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犯行の夜
満月の浮かぶ夜空の下、街はパトランプの赤い光に染められている。
丸い噴水から同心円状に造られた広場は、14台のパトカーと1基の巨大サーチライトで埋め尽くされていた。
犯行予告のあった時刻まで5分を切った。9月の夜は、昼の暑さが同じ日のこととは思えないほど気温が低く、肌寒く感じるほどだ。
いよいよその瞬間が近付きつつある中、総勢265名の警官が動員され、広場を中心として街全体に厳戒な包囲網を敷いていた。
物々しい雰囲気に包まれた広場を見て、角田刑事は緊張感から生唾を飲んだ。
「これで来なかったら、角田さんマジやばいっすよ」
日頃から眠たそうに見える三白眼をさらに細めて、菱野巡査が大きなあくびをしながら言った。
緊張感のない軽口を叩かれ、その苛立ちを振り払うように、角田は五厘刈りにした頭をがしがし掻いた。
「奴は必ずここに現れる。俺の刑事としての勘がそう言ってるんだ」
「まあなんでもいいっすけど。この現場、諸々手当ついて給料8割増しっすよね?やるだけのことはやりますよ」
犯行時刻はもう間もなく───広場には時計の針が時を刻む音だけが響く。
残り9秒、さすがの菱野も緊張してきた。
時計の音に合わせて心の中でカウントする。
───そして、短針が動く
それと同時に、広場は暗闇に包まれた!
サーチライトが中の電球ごと割れたのだ!
「な、なんだ!?」
「奴だ!懐中電灯を出せ!この広場のどこかにいるはずだ!」
突如として視界を奪われた警官たちが騒ぎ出し、角田の怒号は掻き消されてしまう
警官たちは慌てふためき、闇雲に駆け出しては互いに衝突して転げ、慌てるあまりに懐中電灯を落として割る大騒ぎ!
しまいには手探りで隣にいる警官を取り押さえようとさえ───
「か、角田さん!どうなってんすかこれ!?」
「役立たずどもが!もういい!」
もはや組織として機能しなくなった警官たちを見限り、角田が七分丈のダッフルコートから自分の懐中電灯を取り出して広場を長方形に照らすと───
そこに、怪盗はいた!
シワのない黒の礼服を着こなし、その上に被った裏地の赤い漆黒のマントが風になびいている
背の高いシルクハットと片眼鏡、そしてカイゼル髭をたくわえた、九頭身はあろうかという長躯が屹立していた!
まるで小説から飛び出してきたような怪盗エルクリックが、そこにいたのだ!
「ごきげんよう、角田刑事!懲りずにまた優秀な三下くんたちを大勢集めたようだね!ご苦労なことだ!」
「出やがったなキザ野郎!今度こそ年貢の納め時だ!大人しく捕まりやがれ!」
「ふふふ、そんな手錠でどう捕まえようというのかな?」
「なにっ!?」
角田刑事が懐から取り出した手錠を見て、怪盗は指差して笑う
たったいま取り出したはずの手錠は、なんとぐにゃぐにゃに捻じ曲げられていた!
もはや手錠として機能しないほどに!
「お楽しみいただけたかな?ふふふ、どうやら今夜も私の勝ちのようだね!」
指の先まで芝居がかった大仰な動きで、怪盗は角田刑事を挑発する
そして次の瞬間、怪盗の体が空へと舞い上がった!近くの建物にワイヤーを仕込んでいたのだ!
建物の屋根に飛び移った怪盗は、警官たちの視線を全て浴びながら高らかに叫ぶ
「“全ての物語の結末”は確かにいただいた!君たちが答えに辿り着くまで、君たちの物語は永遠に終わらないだろう!ではさらばだ!」
颯爽とマントを翻し、怪盗はそのまま夜の闇に溶けて消えた
「なにしてるバカども!追いかけろ!」
「か、角田刑事!タイヤが全て割られています!ちくしょう!いつの間に!」
「ホイールもハンドルも破壊されています!車は使えません!」
「てめえらの足は何のためについてんだ!走れェ!!」
ただの置き物と化した車を捨て、警官たちは広場の各辺に伸びる道へ駆け出した
どやどやと駆けていく警官たちはすぐに夜の暗がりの奥へ消え、広場には角田と菱野の2人だけが残った
静寂を取り戻した広場で、角田は噴水の角に腰を下ろし、タバコを取り出して火をつける
無精髭をたくわえた顔が、オレンジ色の光の中に浮かび上がった
「角田さんは追いかけないんすか?」
「奴が現れてから3年、もう8回も逃げられてんだぞ?刑事の勘で分かる───今回も逃げられた」
「なんか、情けなくないっすか?」
その言葉に、ひくっ、と角田の口角が引き攣る
「情けねえだと───?」
「そうじゃないっすか!エルクリックが現れたとき、オレは角田さんすげえって思ったんすよ!なんでここに来ることが分かったんだろう、刑事の勘ってすげえ!オレもいつか、そんな風になれるのかなって───心底憧れたんすよ!なのに、それなのに───刑事の勘って言葉を、犯人逮捕を諦める言い訳に使うなんて───そんな角田さん見たくなかったっすよ!」
激しく感情を吐露する菱野に、角田は言葉が出なかった
「四六時中引っ付いてりゃ嫌でも分かるっす!あんたは心の底からあのキザ野郎を捕まえたいんすよ!自分に言い訳してる場合っすか!」
ふう、と角田が紫煙を吐いた
俯いたまま、菱野に問いかける
「お前、いくつだっけな」
「26っす」
それを聞いて、角田は笑った
自分の子供と同い年だ───そんな年齢の部下に叱られるとは
「俺もヤキが回ったもんだ」
自虐的に笑い、角田は立ち上がった
「悪いな菱野!目が覚めたぜ!今夜中にあのキザ野郎をとっ捕まえるぞ!」
「は、はい!それでこそ角田さんっす!」
広場に立てられたデジタル時計が刻々と時を刻む
怪盗が出現してから、まだ4分ほどしか経っていない
周辺を探せば、何か手掛かりが残っているかも知れない
分厚い雲に覆われた夜空の下、角田と菱野は深夜の街へと駆け出した
「ところで角田さん、聞きたいんすけど」
「なんだ!」
「あいつ、結局なに盗んだんすかね?」
「あ?何言ってんだ!そんなもん───」
角田刑事の口から、ついぞその答えは出なかった
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