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契約書はサインをしたら自動的に消え去った。魔法みたいに、一瞬できらきらとした光りになって、天に召された。ちなみにサインは紙に指で名前をなぞるように書いたら、金色の文字になって浮き出てきた。
「俺もあんな風に逝くんかねぇ……」
俺は頬杖をつきながら一人、呟く。視線の先には、母ちゃんの姿があった。母ちゃんは薄暗い部屋で、俺の遺影を抱きしめて、膝を抱えてぼうっとしていた。
俺がすぐに昇天しなかったのは、母ちゃんの事が気になったからだ。
父ちゃんは多分、大丈夫だろう。
今日も仕事に行ったし、少しずつ俺の死を受け止めているように見える。
でも母ちゃんは、葬儀から一週間経ってもずっと呆けたままだった。
家事はするし、スーパーに買い物にも出かける。でも、それ以外はずっと、こうして俺の部屋で、俺の遺影を抱きしめてぼうっとしていた。
俺は窓をすり抜けて母ちゃんに近寄った。無駄だと思いつつも、母ちゃんに話しかけてみる。
「なあ、母ちゃん。元気出せよ」
もちろん、母ちゃんから返事はない。
それでも俺は続ける。
「ほらほら、覚えてる? 遠足でさ、俺めっちゃはしゃいで、足の骨折って帰ったことあったじゃんか。あん時母ちゃんめっちゃ怒ってさぁ、あん時みたいに怒って良いんだぜ? バカ息子! なに死んでんだ! って」
母ちゃんは、空ろな目をしたまま呆然と虚空を見つめていた。
「いやあ、良い息子とは言えなかったかもだけどさぁ……」
声音は、尻つぼみにしぼんでいった。俺は口をつぐんで、罪悪感でいっぱいの胸をかかえるように、母ちゃんと向き合って座った。
「死んで、ごめん」
路地裏で、彼女に気づかなければ良かった。そうすれば、こんなことにはならなかったのに……。
暗く、重苦しい空気を感じながら、俺はただ母ちゃんを見つめた。そのときだった。
チャイムが鳴って、母ちゃんは重い体を引きずるように立ち上がった。
俺の遺影をベッドの上に置いて、空ろな目のまま玄関へと向かった。俺もその後をついていく。
「はい」
母ちゃんは短く返事をしてドアを開けた。
俺は母ちゃんごしに玄関の外を覗く。母ちゃんの頭一つ分抜けたくらいの身長の男が、二人、玄関に立っていた。
母ちゃんは百六十センチくらいだから、百七十くらいか。
一人は目つきが悪くて、中肉中背のおっさんで、もう一人は三十代前半くらいの爽やかな糸目の兄ちゃんだった。
糸目の兄ちゃんは、優しそうな顔をさらに柔和にした。
「突然、申し訳ありません。松尾さんのお宅ですか?」
「はい」
頷いた母ちゃんに、今度はおっさんが質問した。
「松尾之騎くんは、息子さんで間違いないかね?」
「……はい」
母ちゃんは一瞬間を作って答えた。表情は見えないけど、悲しそうな声音だった。
おっさんもそれを感じたんだろうか。同情するように眉を八の字に曲げた。
「息子さんの事件は聞いてます。ご愁傷さまです」
「ありがとうございます」
お互いに頭を下げあって、顔を上げたおっさんの表情はまだ曇っていた。一緒に会釈していた兄ちゃんの表情も、どことなく暗い。
「それでね、お母さん。傷心のところ本当に申し訳ないんだけどね」
言っておっさんは、顎で兄ちゃんに何かを促した。
兄ちゃんはジャケットの内ポケットから、紙と黒い手帳を取り出した。その手帳を広げて翳すように母ちゃんに見せる。
「うげっ!」
俺は思わず悲鳴を上げて後ずさりした。
「我々は警察のもんです」
「警察?」
母ちゃんは怪訝な声を出した。
でもすぐに俺が殺された事件のことだと思ったんだろう。
「犯人が捕まったんですか?」
口調を荒げて刑事二人に詰め寄った。その声音には、必死さがにじみ出ていて、俺は少し複雑な気持ちになった。というのも、警察手帳を見た瞬間から、嫌な予感をひしひしと感じていたからだ。
「すみません」
兄ちゃんが謝って、おっさんが兄ちゃんから紙を受け取った。そしてそれを、遠慮がちに母ちゃんに見せた。
「あなたの息子さんね。詐欺事件に関わっていたようなんですわ。もしかしたら、そのトラブルに巻き込まれたんかも知れんね」
「……詐欺?」
「そう。どうやら詐欺の出し子やってたみたいなんですわ。初犯のようだけど、これも犯罪だからね。被疑者死亡で送検しないといけないんですわ。……大丈夫?」
へなへなとしゃがみ込んだ母ちゃんを心配して、おっさんは母ちゃんを覗き込んだ。俺は一歩、また一歩と母ちゃんから遠ざかった。
この場で、俺だけが知ってる。母ちゃんは、激怒する前、こうしてしゃがみ込むんだ。
「あの、バカ息子!」
大声で叫びながら勢い良く立ち上がった。
覗き込んでいたおっさんは驚いて仰け反り、同じように心配していた兄ちゃんもびっくりして糸目を大きく見開いた。
「ごめんなさい!」
俺は反射的に謝って、雷から隠れるように小さくなった。
「バカ息子……死んでからも、こんなバカやるなんて……」
母ちゃんの声はさっきと打って変わって、消え入りそうだった。頬を伝って涙が零れ落ちて、床にシミをつけた。それを合図にしたように、母ちゃんは玄関で泣き崩れた。
刑事の目も気にせずに、嗚咽まじりに泣き続けた。
俺はそこで初めて、自分がした罪を思い知った。
親より先に死んだだけでなく、死んでから母ちゃんに汚名を着せてしまったんだ。そう、気づいたときには、挽回の余地はもうなかった。
だって俺は、死んでるんだから。
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