応為

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「あ? なんで北斎が応為に代筆をさせたのか、ってか」  夕飯の時、私は親父に尋ねてみた。  テーブルの上にあるのは大学からの帰りに買った、出来合いのポテサラと唐揚げ。それから豆腐の味噌汁にご飯。  食べるものに関して一切の美意識を持ち合わせていないのは、どうやら父娘共通らしい。 「腑に落ちないつーかさ。だって、北斎は何者にも代えられない唯一無二の天才だったわけじゃん。確かに応為も下手じゃぁないと思うよ。けど、北斎ほどじゃない」 「……天才というか唯一無二の『存在』だわな、北斎は」  無造作に唐揚げを口に放り込んで、親父が顔をしかめる。 「北斎の凄みは単に絵を描くための『手先が器用やった』だけやない。行動力とて常人離れしとるし」  伝聞によれば北斎は生涯に93回もの引っ越しをしているという。  江戸の都は昔から火事が多く、それが故に庶民は家財道具をあまり持たないミニマリストの生活が一般的だったらしい。どうせ火災で消失するからだ。  なので思い立ったらすぐに引っ越しが出来たのだろうだが、それにしてもその回数は異様だ。  また、全46図からなる富嶽三十六景の制作にあたっては富士山麓だけではなく、西は今の名古屋から、東は霞ヶ浦、北は諏訪湖まで出向いている。当たり前だが、徒歩の時代にだ。  それも行った時の風景をそのまま描くのではなく、赤富士図や黒富士図のように『その時期、運がよければ観察できる』タイミングに合わせている。  今のようにネット上に情報が溢れている時代ではない中、綿密な下調べとフットワーク、それに我慢強くその瞬間を待ち続ける忍耐力を兼ね備えていたと言えよう。  恐るべき行動力だ。 「更にそれだけやない。眼……つまり視覚認識能力が桁外れなんや」  大量の動画データがネットの回線を圧迫するのと同じで、人間の脳にとって視覚情報の処理は恐ろしく負担が掛かる。実際、眼球から入ってくる全情報のうち、脳が常時処理しているのはたったの1%と言われるのだ。  そのため人間は普段、物の形や色をざっくりとしか認識していない。しかしそれでは細密な絵を描く事は不可能だ。細密に認識出来るがないと。 「単に細かいところまで視覚認識が追いつくだけなら、『普通の有名絵師』でも出来る……しかし北斎はそれだけやないんや。富嶽三十六景の『神奈川沖浪裏』では高波の一瞬を描写しとるが、これは現代のハイスピードカメラで何とか撮影出来るレベルや。とても肉眼で認識出来るはずが無いんやが、北斎の眼はを完璧に捉えとる」  その眼力は、まさに『人間離れ』だ。 「そして、構図と色彩を決める天才的な美的感覚に加え、死ぬまで続いた飽くなき向上心……。北斎を越えられる画家は誰もおらんのや」
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