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子供の頃、たった一度だけ。
化けた老人を見たことがある。
父親と手を繋ぎ、スクランブル交差点で信号待ちをしていたときだった。
何とは無しに、僕は隣に立った人の顔を見上げた。
七十歳くらいの、頭の禿げあがったおじいさんだった。
と、僕は奇妙なことに気が付いた。
おじいさんの顎のあたりの皮膚が、台所で使うラップの端っこのように、薄くめくれている。
よく見ると、それはお面の縁のように耳元から顎を一周し、頭のてっぺんにまで及んでいるようだった。
僕の頭をよぎったのは、ドラマや漫画で登場人物が変装を解くシーンだ。
顔の端からぺろんと化けの皮を剥がすと、下からまったく別人の顔が現れる。
あの剥がされた顔はどこへ行くのだろう。どんな感触がするのだろう。
そんなシーンを見るたび、僕は子供心にどこか薄気味悪く思っていた。
「ねえ、おじいちゃんはスパイ? それとも泥棒?」
幼かった僕は見知らぬおじいさんに唐突な質問をぶつけた。
父親はこら、と僕を叱ったあと申し訳なさそうに頭を下げていたが、おじいさんは僕の頭を撫でたあと、小声で囁いた。
「そうだね、何も悪いことはしちゃあいないが――もうずいぶん長いこと、演じているなあ」
信号が青に変わる。ピッポッ、とメロディが流れ始める。
よぼよぼに見えたおじいさんは、驚くほどの速さで遠ざかり、すぐ人混みに消えてしまった。
そんな記憶が僕の中で急によみがえってきたのは、今朝の出来事がきっかけだった。
今日は秋晴れで気温もちょうどよく、散歩日和だった。
いつもは車で寄るコンビニに徒歩で向かう途中、僕は十字路で信号待ちをしていた。
向かいには自転車に乗った少年が片足を地面につけて止まっていた。
中学生くらいだろうか。白いTシャツと黒いハーフパンツ。
これから部活動に行くのかもしれない。
信号が青に変わった瞬間、僕らは同時に動きだそうとした。
――と、その時だった。
右折した車が少年の自転車と接触したのである。
細い体がボンネットに乗り上げ、そして地面に転げ落ちた。
目の前で起きた人身事故に、僕は思わず硬直してしまっていた。
車のドアが開き、ドライバーが少年に駆け寄る。
横倒しになった自転車の車輪がカラカラと回っている。
僕は少年の容体が気になった。
怪我の程度はどうだろうか。意識はあるのか。
――そして、見てしまった。
少年の顔がまるごと、果物の皮を剝くようにぺろりと剥がれ落ちている。
耳のあたりで辛うじて繋がったそれは、ぶらんと地面に向けて垂れ下がっている。
僕は目を疑った。
剥がれた皮膚の下から、先程までの少年とはまったく別人の顔が露出していたのだ。
老人のように皺くちゃで――
しかし、目だけが異様に大きい。
アーモンドのような形をしていて白眼がなく、全体が真っ黒で光沢を放っている。
――なんだ、あれは。
お面を被っていたのか? 老人が? 少年の顔の?
しかし、そんな風にはとても見えなかった。
何より、あの眼は――
それが見えたのはほんの一瞬だった。
彼はゴム製のお面を被り直すように、たやすく皮膚を元通り顔に張り付けてしまった。
ドライバーはそれに気付いているのかいないのか、彼から目を離して救急車を呼んでいる。
周囲からもどんどん人が集まってきた。
僕はなぜかその場を離れなければという思いにかられ、歩いてきた道を引き返した。
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