②小さな世界

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

②小さな世界

白い月を見ながら歩く。夜8時ごろ。 アルバイト先の氷が必ずなくなる。氷を製造できる冷凍庫でありながら食事のピークの時間を過ぎると氷が間に合わなくなるのだ。 「ありがとう越智くん。」 親方の奥さんは女将さんとは呼ばれていなくて、美恵子さんて呼ばれて、女将さんは別にいる。 僕は配膳係をしていて時々こうして買い出しにも行く。 「お小遣いね」 「ありがとうございます。」 美恵子さんは僕を気に入っていてそうやってバイト代とは別にお小遣いをくれる。 小さな料理屋に決まったルールはなかった。 月に2回ほど、心療内科へ通院している。 だから、休みが取りやすいアルバイトは僕にとってありがたい。 「アルバイトは慣れてきましたか?」 医師にそう聞かれ 「はい」 と返事をすると、僕の資料を見ながら僕とのやりとりを振り返る。 「眠れてますか?」 「はい」 「レンドルミン、やめてみようか。」 「…あの、それは。」 レンドルミンは睡眠導入剤。 大事なものを失って眠れなくなって、それから頭がふわふわしてきて、世界が歪み始めた。 「嫌です。怖いです。眠れなくなったら、先生、助けてくれますか?また、僕は、僕は、」 息ができなくなって手が震える。指が痺れて冷や汗が止まらない。 「越智くん。」 「嫌です、嫌です!先生、僕を助けてください! 眠れないなんて嫌なんです!怖い!怖いんです!」 「越智くん!!」 流れ落ちる涙がどうしようもないところに僕を引き摺り込むようで震えが止まらない呼吸の仕方がわからない。 「眠れてるんでしょう?」 「だけど、それは薬があるから…。」 もう2年、薬を飲み続けている。 「これからは薬を減らすための治療になっていくから。実際、先月からパキシルは半分に減って、お昼のソラナックスをやめているけど、変わりなく日常を送れているでしょう?深呼吸をしてみて。」 ゆっくり息をする。 「自分の感情に流されないこと。ひとつ大きく息をすること。何度か越智くんに話したことよ。」 「…はい。」 僕にとって、レンドルミンは命綱。 「でも、先生、レンドルミンは無くさないで。」 「…もう少し今のままにしましょうか。」 診察室で取り乱した自分を振り返ると、情けなくなる。鎮静剤を打たれなかっただけ、まだマシなんだろうか。 会計が終わるまで総合受付にいる。 「越智くん。」 見上げると川内さんがいる。 涙が出そうで堪える。 「大丈夫だよ。君は。」 隣に川内さんが座った。 「川内さん、これからですか?」 「会計待ち。」 「同じですね。」 「今日はアルバイト?」 「今日は休みました。疲れてしまう気がしたので」 「うん。懸命だね。」 「川内さんは?」 「今日はお休みだよ。」 「そうなんですね。」 縋りたい気持ちを抑える。縋ろうなんて都合が良すぎる。僕が川内さんのお気に入りかどうか保証がない。 「これあげるよ。」 ジャケットのポケットからチョコマシュマロ。僕が好きなお菓子を知っている。 「ありがとうございます。」 「うん。」 個包装の袋を開けて口に入れる。 「美味しい?」 「はい。」 「うちでご飯食べようか。」 「え。」 川内さんと僕は最近、体を交わらせていない。 行為のそれが空っぽだと僕自身が思っていることが川内さんに伝わってしまったのかもしれない。 「嫌?」 「……そんなことないです。食べたいです。ご飯。」 「まだかな、お会計。」 タバコを吸いたいのだろうな。時折、喫煙室を眺めている。喫煙室には他の人がたくさんいる。 手のあかぎれが少なくなってきている。 川内さんの強迫性障害は良くなってきているんだろう。 部屋にはいつも物がなかった。 必要最低限。その言葉がこの部屋に来るたびに思い浮かぶ。 手を洗ってうがいをして、おいでと言われるから川内さんのそばによると抱きしめられる。 「お腹、空いてる?」 「はい。」 「正直でかわいいね。俺も越智くんの様にありたいよ」 「…川内さんも正直だと思います。」 少し離れて頭を撫でられる。 「こうして、抵抗なく触れるのは、越智くんだけなんだ。疲れるよ。他の人には2メートルが限界だ。」 「…タバコ、吸っても良いですよ。」 喫煙所には行きたくても行けないんだ。 「吸わないよ。やめてるんだ。」 「喫煙を咎めるような独占欲の持ち主と出会ったんですか?」 「違うよ。」 頬に耳に触れられて僕はまた空っぽだと思う。 「何が食べたい?」 「おかかのおにぎりです」 「いいよ。ソファに座っていて。」 自分でも気がつかないくらいの小さな感情。 名前があるだろうか。 僕は、誰かのところに川内さんが行ってしまうかもしれないと不安になるのは、知らない誰かの物語の端っこの感情だと思っていた。もし現実に僕の中での出来事になってしまったら、このソファに座るのが僕以外の人間になってしまったら、そんなことを思うのはまるで誰かが僕にそのシナリオを押し付けているようなもの。 「越智くん、おいで」 呼ばれるままに、その声に惹き寄せられる。 僕がもし、川内さんを思うようになったら川内さんは嬉しいのだろうか。 「ごめん。おにぎり、苦手なんだ。作るの。」 そう言って笑って、食べようって僕を座らせた。 「あの」 「ん?」 「ありがとうございます。」 手を合わせて、いただきますを言っておにぎりを齧り塩気のある白米を口に入れる。初めてマシュマロをもらった時と同じ。唾液が出てきて体に入れるのを助ける。 生きている。と、確かに思える。 僕が齧った部分に鰹節が見えて、こうなる前は確かに生きていたんだろうとこのお魚の昔の姿を想像してみる。 「どうかした?」 川内さんが、じっとおにぎりを見る僕を不思議そうに見ているのがわかった。 久しぶりに人が作ったものを口にしたことを思い出す。他人のお母さんが握ったおにぎりが食べられないというのはよく聞く話。 「…これから先、僕は何を選んで何を捨てるんでしょうか。取捨選択という言葉があります。持ち物は必ず選ばないといけない。それは、物、人、仕事、未来、過去…全部なんだと思います。僕の人生はこれから先はおまけみたいなもので、失うのが当たり前のものを掴み、消えていくのを見送るようなそんな日々なんじゃないかなって思うんです。」 「儚いね。」 「儚い…。もともとは無いも同然。というか。」 「…俺も?」 胸の奥が割れる。小さな波紋。 何も言葉が浮かばない。じっと、川内さんを見る。 「越智くんはね。簡単なことを難しく考えてる。」 「いえ、単純です。ある。か、ない。か。」 「おにぎりは?」 「あります。」 「おいしい?」 「はい。」 「おかずも食べて。ほうれん草。それに卵焼き」 「上手ですね。」 「それは、越智くんの未来につながる物だよ。」 「え。」 「胃袋に入って終わりじゃない。半年後、細胞レベルで君になる。…今の越智くんの何かと入れ替わってるんだ。それが俺の提供した物ってこと。ふふ。なんか怖いね。」 卵焼きをひとつ箸でつまむ。 「美味しくても、不味くても、君を作るものに変わりはないから選べるならそれはステキなことだろ?」 口に入れてみると、涙が溢れてくる。 「生きるなんて、単純なんだ。本当はね。」 「川内さん。」 「ん?」 川内さんを失い失くす物だと思いたくない。 「僕は川内さんの世界に生きてみたいです。」 「…ステキだね。」 お茶を飲みながら笑って答えるから、少し腹が立って 「本当です。」強めに言った。 「いいよ。越智くんの選択なら。好きにして。越智くんなら俺は歓迎する。」 部屋を見ればその人が何を考えているかよくわかる。川内さんはいつでもこの世界からいなくなる準備をしていると、僕はうっすらわかっていた。 生きづらさは、共通認識。 川内さんの傷口はずっと深く、僕がその代わりになれるなんて思っては烏滸がましいほど。 心療内科の障害者手帳は、病院と薬局では、効力を発揮するけど、広すぎる世界ではなんの役にも立たない。 人の心の動きの流れを受け止めすぎてしまうのが僕たちで、打ちのめされてもその回復は、自分自身に折り合いをつけることでしかできない。 一見、明るく紳士的な川内さんが、外から帰ってきて何かを削ぎ落とすように何度も手を洗い、外から家に入れるものを全て一度洗う行為も自分自身を守るための儀式。 僕は、それを見て見ぬふりをしながら、苦しさの受け皿になっている。 「越智くん、ごめんね。」 ウイスキーを含んだ口で、僕の口を塞ぎながら僕にアルコールを注ぐのは、僕に何かを忘れさせるため。 「いいえ。」 「許してね。」 「はい。」 ピーナッツを割って口に運ぶ。僕が買ってきたとっても安い輸入物のピーナッツ。 ここは、ずっとずっと深い、底の底の小さな世界。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!