……あなた、本当にいい人ね。見た目は地雷系で面倒くさそうなのに」
「一言多いってよく言われません?」
「あははー……そ、そうだ! お近づきの印に連絡先交換しましょ?」
れ、連絡先だって?
それは困る。志穂に教えられる連絡先なんてない……あ、そうだ!
「あの、志穂さん。個人的な事情で、電話とかあまり出れないんです。だから、SNSの連絡先でもいいですか?」
「私はかまわないわよ。ID教えて?」
スマホを取り出し、SNSのアカウントを見せる。もちろん、表のアカウントではない。裏垢だ。
連絡先を交換した直後、志穂はニヤニヤしている。
「ふふっ。あなたのアカウント、自撮り写真の投稿が多いのね。とっても可愛いわ」
「そ、そうですか……えへへ。ありがとうございます」
「ほんと可愛いわねぇ、由香ちゃん。なんだか妹ができたみたいで嬉しい。ねね、今度一緒に遊びに行かない?」
「ええ、いいですよ……って、えええっっ!?」
いやいや!
どうしてデートしなきゃいけないの!
「やったぁ! ありがとう、由香ちゃん!」
「あ、あの、やっぱり遊びに行くのはちょっと……」
「ふふっ。恥ずかしがらないで? お姉さんとのデート、楽しみましょう?」
志穂は優しく笑い、そっと抱きしめてきた。
柔らかい感触に包まれる。柔らかくて弾力のある胸が当たってドキドキしちゃう。
志穂はそっと離れた。
「あはは、顔真っ赤だぁ。いーなー、和也は。こんなに可愛い妹がいて」
「ぷしゅー……」
ほっぺたが熱い。顔から湯気がでそうだ。いきなり大胆なスキンシップはやめてほしい。
「それじゃあね、由香ちゃん」
そう言い残し、由香は去っていった。
火照った体を冷ますため、ベンチに座って夜風を浴びる。
浮気相手という疑いを晴らし、妹を演じきれたまではよかったのだ。問題はそのあと。なんで志穂と会う約束などしてしまったのだろう。あの子とは、今夜限りの関係でよかったのに。
「はぁ……どうしてこんなことにぃぃぃい……!」
『俺』は夜空に叫びながら、ウィッグのピンク髪をわしゃわしゃともみくちゃにする。
こんなことになるのなら、趣味の『夜の女装散歩』なんてしなければよかった。
男だって可愛い女の子に憧れてもいい。そう思ってはいるものの、堂々と昼間に女装して歩くほど勇気はない。近所の人にバレたら恥ずかしいからだ。ましてや彼女の志穂にバレるわけにはいかない。地雷系女子になった俺を受け入れてもらえるか怖いのだ。
だから、わざわざ人気のない夜を選び、女装して散歩していたのに……まさか部屋を出るところを志穂に見られていたとは思わなかった。しかも、俺のことを浮気相手だと勘違いしていたから、めっちゃ感じ悪かったし……断崖絶壁? 当たり前でしょ。見た目は可愛く変身できても、体は男の子なんだから。
てか、志穂のヤツ惚気すぎ。マジ嬉しかったんですけど。俺も君の明るい性格と眩しい笑顔が大好きだって言い返したかったわ。あーもうほんと好き。あとで電話越しにイチャイチャしよっと。
電話で思い出した。そうそう、連絡先を聞かれたときは焦ったな。だって、俺は志穂の彼女なのだ。電話番号もメールアドレスも登録されている。連絡先を教える=身バレだ。なので、アカウントを複数作れるSNSである必要性があった。はぁー。承認欲求を満たすために自撮り画像を投稿するだけのアカウントがあって助かったよ。
……いや。冷静に考えて、連絡先を交換せずに立ち去るという選択肢が一番よかったかもしれない。ううー、判断を誤ったかも。
一番の問題はデートの約束をしてしまったこと。
俺、この格好で昼間外に出るの?
いやいやいや。無理だから。身バレが嫌だから夜中に外出していたのに、日中に外出とかハードル高すぎる。
それどころか、志穂にバレるかもしれないんだよ?
そんな緊張感の中、デートなんて考えられない。
「マジ勘弁してくれぇぇぇ……」
俺の弱々しい嘆きは夜空に吸い込まれていった。
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