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◆父・出原 啓二の話 後編
両親に初めて赤ん坊の息子を会わせた時、母は悲しそうな顔をしました。当然です。結局は信じて送り出してくれた両親の信頼を、まんまと裏切った形になる訳ですから。
学生の本分からは明らかに逸脱した結果を持ち帰ってしまった私に、父は溜息。母は…。
それでも母は、息子を可愛がって、学校やら就職やらで忙しくなった私に代わり、よく面倒を見てくれていました。
拒絶もせず、私の為にと孫である息子を慈しんでくれていたと思います。
私は気づきませんでした。
多忙で、息子を母に任せ切りになってしまっていた裏で、母と息子の間に何が起きていたのかを。
母は息子の祥を、親戚達から隠すように育てました。
その頃には既に祖母も亡くなっていましたから、母がその気になればそれは容易な事でした。
けれど、私も父も弟も、就職で家を出ていた兄も、その件に関しては何も口を出せませんでした。
実際、全ての親戚達が、異国の血を引く祥に好意的に接してくれるとは思えなかったからです。中には幼い祥に心無い言葉を口にする人もいるだろうと思うと、もう少し祥の成長を待ってからでも良いのかもしれないと思ってしまって。
守っているつもりになっていました。でも、本当に祥を傷つけていたのは、滅多に会う事の無い親戚達なんかよりも、祥の直ぐ傍にいた人間だったんです。
『可哀想に。啓ちゃんが変な外人女に引っかかっちゃったから、さっちゃんの髪も目もそんな風になっちゃったのよね。周りの子達とは全然違うもの、仲間外れにされちゃうわよね。
本当に、可哀想に。』
聞こえてしまったのは偶然でした。たまたま早く帰れた日、祥の好きなケーキを買って帰ったんです。祥の部屋にそれを伝えに行きました。祥の部屋は1階の奥で、行った時ドアは少し開いていました。一応ノックすべきだよなと思いつつその隙間から中を覗くと、そこに母もいました。
母は学習机に向いて椅子に座る祥の髪を梳いてやっているようでした。
一緒に居たなら丁度良い、と驚かせない為にノックしようとした瞬間、聞こえたんです。あの言葉が。
可哀想という言葉に覆われた、悪意。
『さっちゃんを産みっぱなしで逃げるような女にそっくりだなんて、ひどい話…。
啓ちゃんに似たら良かったのに、本当に可哀想だわ。』
母の口調は優しく穏やかだ。けれど、その唇から垂れ流されていたのは明らかにドロドロとした毒でした。優しい虐待、という言葉が頭の中に浮かびました。
まさか母は、祥にずっとあんな言葉を…?
背筋が凍る思いでした。
部屋に入り、母を諌めました。祥に酷い事を言うのはやめて欲しいと。
しかし母はキョトンとした顔で言ったのです。
『私はさっちゃんを可愛がっているのよ?可愛いからこそ、不憫なの。
さっちゃんがこんなに可哀想で不憫なのは、お母さんの言う事を聞かずに勝手をした啓ちゃんの責任でしょう?』
私は言葉に詰まりました。
母には、何が悪いのかなんて本当に理解出来ないようだとわかったからです。
母は優しい人です。
愛情深い…深過ぎる人です。
本当に祥を孫として愛してくれているんだと思います。
けれど……。
私と母の言い争いの最中にも、祥は無表情のままでした。私は母を部屋から押し出して、祥の手を握って言いました。
『祥の髪も目も、祥を産んでくれたお母さんや向こうのお祖父ちゃんからの贈り物なんだよ。素敵な色なんだ。おばあちゃんの言う事
は気にしなくて良いんだよ。』
けれど祥は、私の手の中から自分の手をゆっくりと引き抜いて、言いました。
『大丈夫だよ、お父さん。』
祥は、4年生になってから急に視力が落ちました。学校の健康診断で視力検査に引っかかり、先日母に付き添われて眼科と眼鏡屋に行っています。
祥はその時作ってきた眼鏡を、机の端に置いてある眼鏡ケースから取り出しました。そしてそれをゆっくりと掛けてから私に向き直って、言いました。
『おばあちゃんを怒らないで。おばあちゃんは優しいよ。僕の事を心配して言ってくれてるんだ。』
息子の言葉に、私はもう何も言えなくなってしまいました。
私の言葉は遅過ぎたのです。
おそらく物心つく前から幾重にもかけられていたであろう呪い。
そんなものの解呪など、私には無理だったんです。
自分の果たすべき責任を母に投げっ放しにしていたツケが、まさか祥に来てしまうなんて。
結局それからも、私の言葉は祥の耳も心も素通りしていったようでした。母が病を得て亡くなってからも、彼の呪縛は解ける事は無く…。
そして身長も私の背を追い越した頃、祥の外見は立派な…何と言うか、本当に冴えないもっさりとした姿になっていました。
けれど、実際の姿を知っている私には、そんな風に自分の姿を覆い隠す祥に胸が痛みました。
誰よりも優れた容姿を持ちながら、自分は醜いと思い込んでいる祥が…母の使っていた言葉を使いたくは無いけれど、不憫で堪りませんでした。
しかし、そんな祥に少し変化があったんです。
就職して会社の近くに引越すという事になり、社会人になる事を契機に祥は外見を少し整える事にしたようでした。母の葬儀を機に交流を持つようになった、歳の近いいとこの誰かにアドバイスされたようでした。
祥は、我が子ながら目の覚めるような美青年に育っていて、その姿にはエリカというより、エリカの父…祥の祖父であるオーナーの姿に良く似ているように思いました。
祥の姿をスマホで撮って、家を出ていく後ろ姿を見送った夜、私は留学していたあの日々を思い返しました。
私と歩む人生を選ばなかったエリカ。彼女は子供を捨てて、後悔しなかったのでしょうか。
彼女の両親とはあれから何度か電話で話しましたが、彼女は家には戻ったものの、今度は違う男性と暮らすと再び出て行ってしまい、ロクに連絡も無いそうで。
もしかしたら祥の弟か妹が存在するのかも知れませんが、それはもう私には興味の無い事です。私の中でエリカは既に過去であり、祥を産んでくれた事に感謝こそあれ、思い出したからといって何の感慨もありません。彼女が私に残していった傷痕は、既にある人物によって癒され、綺麗さっぱり覆い消されてしまいました。
ずっと付き合っている人が居るんです。…結婚は出来ない相手なんですが、祥も独立した事だし、私も勇気を出して動く時なのかもと思っています。
実は先日、一緒に暮らさないかと言われたんですよ。ちょうど兄が長く赴任していた先から妻子をつれて帰ってくるというので、この際入れ替わりに実家に戻ってもらおうかと考えています。母ももう居ない事ですし、父は何れは長男である兄に此処に戻って欲しいと思っていたようですから、悪くないんじゃないかな。
結婚して近くに住んでる弟も、良いんじゃないのと言ってましたし。
息子が自分の人生を歩み出してくれた今、私も自由になって良いんだと思えてきました。
あ、私の相手、ですか?
いえ、不倫とかじゃないですよ。笑
馴れ初め?
そうですね…あー、はい、それくらいなら…。
7年前に高校の同窓会で再会して、昔から好きだったと告白されてからの付き合いです、と言ったら…察してくださいますか?笑
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