作家・雷斗と書生・晴幸

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 ハッ──と撃たれでもしたように、返事をするより先に立ち上がった晴幸は、部屋を飛び出し声の元に向かった。    長い廊下を小走りに急いで向かうも、声の主は相当に御冠な様子で、   「晴幸ッ──何をしている──」  更に苛立ちを被せた声が轟いた。   「はい──聞こえています。今、今そちらへ──」  可能な限り声を張り応えながら、ブレーキを掛けるように廊下を滑り、晴幸は件の部屋の前に到着した。   「先生、失礼いたします」  どんなお小言を言われるのかと動揺を深呼吸で整え、晴幸は襖を引いた。恐々視線を這わすと、立派な樫の机を挟んだ向こう側、美貌を激しく不快に歪め、グッ──と此方を睨む雷斗がいた。   「先生……あの、どうかなさい──」  不機嫌の原因を尋ねようと口を開いた晴幸を咳払いで遮った雷斗は、書き掛けの原稿用紙の上に、愛用の万年筆を転がした。   「漸く筆が乗って来たと言うのに──インクが切れたのだ」  厳しい口調なのだが、雷斗のそれはまるで駄々っ子のように聴こえ、晴幸の胸の内に、クス──ッと笑いが起きたのだが、そこをグッと堪え、   「でしたら、先日買って参りましたインクが棚にございます……」  口の端に乗せながら、棚の前まで歩いた晴幸が手を伸ばしインク瓶を掴むと、   「お前は何故、私が頼んだ物を買って来ないのだ?」  指摘され手にした小瓶に目を走らせた晴幸は、それに気付き『あっ──』と声を発てた。   「も……申し訳有りません。番号を見誤ったようにございます」  インク瓶のラベルに傷が有り、どうやら『1』と『7』を間違えて買って来てしまったようだ。    雷斗が愛用のインクは、『弥勒堂(みろくどう)』と言う個人商店の特別調合の黒インクで、漆黒に僅かばかり翠色を馴染ませた目に穏やかな黒インクで、書き味の滑らかなことでも群を抜く文筆家に広く名の知れた一級品だ。  一見些細な違いで、よくよく比べて見なければ違いなど判らない若干の濃淡の差であるが、雷斗にとっては実に大きな違いなのである。   「どれだけ私の書生をやっている? それともお前に頼んだ私が間違っていたか?」 「そ……そんな。直ぐに交換して参りますので、どうか、今暫くお待ちになって下さい」  次第に苛立ちが 雷斗の涼やかな眼差しを怒りで染め、今にも燃え上がるかの様だ。  常日頃は春風駘蕩として優雅に穏やかな 雷斗だからこそ、自分の起こした失態がどれだけ雷斗を怒らせ失望させてしまったのか、晴幸は泣けるものなら泣いてしまいたい心持ちだ。   「先生、どうか、どうか暫くお待ちを。直ぐに戻って参りますから──」  何とか口にすると誤って購入してしまったインクの小瓶を掴み、割烹着のポケットに落した。   「十分だ。十分で帰って来い」  背後から聞こえる苛立ち露わな雷斗の声に、   「無理です先生、片道七分は掛かります」  廊下へ顔を向けたまま、それは不可能だと晴幸は答えた。   「じゃあ二十分だ」  雷斗の声に承知を応え晴幸は廊下を走り出した。
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