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5 峠
迂回する為に通った道は危険な道だった。
舗装されておらず、半日以上ガタガタと上下に揺れる馬車に揺られていると、やがてずっと身体が上下に揺れているような感覚に陥っていた。
「大丈夫ですか? お嬢様」
そういうアンナの方が酷い。酔っているのか時折、せり上がるものを堪えるように妙な顔をしている。向かいに座るメイドがギョッとした顔で身を引いていた。レティシアは堪らず小窓を叩いて御者を呼んだ。
「少し休憩よ。どこかに休める所はない?」
「もう少しで山を超えられるので我慢して頂けませんか?」
御者の声色は気のせいか少し緊張を孕んでいる。それでもレティシアはアンナの為にもう一度窓越しに言った。
「少しでいいわ。外の空気を吸ったらすぐに出発するから」
すると馬車の速さが次第に落ちていき、程なくして止まった。近くには小川が流れており、鳥達が飛び交う静かな場所は休憩には最適な場所で、何故御者は休憩するのを躊躇ったのか分からないままアンナを大きな石に座らせた。
「少しはマシになった?」
「ご迷惑をお掛けしてしまいすみません。少し楽になりました」
元気だけが取り柄のようなアンナも今だけはおとなしくしている。アンナの赤毛の髪が陽の光に照らされてより赤くなっている。そして青白かった頬に赤みがさし始めた頃、周囲を警戒していた兵士が大声を上げた。
「早く馬車へ!」
何が起きたのか分からないままレティシアは急いでアンナに手を貸すと、急いで馬車まで走った。御者は慌ただしく鞭を振るうと、すぐ近くで明らかに違う馬の足音が耳に届いた。
「何があったの?」
窓から兵士に声を掛けると、兵士は周辺に視線を走らせながら言った。
「襲撃です! 野盗かもしれません」
「野盗!?」
「狙われたと思います」
馬車が左右に激しく揺れる。必死に中の椅子や縁に掴まりながら舌を噛まないように気を付けるしかない。
馬の足音がどんどん近付いてきた来たかと思ったその瞬間、馬車が大きく横にぶつかった。カーテンが揺れ、窓の外が視界に入る。岩壁が窓のすぐ側にあり、硝子にはヒビが入っていた。
「お嬢様大丈夫ですか?」
青い顔をしながらもアンナが顔を上げる。しかし馬車は脇を岩肌に擦りながら走り続けている。男達の歓声が上がった瞬間、全身から一気に血の気が引いた。
「今の声は……」
馬車はとうとう止まり、周りに馬の足音と男達の荒々しい声が聞こえる。そして御者の短い悲鳴が上がって途絶えた。すぐに扉がガタガタと揺れ、扉は無理やり開かれた。
現れたのは身なりの汚れた男達だった。馬車の中を見る目つきは瞬時に獲物を物色しているようで、髭の生えた口元でにっと笑った。メイドは押さえつけられている兵士の姿を隙間から見た瞬間、悲鳴を上げた。その声に身を捩った兵士の腹に拳が叩き込まれる。そして全員馬車の外へと出されてしまった。
御者台を見ると、御者は座ったままぴくりともしない。荒々しく馬車の中から荷物が投げ出され、無造作に開けられていく。そこにはレティシアのワンピースや寝間着もあった。
野盗の男達は五人。でも他にも仲間がいるかもしれない。野盗達はこういった人気のない場所に小さな集落を作り暮らしている事もあるのだと聞いた事があった。
「あなた達の目的は何なの? 物や食料はあげるから馬車だけは取らないで頂戴」
すると五人の中でも一際存在感のある男が横目でじろりとレティシアを見た。手にはレティシアが家の中からかき集めたお土産が入っている。本当は王都で新しい物を買いたかったが、それどころではなくなってしまったので、自分やミランダのお古を集めたのだ。人形や小さなドレス。それにレースのリボンで作られた髪飾り。男はそれらをじっくり見てから一言呟いた。
「子供がいるのか」
小さな人形を握りしめた男は全員に声を掛けた。
「撤収だ! 金目の物と食料だけ貰って引け!」
「待って! その袋は返して!」
すると金色の瞳がまっすぐにレティシアを捉えた。
「言われなくてもこんな物はいらん」
投げるように返されたその袋を宝物のように抱き締めると、男は不機嫌そうに舌打ちをした。
「頭! 馬も貰っていきましょうよ」
「駄目だ! さっき俺が言った物以外には触るんじゃねぇ!」
ぶっきらぼうにそう言うと、男達は嵐のように去っていってしまった。
「助かったこ? 嘘みたい。助かったのよね?」
そう言いながらアンナと顔を見合わせる。汗が流れる喉元を拭いながらすぐに御者の元に向かった。
御者は頭から血を流していた。
「ッう、逃げ……」
「もう大丈夫よ、もう大丈夫だから」
御者は薄目を開けてレティシアを見ると、再び意識を失ったようにぐったりとしてしまった。
「取り敢えず近くの民家まで行きましょう。馬車は俺に任せて下さい。さああなた達は中へ!」
兵士は気を失った御者を抱えて馬を走らせようとする。レティシアは兵士の腕を思い切り掴んでいた。
「中に入れて手当しないと駄目よ! あなた達も手伝って頂戴!」
「宜しいのですか?」
驚いている兵士に返事をしている暇はない。女三人でも御者台から気を失っている男性を下ろすのは一苦労だった。
「あなたも手伝ってくれると嬉しいのだけれど?」
キツめに言うと兵士は弾かれたように立ち上がり、レティシアに変わってその腕を掴んだ。
馬車の中にゆっくりと下ろす。兵士にはすぐに馬車を走らせるように指示をし、すぐに手元にあった布を渡した。
「アンナ、手当てをお願い出来る? これで……」
レティシアは自分の寝間着を男性の身体に巻く事に葛藤してから、全てを振り払うようにアンナに寝間着を押し付けた。
「その生地なら破りやすいし傷にも優しいはずよ」
アンナは頷くと青い顔をしながら寝間着を割いてゆっくりと血の出ている頭に巻いていく。その間、馬車の揺れで身体が動かないようにメイドと二人で御者の身体を支え続けた。
「これで少しは止血出来ているといいのですが……」
アンナが震える手を頭から離す。そして緊張の糸が切れたように椅子に腰掛けた。
御者の手当てが取り敢えず済んで少しだけ気持ちに余裕が出来た時、ふと見た御者の顔に目が留まった。血の気がなく青白い顔の御者は、よく見るとまだ若い青年だった。今回父親の手配したアンナ以外の使用人達は皆知らない顔だった。名前も知らずよく顔も見ないまま馬車へと乗り込み、移動中も考え事が頭の中を占めていたせいで、誰の事も見ようとはしなかった。御者を見るメイドの顔には心配が色濃く浮かんでいた。
「もしかしてあなた達は親しい仲なの?」
するとメイドは驚いたように顔を上げた。その顔もまだ若く、同じ年の頃のように見えた。
「兄弟なんです。向こうにいるのが兄でロジェ。この子が弟のロイ。私はフランと言います」
驚いてアンナと顔を見合わせると、フランは申し訳なさそうに俯いた。
「申し訳ございません! お嬢様のお召し物を弟の手当てに使って下さっただけではなく、お衣装までそのように汚してしまいました!」
気がつくとドレスには所々血が付いている。そんな事は今の今まで気が付かなかっただけに、レティシアは大きく首を振った。
「私の方こそロイの言う事を聞かずにごめんなさい。無理に押し通してしまったからこんな事になったのよね」
「それなら私のせいです! 私が体調不良を我慢していれば……」
その時、馬車の揺れがすっと穏やかになった。
割れた小窓の向こうからロジェが覗き込んできた。
「この先に小さいですが町があります。そこに立ち寄りますが宜しいですか?」
「出来るだけ早くお願い。あ、揺らさないようにね」
ロイの頬に手を置いて頭が動かないように固定するレティシアを小窓から見たロジェは、何故か驚いた顔をしたまま、なだらかになった道を急いだ。
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