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喧嘩の後の塩彼氏
「陽菜の彼は好きだとか言葉にしてくれる?」
それは仲のいい友達からの一言。いつものように盛り上がる恋バナに、紅茶を片手に耳を傾けている時だった。向かいに座っていた友達が不意に私の顔を覗き込む。
「いや、あまりそういうことを自分から言うタイプの人じゃないからなぁ」
「じゃあ言って欲しい時はおねだりするの?」
おねだり、か。そういえば唯人にそんなおねだりをしたことがあったかな。言葉は少なくても態度や表情でよく分かるし、あまり気にしたことなかったな。
「んー……おねだりもしたことないかも」
「え~!たまには聞きたくならない?」
好きって言ってなんてお願いしたところで、絶対素直になんて言ってくれなさそう。いつものぶっきらぼうな唯人を思い出して思わず笑みがこぼれてしまう。
「みんなの彼はそんなに頻繁に言ってくれるの?」
「コーヒー入れるね」
少しだけ開けたドアの隙間からパソコンに向かう後ろ姿に声をかけて、唯人のお気に入りのマグカップを手に取った。せっかくの休日なのに、相変わらず忙しそうだな。
音楽関係の会社に務める唯人は根っからの仕事人間で、昼夜問わず部屋の一室に作られた作業部屋で私にはよく分からない機材をいじっている。だから会いたくなったらこうやって家で会うのが私たちの日常であって、それに対する不満なんて全くない。むしろ仕事の合間に二人で食事をしたり、他愛のない話をしたりする時間がとても好きだし、なにより私は仕事に打ち込む唯人の姿が大好きだった。
それなのに、最近ほんの少しだけ気になることができた。キッチンで唯人のコーヒーを入れながら、ついこの間交わした友達との会話を思い返す。
『うちの彼もあまり言葉にはしてくれないけど、ねだったら言ってくれるよ』
『態度でも伝わるんだけど、やっぱり言葉にしてもらえると嬉しいよね』
『好きだとか可愛いって言われると、不思議だけど本当に可愛くなれる気がするしね』
唯人だって全く言ってくれないわけじゃないし甘い時だってあるもん。誰に言い訳するわけでもなく、一人心の中で呟いている自分が可笑しくてふっと息が漏れた。
「……でもみんな可愛かったなぁ」
その言葉の通り、彼との甘いエピソードを話す友達はみんな可愛かった。表情も、笑った顔も、仕草ひとつでさえ。
その後も私たちはどうなのかと散々問い詰められたけれど、みんなが話しているような甘いエピソードは持ち合わせていなくて、結局みんなの惚気話に幸せを貰って満足して帰ってきてしまった。すごく楽しい時間だったのだからそれ自体に全く問題はない。ただ、何故かあの日からほんの少しだけ胸の中が霧がかかったようにもやもやしている。
私は唯人の前でみんなみたいに可愛い彼女でいられているのかな、とか、むしろ可愛いと思われていないから言葉にしてもらえないんじゃないのかなとか。
確かに唯人は器用な人じゃないけれど、なんていうかこう、 本当に私を好きだって感じる瞬間ってあるのかな……。
心ここにあらずでケトルを握ると、注ぎ口から流れるお湯が指を伝う。
「……っ!あつっ」
手元から離れたマグカップが床に落ちると、ゴトンと大きな音をたてた。
「どうした?何の音?」
作業部屋から出てきた唯人は床に転がるマグカップと指を握る私の姿を見てすぐに状況を把握してくれる。
「おい、早く手冷やせ」
驚いて固まっている私の腕を掴むと唯人は水道の水をシンクに流した。
「あ……唯人のマグカップ……」
「大丈夫。割れてないから」
不謹慎だけど、真剣な表情で手を冷やしてくれる唯人の横顔に心臓の音が大きくなる。手が触れ合っているだけでこんなにどきどきするなんて、なんだか欲求不満な子みたいで……いやだ。目のやり場に困って視線をさ迷わせていると、冷蔵庫の開く音にはっとする。
「あとは冷却剤にハンカチでも巻いてしばらく冷やしておけよ」
「あ……うん、ありがとう」
冷凍庫から出してくれた冷却剤を受け取ると、唯人は床やシンクに溢れてしまったコーヒーの後片付けを始めた。
「ご、ごめんね、作業中だったのに余計な仕事を増やして」
「ボーっとすんなよ」
「うん……ごめん」
言い方は素っ気なくても気遣ってくれていることは分かる。でもどうしてだろう、今日は唯人の言葉の一つ一つが耳につく。ハンカチを冷却剤に巻きながら、コーヒーを入れ直している唯人を見ると胸の奥が苦しい。やっぱりなんか私今日変だ……本当に欲求不満みたい。優しい言葉が聞きたいとか、甘えたいってそんな欲求ばかりが頭の中を回ってる。
「今やってる作業が終わったら薬買いに行くから」
床を拭いたタオルをカゴに入れると、唯人はマグカップを持って仕事部屋へ向かおうとする。このままじゃまた仕事に戻っちゃう、もう少し、ここにいて欲しいのに。
「ゆ、唯人!」
「……ん?」
呼び止めたのはいいけれど、振り向いた唯人は決して機嫌がいいとは言えない表情だ。
「あ……のね……」
私の次の言葉を待ってくれているだけなのに、この数秒ですら不安がじわりと押し寄せる。ただ、ここでコーヒーを飲めば?って言ってみればいいだけなのに。もしくは、少しだけ話したいなって甘えてみればいいのかも。ただそれだけなのに。
「なんだよ」
今唯人は、私のこと、どう思ってるのかな。そんな気持ちが頭の中を過ぎった瞬間。
「私のこと……好き?」
思わず言葉にしてしまったことに驚いて、慌てて口元を手で塞ぐ。私今、なんて──。
「……は?」
「あっ……ご、ごめん。えっと……」
「何、急に」
眉をしかめる唯人に、小さく息を飲む。そうだよね、そんな反応になるよね。作業中に手当をして片づけまでしてくれて、ただでさえ忙しい時間を割いてくれたのに何で今……だよね。
「ごめん……何でもないの」
「何でもないならつまらないこと聞くなよ」
その一言に胸の奥で何かがぎしりと軋むような音をたてた。
「……つまらなくは……ないでしょ」
「何?」
「好きだって……聞きたくなっただけだもん」
「それ、今このタイミングで言うこと?」
唯人の言う通りなのに、こうなると自分も止まらなくなる。
「だって、友達の彼氏は聞きたいときに言ってくれるって……」
「だから俺にも同じようにしろって?」
──そうじゃない。唯人と友達の彼氏は違う。そんなこと分かっているのに、私は何を言っているんだろう。
「ううん……違う、ごめんなさい」
唯人はため息をつくと、湯気の上がるマグカップをテーブルに置いた。
「薬買いに行ってくる」
そのまま玄関を出ていった唯人が置いて行ったマグカップを見ると、堪らず涙が溢れた。なんでもっと上手に甘えられないんだろう。あんな言い方されたら誰でも嫌な気持ちになるに決まってる。唯人は私の声を聞いてすぐに部屋から出てきてくれた。こぼしたことも自分の不注意で火傷したことも怒ることなく手当をして、片付けをしてくれた。一日中仕事をしていて疲れているはずなのに、こうやって家に呼んでくれた。言葉なんてなくてもこんなに優しくて、私のことを想ってくれているのに。友達に影響されて、してもらっている以上のことを求めるなんて。毎日忙しい唯人の支えになるどころか喧嘩してどうするの……。
なかなか戻ってこない唯人をリビングで待つ間、ヒリヒリと痛むのは火傷の傷じゃなくて胸の方だった。
「ただいま」
「お……おかえりなさい」
一時間ほどして帰ってきた唯人は持っていた薬の入った袋をテーブルへ置いた。
「薬塗るから手貸して」
大人しく手を差し出すと、ひやりとした薬が指先に小さく染みる。
「赤くなってる。痛い?」
「うん……ちょっとだけ」
「……目も赤くなってるけど」
手当をする指に向けていた視線を上げた唯人は、じわりと溜まった私の涙を反対の指で優しく拭ってくれた。
「唯人、ごめんね……私……」
「いや、今日のは俺が悪かった」
「悪いのは私だよ。私がわがままを言ったから」
薬の上から包帯を巻きながら唯人は小さく息を吐いた。
「お前が聞きたいなら言ってやればよかった」
「え……」
「そんな小さなわがままくらい素直に聞いてやればよかった」
唯人は手当てしていたものを片付けると、立ち上がって手を洗いに洗面所へ向かう。
「いつも色んなことを我慢させているのに。悪かった」
巻かれた包帯と唯人の背中を見て涙が止まらなくなる。なんであんなことを言ったんだろう。
「……本当にごめんなさい」
鏡の前に立つ唯人の背中に頬を寄せると、ため息の音が耳の奥に響く。
「だから、俺が悪いから謝らなくていいって」
「違うよ!唯人を友達の彼氏と比べるなんて間違ってた……」
きっと唯人は唯人のやり方で誰よりも私のことを大切にしてくれている。不器用なだけで、そんなこと分かっていたはずなのに。
「まぁ確かにそれには腹が立ったけどな」
「友達の話を聞いてから、なんだかずっと変な気持ちだったの」
「変な気持ち?」
「唯人に甘えたくなったというか……その」
「……ならそう言えよ」
「だって、唯人はそういうの嫌がると思って」
「べつに嫌なわけじゃ……」
唯人の背中に耳を付けて心臓の音を聞いているだけで、さっきまでの不安が嘘みたいに消えていく。
「寂しかったのか」
「うん、少しだけ。でももう平気。唯人の優しさで心まで満たされた」
涙をすんっとシャツに染み込ませると、突然振り返った唯人が手当てをした反対側の手首を掴んで寝室の扉を開けた。そしてそのままベッドに押し倒した私の上に跨る。
「ゆ……唯人……?」
「俺も寂しかったよ」
そっと唇を塞がれて体が瞬く間に熱を持つ。
「変な気持ちだったんだろ。満たしてやる」
唯人の熱に触れた唇から体の先まで甘い熱が広がって、頬はあっという間に紅く染まる。
「そ、そういう変な気持ちじゃないよ」
苦しいほどに音を立てる心臓に耐えきれなくて思わず唯人の胸を押し返そうとするとけれど、それを許さないとばかりにもう一度深く唇が重なった。
「それ、抱いてほしかったっていうんだよ」
胸を押さえていた腕が唯人の腕でゆっくりとシーツへ沈められると、同時に首筋を這う舌に熱が集まる。
「……んっ、あ……待っ……」
「友達に言ってやれば?」
「……え?」
舌なめずりをした唯人は一度睫毛を伏せた後、艶美な唇の端を上げた。
「私の彼氏は……好きな気持ちを確かめたくなったら抱いて教えてくれるって」
強気な唯人の言葉と視線にぞくりと胸が震える。そうだ……言葉よりももっと私を満たしてくれるものがある。目の前にあるそれを心がこんなに求めてる。
「早く……教えて、ほしい……」
「あぁ、教えてやるよ、どれだけ愛してるか」
「んっ……」
耳元で甘く囁かれて、まだどこも触られていないのに熱のこもった吐息が唇から零れた。
「愛してるに反応してるの?」
求めていた甘い台詞に疼く体は唯人が望む通りの反応を示して、必死に首を振ったところで何の意味も持たない。
「……お前本当に可愛いよ」
ため息のように吐き出される深い息。その呼吸を合図に唯人はブラウスのボタンを外して素肌に吸い寄せられるように顔を埋める。いつもの余裕のある表情が少しずつ、少しずつ崩れていく。
「……っ、あ……ん」
胸元に降りてきた唯人の長くて細い指に反応して漏れる声を押さえるように固く唇を閉じると、そこをこじ開けるかのように唯人の舌が遠慮なく差し込まれた。
「もっと舌伸ばして」
「ふ……んぁ……っ」
目の前で柔らかい猫っ毛の前髪が揺れると胸が苦しくなって、呼吸をするのも忘れて深く舌を絡めあった。口の端から飲み込めなくて溢れた雫がシーツへ伝っていく。名残惜しく離れた唇から溢れた雫の跡に指を這わせた唯人は、そのままその指を口に含んだ。
「……んっ、唯人……」
「足、開いて」
スカートをたくし上げると、唯人は唾液で濡れた指を太ももの上で何度も往復させる。その指の行く先を想像してほんの少し抵抗したくなるのに、焦らすような動きに自分の意志とは関係なく唯人の要望通りに体は唯人を受け入れようとする。
「や……だ」
「いやだ?こんななのに?」
「あっ、ん……やぁ」
片方の手ではあやすように前髪を分けながら、片方の指は深く沈み込ませる。唯人の飴と鞭のような攻め方に涙がシーツの上で染みを作った。途切れそうな息を何度も吐き出して、必死に快感を逃そうとすると口元を緩めた唯人のキスが降ってきて、止まることのない快感を与えられる体はあっという間に限界に近づいていく。
「唯人……っ、ま……って」
「大丈夫だから」
唯人の指は待ってくれるどころか更に追い詰めるように深く沈み込む。
「や……唯……っ」
「陽菜俺のこと見て」
「……っ」
「そう、そのまま俺のこと見てて」
こんなのずるいよ。そんな目で見つめられたら何考えられなくなる。唯人のこと以外何も。
「……陽菜」
快感を受け取る場所は一つじゃない。耳も、唇も、指先も。視線一つだって、唯人が与えてくれる全てが私を深い快感へと誘っていく。
「ん……唯人、私……もう」
「……イっていいよ」
低く掠れた声に本能が従うと、甘い快感の余韻で肩が大きく上下する。心拍数が上がって、シーツを強く握っていた指先は力尽きたようにベッドへ放り出された。脱力感が全身を覆っているのに、体の熱は逃げてくれなくて少しの息苦しさすら感じた。
唯人はいたわるように一度乱れた私の髪の毛に指を通した後にベルトへ手をかけると、まだ快感と熱を逃せていない私の体の奥へと容赦なく自分を沈み込ませる。
「は……っ、陽菜」
目の前で辛そうに目を細める唯人の姿に、また先ほどと同じ熱が体中を侵食していく。引き寄せられるように唇を重ねると乱れた呼吸が欲を煽る。余裕のない表情に滲む、縋るような甘い瞳。私だけに向けられた、唯人からの真っすぐで偽りのない愛。
吸い込まれるような瞳から目を離せないまま、腕を優しく引かれて起き上がると更に深く繋がって、嬌声が部屋の中に響いた。
「あっ、ん……は……」
「陽菜、手……ここ」
唯人は手当てした腕を優しく握った後、自分の首の後ろへ回した。
「ここから動かすなよ」
「え……?っ、ぁ……」
そのままの体勢で与えられる快感に目の前がまた滲み始める。すぐ側で感じる呼吸の音も、混ざり合う汗の温度も、何もかもが気持ちいい。もうすぐ側まで来ている深い波に必死に抗おうとするけれど、唯人はそれを許してくれない。
「陽菜……」
乱れた二人の吐息の音とシーツの擦れる音、ベッドの軋む音。甘く濁った部屋の中で快感に溺れる私の耳に届く掠れた声。
「……好きだ」
誰にもあなたの代わりなんてできない。
それを今日もまた私は痛いほど思い知るんだ。
「唯人……私も好き」
喧嘩後の少ししょっぱいあなたとの二人だけの秘密の時間。
あなたの好きは、私だけが知っていればいいね。
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