1.昼日中

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1.昼日中

 弥治郎は幽凪屋を出て道すがらのカフェーで朝食をとりながら、いつも通り市場調査というものを試みた後、自宅兼店舗に戻って揚戸(入口の戸)を上げた。既に往来はにぎわいを見せ、呼び込みの声が聞こえ始める。  弥治郎は神津(こうづ)南新興区で白河屋(しらかわや)の屋号で帽子店を営んでいる。この区域は神津市が産業振興のため、若者に店舗用地を安く貸し出しまたは売却している。弥治郎は新地で投資家を名乗る青山(あおやま)という人間に出会い、破格の条件で出資を受けている。破格の理由は帽子屋が儲かると見込まれたこと、もう一つは弥治郎に明確な目的があることだ。  1つは帽子屋は儲かることだ。  明治四年に散髪脱刀令、同六年に絵姿入りで大礼服制の改正が公布されてより、日の本の正式は洋装着帽となった。大量の山高帽が輸入され、大流行した。けれども当時は未だ帽子屋は少なく、高い輸入品か質の悪い安価品ばかりであった。  馬具屋の四男に生まれた弥治郎は革の扱いに慣れ、またオーダーメイドで当人に合う帽子をあつらえる腕とセンスがあった。日本人の頭は左右に長く、西欧人の頭は前後に長い。そのことに気づき、それぞれの人間の頭の形にスマァトに合わせるものだから、弥治郎の店は繁盛していた。  もう一つの理由。金を稼ぐための明確な目的があることだ。つまり弥治郎には石に齧り付いてでも儲けを出すという気迫があった。  弥治郎は夕霧の身請け金を何としても工面しなければならない。けれども身請けというのは莫大な金がかかる。果てしない金が。弥治郎はそれがいつになったとしても、諦めるつもりはさらさらなかった。それほど夕霧に惚れ抜いていたのだ。けれどもやはり、その道のりは遠かった。 「若旦那、もうすぐ青山さんが来られますぜ。しっかりされませ」  顔を上げれば番頭が心配げに弥治郎を覗きこんでいた。青山は白河屋の出資者であり、共同経営者だ。定期的に帳簿を確認にきて、さまざまな提案をしていく。必ずしも従う必要はないが、多くの場合にその指摘は有用だ。けれども弥治郎は、その先行きに壁を感じていた。 「経営が振るわないんですかい?」 「いや。全く上々だよ」  黒字は累積し、売上は上々である。けれどもそれは上々に過ぎない。新興店舗としては破格の売上であるけれども、やはりそれはただの破格に過ぎない。三十度程の角度を保つ売上の上昇具合では、とても夕霧の身請けに足りぬのだ。その目標額は遥かな山がそびえ立つかのように、先行きが見えない金額だった。一山当てたいと思えども、ままならぬ。弥治郎はどうやって身請け金を貯めるか行き詰まっていた。  緊縮に緊縮を重ねればなんとかなるかも知れぬ。けれどもそもそも、毎晩の廓通いで金がなくなる。夕霧は格子女郎だ。弥治郎が買わねば他の男が買うかもしれない。そうである以上、弥治郎には通いをやめるつもりはなかった。
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