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八重葎・桐ケ谷 悠聖
不穏な嗤いに訝しんだ晴幸が、己の指先の行方を追うと、何と自分の指が触れているのは悠聖の代表作『八重葎』の背表紙だった。電気でも走ったように手を引っ込めた晴幸を、満足顔で笑った悠聖は暫くケタケタと笑い声を発てた後、
「どれ──、もう遅い。家まで送ってやろう」
無遠慮に晴幸の肩を抱き寄せ、店外に促すと店の裏手に停めた車へ誘った。
「いえ、結構です。程なく歩けば……」
困惑に遠慮を乗せ告げた晴幸だが、悪意でもあるように雨足が強まり、傘があっても堪えるほどで、促される儘に乗車すると、悠聖の合図で車が走り出した。
居心地悪く、後部座席に沈んだ晴幸が進行方向を伺うと、角を曲がった車は路地へ首を突っ込んだ処で、どうやら晴幸が戻るべき屋敷からは遠去かるようで、
「あの──何処へ向かうのでしょうか?」
臆々とだが、語尾に多少不快を絡めて問い、晴幸の口調に悠聖が唸り、
「なに、取って喰おうではない、ま、付き合え。どうだ鰻でも食べに行かないか? 旨い店を知ってるぞ」
晴幸の都合などお構い無しと運転手に鰻屋の場所を伝えた。
「いえ、結構です。屋敷へ返して下さい。あの……早く戻らないとしかられます」
晴幸は座席の上でもじもじと尻を揺すった。
「どうも可笑しいな。書店で道草してた癖に──そんなに俺が嫌か?」
途端にご機嫌斜めと言った態度顕わに、悠聖は口調を荒げ晴幸を睨んだ。
「いえ……そんな。先生が待っていますから、どうか返して下さい」
困り果てた晴幸が事の次第を説明すると、
「お前、手ぶらで帰ったら𠮟られるだけだろう? 弥勒堂のそのインクなら俺も愛用だ、余分も家にある。どうだ、家へ来い。少しくらい良いだろう」
そんな成り行きで晴幸は断れぬまま、悠聖の屋敷を訪問することとなった。
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