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ジジイの散歩に付き合うのは朝の日課。いつも歩いてる道じゃないあっちこっちの裏道を歩いてみる。
「あれは…ボンヤリ草だな。ボンヤリ眺めてるのが良い」
ヤブランを眺めてそんなことを言う。
「……んなもん、全部だろ。」
「善にはセンスがない」
「…言ってろ」
老人が1人で散歩してると徘徊と間違われる。だから、ジジイの横に並んで歩くことにしている。自生している草花を見つけては好き勝手に名前をつけて機嫌よく歩いているジジイを横に俺はいつ鳴るかもわからない電話を気にしている。俺は365日24時間受付の良心的な探偵。
「善よ。」
「あ?」
「ミカエルは、今、お家で子育て真っ最中だそうだ。」
ミカエルは猫で我が家の納戸で出産してから牧子さんの家から脱走する事がなくなった。母性本能なのか子供のそばから離れないようだ。
牧子さんは、ジジイとお茶をするたびにその話をする。孫でもできたように愛猫の話をするのだ。
「最近、牧子さんは以前に増して優しくなった。」
「そ」
「興味ないだろ」
「……あるよ。」
ジジイが俺を見てふって笑うから、なんかバカにされた気分になる。
「善よ。」
「あ?」
「たまには身綺麗にしろ」
起き抜けでしたことは顔を洗って歯を磨いたぐらい。髭も髪も整えていない。白いロゴTに黒いワイドパンツ。足元は裸足にスポサン。
「………考えとくわ」
浮気調査は終盤を迎えた。これ以上ない証拠を得たからだ。浮気現場を押さえるのは、まあまあ慣れている。斎藤忠45歳は、榎本由香里52歳と度々ホテルで密会している。依頼主の斎藤萌奈美には、忠の浮気相手が、榎本由香里であるとは言いづらい。萌奈美の実の母親だからだ。ま、仕事だから言うしかないんだけど。
「はあ…」
ため息しか出てこない。車の中でいちゃついてる現場を押さえた。写真も動画も撮れた。ただ萌奈美はどんな顔をするだろう。なんていうか、弱い人間に見えた。こんなの見たら自傷行為に走るかもしれない。…いつもは、しれっとメールして終わりなんだけど。
警官で交通課の頃、俺は冷徹非道と言われるほど、違反者には容赦なかった。心がないって言われるほど違反切符を切りまくっていた。ま、それが仕事だったんだけど。
「おい、澤木。呼び出しといてお前ため息しか俺に聞かせないつもりか?こっちは貴重な休みなんだよ。撮り溜めたドラマ見るのやめてお前の話聞きにきてんだけど。」
野尻を呼び出して、ずっと来てみたかった静かな喫茶店に来た。一流のバリスタの元で修業したって言うマスターの店だ。サイフォン式だし、自家焙煎だし、豆も手で挽いてるし。何より空間が大人っぽい。
「……サイフォン式のコーヒーを楽しめよ」
「美味いよ。コーヒーは。」
「だよな」
「じゃねーよ、澤木。なんの話か聞いてんだ。」
野尻が明らかにイライラしている。
「野尻、俺が浮気調査頼まれた時、いつもどんな気持ちになるか想像できる?」
「え?毎度ありって感じか?」
野尻の他人事な表情にため息が出る。
「だから、ため息よ。やめろよな」
そう言って野尻もため息。
「……おっさんとババアの関係を浮き彫りにして家庭を崩壊させるか、美人とおっさんの仲を取りもつために明るみにしないのか…2つの選択肢で悩んでる」
「…お前が?」
斎藤萌奈美にはあれから会っていない。多分、会ってもなんて話して良いかわからなくなるから。メールを送る期限は迫っている。
「え?澤木、悩んでるとか。マジか。はは。」
「笑うな。気持ち悪い。」
「悩んでるお前がキモいわ。」
「野尻は良いよな。なんつーか無神経そうだから。依頼主、泣かせちゃって俺。」
「警官の頃、飲酒運転のヤツも相当泣かせてただろ?」
「それとこれとは全く別だろよ。」
忠と榎本由香里は、萌奈美と忠が出会う前から付き合っていた。由香里は離婚弁護士として信頼が厚い。慰謝料の請求に長けているし、調停では鬼のごとく相手を斬るという。
「せめて、良い弁護士紹介してあげたい。絶対勝てるっていう。」
「入れ込んでるな。惚れたか?」
「いや…そうじゃなくて。」
「なんだよ」
浮気調査の結末が毎回悲惨だ。成功報酬は得られるけど、虚しさしか残らない。
「知らない方がいいことの方が、この世界に溢れてるよな。」
「は?くだんねーわ。結末がわかっていながら、お前に頼んだってことは、それで良いってことだろ?気にすんな。結果は結果でお前の悩むことじゃねーよ。当事者が全部考える。それだけだろ。」
「そか。」
「ん。」
「んー…。」
「結果、教えてやれ。ドラマだって映画だって結末わかんねーともやっとすんだろ。白黒つけたいから黒の確定もらいたんだろ?さっさと確定しろよ。後は本人が決めることだろ。」
野尻の言うことは10のうち7くらい理解できる。斎藤萌奈美をまた泣かせても、俺は平気だろうか。
「ところで、猫見つかった?」
「あー…俺ん家にいた。」
「…そんなもんだよな。大事なものはすぐそばにあるっつーか。」
「ふふ。野尻いいこと言おうとしてるわけ?ダサ。」
コーヒーは、温度が変わると味わいが変わった。メニューに目をやるとたまごサンドの文字が目に入った。
「野尻…たまごサンド食べていい?なんか腹減った。」
「んじゃ俺カツサンド。」
大事なもの…すぐそばに…。
「そういやお前。」
「ん?」
「今日は、小綺麗にしてるな。」
「…そう?」
「警官だった頃と同じ感じ」
「…あんま、嬉しくねーわ」
せめて無精髭は剃ったし、寝癖も整えた。ちゃんとした喫茶店に来たから。
斎藤萌奈美にメールを送った。全部、ありのままに洗いざらい。調査内容を報告した。俺にはもうできることはない。
振込先もメールしたから報酬はそこに振り込んでくれるだろう。通り雨みたいだなっていつも思うんだ。これで終われば全部終わりだ。
電話が震えた。斎藤萌奈美の番号だ。
「はい。澤木です。」
『斎藤です。これから伺ってもよろしいですか』
時計は午後7時で。斎藤忠は恐らく今夜もまだ家に帰らない。
「…お待ちしてます。気をつけて。」
部屋を少し片付ける。消臭スプレーを撒いた。コーヒー豆を挽く。お湯を沸かす。…まるで彼女でも迎えるような。いや、そうじゃない。お客さんを迎えるっていう準備。そうお客さん。
インターホンが鳴って、玄関を開ける。
「こんばんは」
「あ、どうも。どうぞ。」
斎藤萌奈美は、依頼に来た時に比べたら、パンツスタイルで色が黒なのもあって大人っぽくて落ち着いて見えた。
「私、離婚することに決めました。」
「…残念な結果でしたね。」
「母とも縁を切ります。」
「…そう。」
俺が何も言わなくても斎藤萌奈美はソファーに座った。俺は少し気持ちを落ち着かせながらコーヒーをドリップする。
「いい香りですね。」
「部屋?」
「…コーヒー」
「…豆がニカラグアとゲイシャのブレンドで深煎りだけど、嫌な苦味はなくて、俺は好きな感じで…」
「コーヒー好きなんですか」
「好きになった…感じかな。」
「へえ。」
カップに注いだコーヒーを渡す。
「いただきます」
「どうぞ」
依頼に来た日は、飲まなかったコーヒー。斎藤萌奈美はゆっくりと口に含んだ。
「…おいしい」
「良かった」
少しだけ、人間と喋ってる感覚を取り戻す。
「現場を押さえるのって大変ですよね?」
「まあ、尾行したり数時間張り込んだり。」
「母とキスしてる忠さん、気持ち悪かったな。」
コーヒーを吹き出しそうになった。
「あんな顔、私に見せたことない。2人とも。」
「なんか、すいません。嫌なもの見せて。」
たぶん、泣くだろう。かける言葉が見つからない。斎藤萌奈美の顔が見れなくてカップの中のコーヒーに映る俺の顔を見ている。情けない顔だ。
「いえ、慰謝料取るために確固たる証拠が欲しかったので助かりました。」
「え?」
顔を上げると晴れやかな顔が目に飛び込んできた。これまでの依頼人は、浮気の証拠を掴んだ後、まず、泣き始めたり怒鳴り散らしたりしたものだったから。
「…悲しくないの?もなちゃん。」
「悲しいという感情は家で片付けてきました。メールのギガファイルから画像と動画をダウンロードして1発目、キスシーンだったので、しかも母と。泣いて怒りましたけど。これでしっかりと慰謝料が取れると思うと、澤木さんには感謝しかありません。」
俺の方が拍子抜けで。なんて言っていいかわからない。
「素晴らしい腕前ですね。」
俺のカップを持っている左手を、萌奈美の両手で包み込まれてドキッと胸が鳴る。
「あ…の。」
女に手を握られたのは、いつぶりだろう。大学時代の彼女以来…。顔が熱くなってくる。
斎藤萌奈美は封筒を鞄から出して俺の前に滑らせた。
「報酬です。」
渡された封筒の中を見ると15万円入っていた。
「…多いです」
「ここの事務所には明確な料金設定がなかったため、他の探偵事務所を参考に算出しました。決して多くありません。」
この自信のある物言いには圧倒される。
「ありがとうございました。澤木さん。私が、ざっと計算したところ、この離婚で慰謝料700万円を斎藤に、300万円を母に請求できます。」
封筒を見ると下の段に、ハート弁護士事務所と書いてある。ちゃんと弁護士見つけ…ん?計算?
「私、弁護士なんです。申し遅れましたが。」
「え。」
右襟を見ると弁護士バッチが付いている。
「マジだ。」
どうしよう。こんなこと今までで初めてで動揺する。なんていうか、今まで生きてきたうちで1番おもしろい。
「ふふふ。もなちゃんなら離婚しても図太く生きられるね。心配して損した。いろいろがんばれよ。」
きっと、もう会うことはない。やっぱり通り雨だ。依頼主というのは、そういうもんだ。
「澤木さん。私たち手を組みませんか?」
「え?」
手を組む?一体何を言ってるんだ?
「私も個人事務所で。探偵さんに頼むって今までなかったんですが…。澤木さん、きちんとしてるから。これからも助けて欲しいんです。あ、お金はまけなくていいです」
斎藤萌奈美は、この後、正式に離婚した。
俺は、この時の萌奈美の提案に答えは出していなかったけど
「なんだよ、またかよ!」
「いいじゃない?暇でしょ?」
萌奈美は、自分の依頼人の案件で調べきれないものが出てくると俺のところに来る様になった。
「まあ、聞くだけ聞くけど…。」
「結婚詐欺」
「それ。俺じゃなくて警察…」
「事件扱いするには証拠が足りないって、生活安全課の野尻さんが」
「野尻、ケチくせえな…」
「ね?澤木さんしかいないのー。」
「めんどくせえなあ」
ほぼ毎日やってくるのだから、もうすっかり手を組んでるようなものだ。毎回、難解な案件を押し付けられて頭を抱えている。
ジジイと牧子さんは、こんな俺たちを勘違いしているらしく、萌奈美が来るたびに中学生の保護者みたいな態度をとるようになった。こっちに向ける空気感がそわそわしていて気持ちが悪い。
「澤木さんて、なんで探偵になったの?」
萌奈美と喫茶店に来た。結婚詐欺の裁判が終わったからだ。俺が掴んだ証拠が勝訴を掴んだのだ。なんでも好きなもの奢るなんて一丁前のことを言われて。
「え…なりゆき。もなちゃんは?なんで弁護士?」
「母の影響。単純。今は1番の敵。」
「…怖ぇ。」
そんな話をしながらコーヒーを飲む。
なんとなくパートナーっぽい空気を醸し出す。
「もなちゃんて、時々、弁護士っぽくないよな」
「それいうなら澤木さんこそ。」
ゆっくりした時間だ。
なんだか、俺たちに似合わない時間の流れ方。
だから喫茶店が好きでコーヒーが好きだ。
「お互い、らしからぬ人ってことで」
萌奈美の言葉にコーヒーに映る自分の顔が笑った。
「ふーん。…らしかぬ人…ね。」
[猫ときどき浮気調査・了]
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