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1ー1 妹の子供
真夜中。
屋敷の最奥にある室内は一気に慌ただしくなっていた。
扉の前の廊下を半日以上も行ったり来たりを繰り返していたレティシアは、中に入っていいのか分からないまま、無意識に胸の前で握っていた手を更に強めた。
勢いよく開いた扉からメイド長のカトリーヌが出てくる。レティシアが生まれる前からこの家に仕えているカトリーヌは、珍しく疲れを滲ませながら、それでも口の端に笑みを浮かべてレティシアを部屋の中へと迎え入れてくれた。
室内ではもう一人、町から呼ばれた産婆が生まれたばかりの赤子を産湯につけ、身を清めているところだった。
「レティシア? いるの?」
ベッドから聞こえた掠れてか細い声に思わず足を早めると、そこには今にも眠りに落ちてしまいそうな妹のミランダが薄目を開けていた。姉から見ても儚げで美しい妹は、今まさに女性が命を掛けて挑む出産を終えたばかりだった。汗で張り付いた金色の前髪を掻き分けてその頭を撫でると、安心したのか静かに眠りについてしまう。冷えないように出ていた手を毛布の中にしまい、もう一度乱れた髪を整えてやる。その寝顔はとても子供一人産んだとは思えないくらい、あどけない表情をしていた。でもその横で激しい赤子の泣き声が現実だと告げている。レティシアは恐る恐る産婆の抱く赤子に目をやった。肌はふやけ、部屋の灯りのせいか赤く見えている。手足は作り物のように脆く小さく見え、触れたら壊れてしまいそうだった。
「可愛らしいお嬢様でいらっしゃいますよ。抱かれますか?」
朗らかにそう言いながら赤子を差し出そうとした産婆の手から、カトリーヌが赤子を奪い取る。そして代わりに掌一杯になる程の巾着を乗せた。それは中身を見ずともずっしりとしていて重みがあるものだった。産婆は慌ててその巾着をカトリーヌに返そうとしたが、カトリーヌは背を向けて冷たく言い放った。
「この事は他言無用です。今この場でお忘れなさい。もし広まるような事があればあなたが漏らしたと判断し、それ相応の罰を与えますからそのつもりでいるように」
産婆はずっしりとした巾着を握り締めたまま、深く頭を下げながら部屋を出ていく。そして廊下を走る音が遠退いていった。
「カトリーヌ、今のはどういう事なの? あの者がいたからミランダは無事に出産出来たのよ!」
「旦那様のご命令です。どうかレティシア様もご理解下さいませ」
そうして赤子を抱いたまま部屋を出ていこうとするカトリーヌを慌てて止めた。
「待って、どこに行くつもり?」
カトリーヌは濃い灰色の瞳でじっと見下ろしてきた。カトリーヌはレティシアとミランダの教育係でもあったので、こうして真っ直ぐに見下されれば問答無用で咎められている気持ちになってしまう。それでも扉の前から動きはしなかった。
「レティシア様、そこをおどき下さい」
背の高いカトリーヌから発せられる強い口調に怯みそうになりながらも、じっと見返す。
ーー今引いてはいけない。
心にあったのはそれだけだった。しばらく見合った後、カトリーヌは小さく溜め息を吐いた。
「……少しの間だけですよ。こちらへ」
眠るミランダの側には小さなベビーベッドが置いてある。カトリーヌはそのベッドに赤子をゆっくりと寝かせた。
「この子をどうするの?」
「旦那様は養子に出すと仰っております。情が移る前に引き離すのが最善なのです」
「どうして?! お父様はここに来てもいないじゃない!」
声を荒げると、すっと細められた目に俯いてしまう。
「お父様はこの子を手放しても平気なの? ミランダが産んだ子なのよ」
「庶民ならあるいは許されたかもしれません。それでも未婚で出産というのは、謂れのない誹謗中傷があるものです。それこそ、生きていく為に身を売る仕事をしている者も多くおります」
「……身を、売る?」
「未婚で子を産めばそういう目で見られるという事です。小さな子がいればいわゆる普通の仕事は難しいですから」
レティシアは、泣くか泣かないかを繰り返している赤子を見下ろしながら、恐怖を感じていた。
「それならミランダはどうなるの?」
「勘当されないだけでも旦那様に感謝するべきでしょうね。未婚で出産をするような娘がいるとなれば間違いなくこの家の評判は落ちますから」
「誹謗中傷を受けると?」
カトリーヌは淡々と、それでいて憐れむ様に続けた。
「旦那様のお仕事にも影響があるでしょうし、なによりレティシア様のご結婚も危うくなってしまうかもしれません」
レティシアは手を置いていたベッドの木枠を思い切り揺らしてしまった。その瞬間、再び赤子は耳を塞ぎたくなるような泣き声を上げた。
「なぜ、なぜ私の結婚が駄目になってしまうの?」
泣きたいのはこちらの方だった。頭には婚約者の姿が浮かんでいる。貴族同士の結婚といえば気持ちは二の次で政略結婚がほとんどの中、ユリウスと婚約できたのは奇跡だった。
ユリウス・ド・フランドル。侯爵家子息で、父親のフランドル侯爵は若くして宰相の任に就いた優秀なお方だった。ユリウス自身も、性格、容姿共に完璧で、学園を卒業した後はすぐに王太子の側近を務めていた。そんなユリウスとの婚約は、伯爵家のレティシア・サンチェスにとって人生の幸運を全て使い果たしたような幸せだった。とはいっても、誰から見ても完璧な男性に嫁ぎたくてユリウスを選んだ訳ではない。ユリウスに出会い恋に落ちたのは、本当に偶然だった。
泣き声でハッとして現実に引戻されると、カトリーヌは疲れているのか椅子に座りながら続けた。それもそのはず、領地にあるこの屋敷にミランダと共に来たのは四ヶ月前。ミランダの体調が落ち着き、なおかつお腹の大きさが目立ちにくいギリギリの時期を見計らって、出産の為にごく少数の使用人だけを連れてきたのだった。カトリーヌはミランダの体調を気づかながら少ない使用人達と共に、屋敷の内の事を完璧にこなしてくれていた。
「わざわざ侯爵家の子息が醜聞のある家と婚姻関係を結びたいと思思いますか? それでなくともお相手はあのユリウス様なのです。婚約が解消されても、お相手などすぐに見つかります」
「……直接ユリウスに話してみるわ。きっとユリウスなら分かってくれるもの」
「えぇそうでしょうとも。ユリウス様はレティシア様にそれはもうべた惚れですからね。でもお忘れなく。あなたはまだ学園を卒業したばかりの成人していないご令嬢で、ユリウス様もフランドル家の当主ではないのです。あくまで結婚は両家の当主が決めるもの。フランドル侯爵が首を横に振ればそれで全てが終わりなのですよ」
「叔父様も私の事をよく思ってくださっているもの。きっと大丈夫よ」
そういう自分の声が震えているのが分かる。心では大丈夫、そう思っていても得体の知れない恐怖が遠くから忍び寄っているような気がした。
「いいですか、レティシア様。こういう事は感情の問題ではないのです。フランドル家にとって不利益な相手だと思われれば、フランドル侯爵はきっと息をするようにレティシア様との婚約を解消なさるでしょう。旦那様はそれを大変危惧していらっしゃいます」
「お父様は私がフランドル家から婚約者にと申し出があった時、とても喜んでいたものね」
「フランドル家は代々王家に近い仕事に就くだけでなく、何人も宰相の任についておられます。ユリウス様もアラン王太子とは旧知の中で、すでにご政務に関わっているとか。そのような良い縁談が立ち消えてしまうのは、サンチェス家の存亡の為にも阻止しなくてはならないのです」
「それじゃあミランダはどうなるの? お父様はなんて?」
カトリーヌは頭を押さえながら目頭を揉んだ。そして、ゆっくりと寝息を立てているミランダを見つめた。
「ミランダ様は体調不良の為に領地で療養中という事にしているのです。その後の事は旦那様から指示があるまで分かりません」
「ユリウスに手紙を書いてもいいかしら」
「当たり障りない事でしたら問題ありませんよ」
「ありがとう。もう休んだらどう? 私が見ているから大丈夫よ」
「そうですね。それでは少しだけそこのソファに横にならせて頂きます」
「駄目よ! ちゃんとベッドに寝なくちゃ」
「大丈夫ですよ。昔寝てしまったあなた達を寝かせながら動く事も出来ずに朝までソファで眠った、なんて事が数え切れない位ありますからね。それに赤子には数時間毎に乳を飲ませなくてはならないのです。そのやり方をミランダ様に教えて差し上げなくてはいけませんから」
レティシアはカトリーヌの為に棚から毛布を二枚を持ってくると、一枚をソファに広げた。
「こうすれば少しは寝やすくなるわ」
カトリーヌはレティシアに微笑むと、そのまま横になった。
この家に母親は存在しない。母はミランダを産んでから体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。レティシアには母の記憶がうっすらとだけあるが、赤子だったミランダには何も残ってはいない。だから二人にとって、カトリーヌは教育係であると同時に、母のような存在でもあったのだ。
静かになった部屋の中で、ぼんやりと眠るミランダを見つめていると、不意に袖を引かれた。とっさに見ると、ミランダの手が毛布の中から出ており、レティシアの袖を引いていた。
「起きていたの?」
するとミランダは目を閉じたまま頷いた。
「カトリーヌは寝ている?」
聞かれてとっさにソファの方を見たが、背もたれでその様子は見えない。でもあれほど疲労しているカトリーヌは初めて見たので、寝ていない方がおかしいと思った。
「多分寝ているわ。それよりも眠らなくていいの?」
「疲れているけれど眠れないの」
そういうミランダは自分の腕で目を覆った。
「……赤ちゃん、可愛い?」
「正直分からないわ。だってふにゃふにゃなんだもの」
「そこはお世辞でも可愛いって言うのよ」
するとどちらかとなく小さく笑い合う。そして力なく息が吐き出された。
「カトリーヌは赤ちゃんを連れていかなかったのね」
「ッ、知っていたの?」
「そうじゃないかと思っていただけよ。でも時間の問題ね」
言葉が出てこなくてレティシアはミランダを見つめた。
「そんな顔しないで」
「見ているの?」
ミランダの顔にかかった腕は避けられていない。すると小さく笑い声が洩れた。
「見なくても分かるわ。あぁ、ツイてないわね。子供が出来ちゃうなんて。この先の人生真っ暗よ。早く連れて行ってくれないかしら」
「ちょっと! 子供が聞いているわよ」
「レティシアったら。まだ何も分からないわよ」
少し馬鹿にした言い方にムッとすると、ミランダはようやく顔を隠していた腕を外した。
「だってこの先、未婚でどうやってこの子を育てていくの? もう夜会や舞踏会にも出られないし、恋も出来ないわ。一生あの子に囚われていくのよ」
「それじゃあミランダはどうして、どうして、子供が出来るような事を……」
言葉の続きが繋げられない。気がつくと、自分の拳が震えているのが分かった。
「どうして子供が出来るような行為をしたかって? レティシアはまだ子供なのね。あれって別に子供を作るだけの行為じゃないわ。今回はたまたま運が悪かっただけよ」
そう言って手は離され、背を向けられてしまった。それでも肩が冷えないように毛布を引き上げると、拒絶するように腕で払われてしまった。
そこから少しだけ出来てしまったミランダとの心の溝に、レティシアの足は最奥の部屋から遠退いてしまった。
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