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Prologue.泡沫
「主さん、どうされなんし?」
「いつも朝になる」
「そうおすな」
「いつか身請けしてやるといったが、いつになるかわからないのだ」
「主さん、わっちはかまいんせん。また来てくんなんし」
その声はホッとした響きを滲ませていた。
そろそろ夜明だ。
それは楼全体のざわめきからも感じ取れた。弥治郎が着物を羽織ればそれは夜露で濡れ、その肩にしっとり重く張り付く。
ああ、この夜もこれで終わりだ。夜など明けねばよい。
そのように思っていることが、弥治郎の表情からありありと見てとれた。弥治郎はこの朝の訪れを心底憎んでいた。夕霧はそれが定めとでもいうように、淡く微笑んでいる。
遊郭では客は夜明けと同時に大門から出る決まりだ。だから夜明け前に身支度を整える。もうすぐ行燈を掲げた朝の尖兵、この妓楼の妓夫が、部屋へ朝を知らせに来る。そうしてこの部屋を追い出される。弥治郎と褥をともにした夕霧は、この神津新地の中見世、幽凪屋の女郎だ。だからそれは、夕霧がここにいる限りは如何ともし難い決まりなのだ。
それが嫌なら、身請けをすれば良い。けれどもそれは、果てしなく遠い。
夕霧はいつも幽凪屋の大階段までは見送りに来ているが、夜明けを恐れるようにそこから先は出てこない。
「夕霧、名残惜しいな」
「東雲の朗ら朗らと明けゆけば、おのが後朝なるぞ悲しき。古来よりそう言いしんす」
「今晩も来る」
「お待ちしておりんす」
夕霧は静かに頭を下げた。
丁度、明け六ツの鐘が鳴る。大門が開く時間だ。客は次々と追い立てられ、朝靄の中に消えていく。それが毎日の光景なれど、そこには確かに交々の風情が溢れていた。
そのように明治十五年秋の新しい一日が始まった。
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