優しい魔女

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優しい魔女

 引っ越しのトラックを確認した青年は、踊り場から飛び降りた。 「婆ちゃん、あの子が越すよ」 朝餉(あさげ)の支度をしていた祖母の手が止まった。 「そうかい‥‥‥やっと」 「うん」 どれほどこの「結果」を願い続けてきたことか。 「よかったね‥‥‥」 「うん」 何も覚えてはいなかろう。 だがあの子は、何度青年(このこ)に好意を持ち、 青年(このこ)に会うために必ず引っ越しを拒んでしまう。 ならば。 「嫌われるの、けっこうしんどかったな」 「辛かったねぇ‥‥‥」 それはそうだろう。だってこの二人が引き合うのは。 テーブルにうずくまる青年の頭を祖母は撫でた。 「婆ちゃん」 「ん?」 「ごめんな。ずっと一緒にいられなくて」 祖母の(のど)が震えた。 あの子がこの地を離れれば、あの子の父親の行動は変わり死が回避される。 母親も狂わず、あの子が歪み、不幸な道を進む未来は消えるのだ。 そうしたら、今、目の前にいる青年(このこ)は。 「よかった、まだ箸が持てる。せっかく婆ちゃんが作ってくれたんだからよく味わって食わなきゃ」 青年は鼻をすすり、うまいうまいと大声をだして食べ始める。 「馬鹿だねぇ‥‥‥」 祖母は知っている。 青年はもっと早く、あの子をこの地から去らせることができたのだ。 「おまえ、私のために今までわざと失敗していたんだろう?」 「いいや」 米を頬張りながら言う。 「そんな殊勝なもんじゃない。俺が消えたくなかっただけだよ。それに」 豆腐の味噌汁を飲みながら、青年が祖母を見つめた。 「婆ちゃんも、なんだろう?」 祖母も青年を見つめた。 「ああ。じゃないけど。たぶん、私が最初の相田繭(あいだまゆ)だ」 『人を喰う家』の発端になった老女。 「じゃあやっぱり、迎えに来た息子っていうのも、相田信人(あいだのぶと)だったんだね?」 「ああ」 あの時この家の中に何が巣食っていたのか。何が起きたのか。あの日以来、自分はいったい何周めの人生を生きているのだろう。 「だからすまない。私の姿に驚いて心臓が停まりかけたおまえを、ここに留め置いて生かすことはできた。けれど、おまえの母さんを助けることは‥‥‥」 自分自身には(さわ)れない。関われない。 「謝んないで。俺が気づいた時はもう全てが終わってた。だから」 青年は味噌汁の残りを飲み干し、椀を置いた。 「俺を助けてくれた、別の母さんと暮らしてみたいと思ったんだ」 そしてウサギリンゴに手をのばす。 「あ」 リンゴが青年の手をすり抜けていった。
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