老執事と盗人の三戒

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「ああ、指輪! 執事様! 私の結婚指輪がありません!」  仕事上がりで着替えて帰るばかりだったメイドが金切声を上げて老執事に詰め寄った。 「ありませんか。ふむ……状況を詳しくお教え願えますかな」 「今朝来て確かに私物箱に入れておいたのです! それが指輪だけ! ああ、彼から貰った大切な指輪なのに! どうして!」  彼女はとても話を聞ける状況では無かったが、彼は困ったように白いちょび髭を捻り「わかりました。ええ、私も探しておきますから」と落ち着かせるよう腐心する。  老執事はこの十日でついに八件目の紛失申告を受けてしまった。ひとつふたつのうちは不注意を疑っていた彼も短期間でこれだけ重なると、そしてそのひとつたりとも未だに発見されていないことを考えると、窃盗を疑わざるを得なかった。  まあ彼は元々窃盗をのだが。  涙ながらにそれでも一応落ち着いたメイドを帰らせると、老執事は己の執務室でメモと屋敷の地図を広げる。  ここまで申告のあった紛失物ごとに敷地図を一枚、紛失日と推定紛失場所、その日の出勤者の行動時間のリストを作成する。  紛失物はメイドの結婚指輪、馬番の吸い口、他には靴紐やら空の弁当箱やら……結婚指輪のような私的な意味としてはともかく、総じて金銭的価値は低い。売ろうにも二束三文の値も付かない物のほうが多いだろう。  念のため数日前から表裏それぞれの流通経路に網を張っていたが、当然ながらどれひとつとして転売された形跡はない。  とはいえ。状況整理の一環として敢えて言語化したものの、老執事には犯行動機が金銭ではないとわかっていた。金が欲しいのであれば財布を直接盗ったほうがよほど早いし、この屋敷にはもっと簡単に盗れて金になる物がそれこそとあるのだから。  怨恨の可能性も検討したが、ふたつ以上盗まれた者がいるわけでもなく盗品の価値も先ほど述べた通り。誰かに恨みをぶつけたいならもっとマシなやり方がいくらでもあるだろう。  犯人の動機は金銭でも怨恨でもなく、盗品はこの屋敷を出ていない。老執事はそのように結論付ける。  恐らくは同一犯であり内部の犯行だろう。では屋敷のなかにあって八件全ての犯行を可能にする人物は誰か。  老執事の哲学として、真の窃盗とは、とりわけ騎士貴族の屋敷のような閉鎖空間で行われるそれは数学と心理学。つまりは学問の範疇へと様相を変えていく。  その場に活動する者たちの行動が洗練されればされるほどに、彼らはまるで歯車のように的確に空間を支配し、有事であっても取り乱すことは少ない。つまり“紛れ”は起き難くなるものだからだ。  それぞれの地図と全ての行動時間のリストから推定紛失時間にひと知れずその場所へ侵入可能な人物を絞り込んでいく。極めて無感情に機械的に、老執事自身や雇い主までも対象に丁寧に可否を判断する。  そうして、彼が貴重な夜の読書時間を割いてまで導き出した容疑者はあまりにも意外な人物だった。  老執事は眉間を揉んで深い溜息を吐く。  まずは証拠を押さえる必要がある。それもなしに問い詰めてはを切られて証拠を処分されてしまうかもしれないし、もしかすると自分の勘違いという可能性も捨てきれない。  もっとも彼としては、むしろ自分の勘違いであって欲しいとすら思っていたのだが。  翌日の昼下がり、老執事が訪れた部屋の主は所用で小一時間ほど席を外しており、清掃などで誰かが入る予定もない。  彼はさも当然のような顔で扉を叩いて挨拶と共に無人と承知の部屋へと入室すると、手入れの行き届いた部屋を見回し盗品の隠し場所について推論した。  ベッドの下、クローゼット、箪笥の奥、そういった本来ありがちな隠し場所は使用人の手入れがあるので今回は対象外だ。そんなところに隠していたらとっくの昔に誰かが発見している。  使用人の触れられないところ。過失や気の迷いでも触れようのない場所はどこか。  老執事は僅かに考えて、部屋の隅にある机に目を向けた。  質の良い木製のそれにはいくつも引き出しが付いているが、そのうちのひとつには鍵穴があった。白い手袋に包まれた指先で取っ手を摘まんで引いてみるが当然鍵が掛かっている。  指先を離して袖口からするりと長い針を二本滑らせて指を絡めると、その針先を鍵穴へと潜り込ませる。  それはまるで指の延長のように内側の構造を老執事へと伝え、まるで幼子をあやすかのように瞬く間に鍵を解いてしまった。  再び取っ手を引くと今度は抵抗なく静かに開く。中にはいくつかの大切にしているであろう小物や手紙、そして一番奥にひとつ、この引き出しの中身にまったく似つかわしくない物が鎮座していた。  きちんと洗ってある弁当箱。中身は吸い口と靴紐だ。  老執事は中身だけ確認するとそれを元の場所に戻して引き出しを閉じ、ご丁寧に鍵まで掛け直して机を離れる。  彼は無駄の無い動きで化粧台や書棚などを漁りたちまちのうちに全ての盗品を見つけ出し、それらの全てを寸分違わず元の場所へ戻して部屋を後にした。  遺憾ながら、彼の推理は的中してしまった。この犯人は余りにも扱いが難しい。老執事は深い溜息を吐いて自室へと戻るのだった。
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