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ふと絵筆を止め、ふぅとひとつため息を吐く。
ちらりとベッド脇を見やると、小さな時計の針は深夜の2時を指している。自分に戻る時間だ。
「……流石にもう寝るか。昼からでも大学に顔を出しておきたいし」
うぅ、と大きく伸びをする。神経を集中して細部を描きこむから、どうしても肩が凝りやすい。肩甲骨を意識しながらぐるぐると腕を回すと、少しだけ指先が暖かくなった気がした。
前髪だけは鬱陶しいので自分で切り揃えるが、面倒臭くて半年以上は美容院に行っていない。作業中は黒いリボンで束ねる後ろ髪も、ここ2週間ほど続く長雨せいかベタついて苛々する。
使い古した油臭い前掛けを脱いで、洗面所へと向かう。クレンジングクリームの世話にはならないが、せめて歯ぐらいは磨いておこう。キスをする相手がいるようなご面相でもないが、歯医者通いは面倒だ。
「おや……珍しいな?」
洗面所からの帰り、この時間にはとうに消灯しているはずの部屋から明かりが漏れていた。
「……どうかしたの? こんな時間まで起きているなんて」
特にノックもせず、ドアを開ける。その先にいたのは『親父』だ。
「うむ……」
親父は生返事をしたまま、自室の壁に下げられた一本の掛け軸をじっと見つめてる。
「それ……は?」
職業柄、我が家には掛け軸やら油絵やらが常に持ち込まれる。だから、それ自体は珍しくも何もない。それも、美術品オークションに掛けられれば高値が付くビッグネーム揃いだ。
しかし、そんな中にあっても『その作品』には他の軸とは一線を画す『何か』がある。独特のオーラが漂うというか。
「親父、それも『依頼品』かい?」
のっそりと掛け軸に近寄る。
「まぁな」
親父は私の方を見ようとせず、じっとその軸と対峙している。描かれているのは遊女が二人。浮世絵、それも肉筆画のようだ。
「ふー……ん。ま、どの道『日本画』は私のテリトリーじゃないから、どうでもいいけど」
そう、私は『油絵担当』で、親父は『日本画担当』。それは他ならぬ親父自身がそう線引きをしたのだ。
それぞれの担当で、精密な『贋作』を作る。それが我が家の家業なのだから。
「これ、誰の作やと思う」
不意に、親父が背中越しに尋ねてきた。
「ん?」
部屋に戻る足を止め、よくよく見直す。
繊細さもあるが、筆致の強さが目を引く。
「……誰だろ? 歌麿じゃないね。写楽でもない……何処となく北斎っぽいけど」
「正解やな」
低い声で親父がボソリと呟く。
「葛飾北斎なの?」
それにしては違和感もあるが……?
「いや『北斎』ではなく『北斎っぽい』が正解なんや。落款も晩年の北斎やけど、北斎ではない。けど偽物でもないんや」
禅問答のような答え。
「何それ」
疲労と眠いせいで、余計に腹が立つ。
「恐らくやけど」
もったいぶりながら、ゆっくりと皺だらけの浅黒い顔がこっちに向く。
「これは葛飾北斎の娘、葛飾応為の作や」
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