第一章

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*   俺と桐生はメイドカフェを出てすぐに別れた。桐生は他に行くとこがあるとかで、いそいそと街へ繰り出した。どうせ、いつもの地下アイドルのライブだろう。  一回だけ連れて行かれた事があったけど、案外楽しかった。けど、桐生の変貌ぶりが凄まじかったから、もう二度と行かない。  あの変な踊りと、合いの手は初見じゃ、まずびびる。  その後は俺もはっちゃけて踊ったりしたけど、終わった後に踊りが違うとか、合いの手はそうじゃないとか、桐生のチェックがめんどくさかった。だからもう二度と行かない。  桐生だって、にわかファンは連れて行きたくないだろうし。そもそもファンでも何でもないしな。 「あ~あ」  憂鬱な気分で一息つく。  もし、警察にばれて、母ちゃんに知られたら、何を言われるのか見当がついた。 『元々バカだバカだとは思ってたけど、こんなにバカだと思わなかった!』  絶対そう罵倒されて、泣かれるだろう。その後、たこ殴りにされて、警察に突き出される。そんな絵が瞬時に浮かんだ。 「ああ、クソ……! ツイいてねぇなぁ!」  俺は髪を掻き毟って、荒々しく息を吐き出した。そして、ふと町を見回す。 この街は相変わらず騒がしい。  メイドの客引き、ティッシュ配りの兄ちゃんの、「どうぞ」コール。  車道の車の音。クラクション。信号機から発せられる鳩の鳴き声。いい感じのリズムを作り出す、電車の車輪。そして、人のざわめきが生み出す、がやがやとしたメロディ。  夕暮れの光がビルのガラスに反射して、淡い色を放っている。うるさいだけのはずの街は、どことなく感傷的だった。 「俺ってば詩人!」  にやりと頬を持ち上げた。  どうやら一時的な情緒が、俺の目を文芸部なみのものに変えているらしい。だが、文芸部はここまでだ。 「まあ。バレねぇだろ」  俺の立ち直りの速さは、ウサイン・ボルトよりも速いのだ。 「それにしても」  一人で呟いて、俺はズボンのポケットから財布を取り出した。財布の中には、十円、五円の小銭が十数枚入ってるだけだった。 「一万、使っちまったんだよなぁ……」  昨日おっさんに貰った直後に食べ歩きだの、カラオケだの、フットサルだのに六千円前後使ってしまって、今日のメイドカフェと、その前のカラオケとボーリングで、一万は全て吹き飛んだ。  俺ってば、心底貧乏。  もう、銀行の貯金ですら、哀しいかな。千円を切っている。 「俺の頼みの綱は、今月のバイト代と――」  俺はもう一度ポケットをまさぐった。薄いカードをむき出しのまま取り出す。 「この、Suikaだけだな」  Suikaの中には三千円程度の電子マネーが入っていた。 「あれ? でも、保釈金払えなくね?」  今更ながらの事実に気がついたが、バレなきゃ良いのだ。バレなきゃな! そもそもこんだけわんさか人がいるのに、捕まるわきゃねーよ。俺だって被害者だし。  うんっと大きく頷いて、Suikaを財布と纏めた。ポケットに一緒に入れようとした瞬間、視界からSuikaと財布は消え去った。 「は?」  俺は反射的に残像を追った。  その先に、中年の男が走り去って行くのを捉える。一生懸命に振る腕の先には、 「俺の財布!」  冗談じゃない! 俺の生命線! 「ちょっと待て! おい泥棒! 誰かそいつ捕まえてくれ!」  俺は声を張りながら駆け出した。 「なめんなよ! 腐っても元サッカー部だぜ!」  吠えた俺を振り返って、おっさんはいっそうスピードを上げた。俺も負けじとスピードを上げる。ざわめく人中を駆け抜けて、ぐんぐんとおっさんとの距離を縮めた。 「こちとら、小中高とサッカー部だったんだ。おっさんなんかに負けるかよ!」 (万年補欠だったけどな!)  へへっと笑いながら、俺はおっさんに手を伸ばす。おっさんが息を切らしながら振り返ろうとした瞬間、その肩を掴んだ。 「おい。おっさ――」  責め立てようとした直後、おっさんは俺の手を振り解いた。そして瞬時に視界から消える。 「は?」  うろたえた瞬間、脛に強烈な痛みが走った。 「イッテェ!」  こいつ、弁慶の泣きどころを蹴りやがったなぁあ! 「あっ! おい!」  脛を擦る間におっさんは再び駆け出した。 「イッ……。イッテェ!」  俺はぼやきながら、右足を引きずって走り出す。おっさんは、人ごみをするすると避けながら路地裏に入った。 「待て、このヤロー!」  俺は罵声を浴びせながら、後を追った。けど、路地裏に入ったときにはもうおっさんの姿はなかった。 「クッソー! どこ行きやがったぁ! あの、くそじじいっ!」  路地裏は真っ直ぐに続いてたけど、途中にいくつか横道がある。手前にひとつ。少し奥にもうひとつ。更に奥にひとつ。一番奥の横道は片側だけだ。  ぽっかりと穴が開いたような暗さでビルの間に隙間が開いている。ここにおっさんが逃げ込んだのなら、確実に背中を捉えられるはずだ。ってことは、手前か、少し奥の横道に入ったってことだ。  俺は手前の路地を覗きこんだ。右側はすぐに大通りに繋がっている。こっちに逃げ込まれたらもう分からねぇかも。左側に首を振った。少し薄暗い。路地を抜けるとまた路地裏に繋がってるみたいだ。 「やっぱ、右か?」  軽く舌打ちをしたときだった。奥の方で物音が聞こえた。  人の話し声のようだったけど、くぐもっててなんて言ったのかは聞き取れなかった。もしかして、あの引ったくりオヤジか?  「あっちか?」  俺は慎重に足を運んだ。ここで逃がしてたまるかっての。  少し奥の横道を覗いたが、店の裏口である狭い通りがあるだけで人の気配はなかった。ってことは、更に奥、突き当たりの横道だろう。  そろりと足を出そうとしたとき、 「ひっ!」  小さい悲鳴が聞こえた。驚いた男の声だ。あのオヤジ、なんかしたか? もしかしてまた引ったくりしたんじゃねぇだろうな。  俺はダッシュで路地を駆けた。五階建てのビルの間に二メートル弱の道が顔を出す。だけど、俺はそこでぴたっと足を止めてしまった。なんだかすごく、異様な感じがしたから……。  日が暮れかかり、突き当たりの路地裏には僅かしか光は届かない。すでに夜のような暗さの中で何かの息遣いが聞こえてきた。  荒く、苦しそうな肩で息をする音だ。 「誰かいるのか?」  自分でも驚くくらい低い声になった。何びびってんだ、俺は。 「誰かいるのか?」  今度は声を張った。 「ううっ……」 (呻き声?)  女の凍えるような、か細い声だった。あのオヤジ、女の子に変なことしてんじゃねぇだろうな?  妙な正義感に駆られ、俺は急いで暗い路地に入っていった。だけど、数歩行ったところで、ぎくりとした。足が自然に止まってしまう。  白くて細い脚が地面に横たわっている。散らばった赤いパンプスの先に青いスカートの裾が広がる。ワンピースのウエストには太めの茶色いベルト。その先は、積んである段ボール箱が邪魔して見えない。だけど、黒髪が茶色いベルトにかかっていた。  倒れてる。どうして? 自問した瞬間、俺の目は見過ごしていたものを捉えた。ベルトが赤く染まっている。ダンボールの影から血が染み出してきていた。それも、大量の。  心臓が止まった気がした。 「……助けて」  消え入りそうな声を聞いた瞬間、俺は駆け出していた。 「もちろんだ! 今、救急車を――」  突然、背中を叩かれて、声がたわんだ。驚いて振り返ると薄闇の中で何かが光った。――ナイフだ。 (え、嘘だろ。なんで?)  三十代か四十代か、細身の男が歯をむき出しにして、信じられないくらい脅えた目でナイフを振り翳している。ナイフについた血が勢い良く跳ねて、俺の頬にかかった。  嘘だろ、こいつ。俺を殺そうとしてる。  がくんと膝が沈んだ。腰を抜かして尻餅をつく。男はそのまま俺に覆いかぶさってきた。必死で男の腕を掴む。途端に背中に激痛が走った。 「うあっ!」  悲鳴を上げた拍子に腕の力が緩んだ。容赦なくナイフは俺の左胸を貫いた。
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