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理想の夫婦
コンコンッとアルミのボールの縁で卵を叩き、片手で器用に割る。ボールの中に落ちた卵黄の色はとても艶やかだ。続けて、2個、3個と割り、牛乳を適量、蜂蜜も適量、そしてトパーズのように鮮やかな色をした手作りオレンジピールを細かく刻んで大さじにたっぷり一杯入れると、菜箸でかき混ぜる。菜箸の先とボールの底が触れ合い、食材が歌っているように聞こえる。
綺麗に混じったことを目視すると.半分に切った食パンを4切れ投入し、満遍なく浸るように混ぜ込む。そして完全に味が染み込むまで放置している間にオニオンスープとサラダ作りを始める。
それらの工程が終わり、バターを塗って熱したフライパンの上に味の染み込んだ食パンを寝かせるタイミングでナオは起きてくる。
爽やかな甘い香りが部屋中を包み込む。
「おはよう」
タケルは、笑顔で朝の挨拶をする。
ナオも寝ぼけ眼で「おはよう」と返し、そのまま顔を洗いにいく。低血圧で朝に弱いナオは、起きてからもしばらくは夢遊状態が続く。
タケルは、苦笑を浮かべて洗面所に行くナオを見つめ、焼き上がったフレンチトーストを皿に乗せる。卵と牛乳の混ざったクリーム色の表面にこんがり焼け目が付き、その優しい色合いが食欲を唆る。オレンジピールがビーズのように輝いてアクセントを加える。
毎朝ながら会心の出来にタケルは、満足の鼻息を漏らし、出来上がった料理をテーブルに並べていく。
オニオンスープ、トマトとレタスとチーズのサラダ、小さなウインナー、そして毎朝の定番であるオレンジピール入りのフレンチトースト。
見事なまでのカフェ飯だ。
女子高生なら涙して喜ぶだろう。
自分の席に紅茶、ナオの席にコーヒーと牛乳を置いて席に着くと、導かれるように顔を洗い終えたナオも席に着く。
阿吽を超えるタイミングの良さに他者が見たら舌を巻くことだろう。
そして言うのだろう。
理想の夫婦だな、と。
「「いただきます」」
2人は、同時に手を合わせ、同時に言葉に出した。
しかし、口に運ぶのはナオが先だった。
フォークを用意してあるのにフレンチトーストを手づかみすると、そのまま口に運ぶ。
ナオ曰く、パンは手で食べる物らしい。
毎朝のことながらその豪快さが面白くて目を細める。
「今日はどお?」
タケルは、毎朝同じ質問をする。
「うーんっ」
ナオは、噛み切ったフレンチトーストを皿に戻し、口元を押さえながらゆっくりと咀嚼する。
「美味しいけどいつもより苦い」
ナオは、ごっくんと音を立てて飲み込むと顔を顰めて舌を出す。
我が家のフレンチトーストに使っているオレンジピールは、タケルの手作りだ。オレンジの皮を嫌になるくらいスジを取って、嫌になるくらい煮こぼす。丁寧な作業をしているが、砂糖水などで味付けしてないので、自然本来の清涼のある匂いと苦味が残っている。
タケルとナオは、結婚してから毎朝このオレンジピール入りのフレンチトーストを食べていた。
どちらかが風邪とかで具合が悪くならない限り欠かしたことは一度もない。
それが2人に課せられたルールであるかのように2人は毎朝食べた。
「これじゃお店に出せないよ」
そう言いながらもナオは、フレンチトーストを齧る。
「別に出さないよ」
タケルは、笑みを浮かべ紅茶を飲む。
この会話も朝の常套句となっていた。
ナオは、オニオンスープを啜り、小さなウインナを齧り、トマトを口の中に放り込む。そしてフレンチトーストを手づかみで食べる。
「タケルさあ。ひょっとしてだけど溜まってる?」
タケルは、思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになる。
「朝からなんだ⁉︎」
タケルは、激しく咳き込む。
「だって、溜まってるから集中出来なくて、いつもより苦いんじゃないの?」
何かおかしなこと言ってる?と言った表情でナオは、タケルを見る。
タケルは、何も言わずに頬だけ赤く染めて紅茶を口直す。
それはつまり図星ということだ。
ナオは、勝ち誇ったようにニヤニヤ笑う。
「そういうナオこそどうなんだ?」
「どうって?」
タケルの質問にナオは、首を横に傾げる。
「ここ2、3日起きてくるのがさらに遅いぞ。そっちこそ溜まってるんじゃないか?」
仕返しとばかりにタケルが意地悪く言う。しかし、ナオはあっけらかんと、
「溜まってるよー」
と、そこの醤油取ってとでも言うように返す。
奔放なナオは、こう言う発言にも躊躇いがないので聞いたタケルの方が赤くなる。
タケルはそれ以上何も言えずに草むらをつつくようにサラダを食べた。
「そんじゃさ。今日はお互いにその日にしようか」
そう言うとナオは、スマホを取り出してSNSでメッセージを送る。
「よしOK!」
ナオは、ガッツポーズを取る。
「早いな」
タケルは、感嘆し、舌を巻く。
「善は急げでしょ?」
ナオは、にこっと微笑んで残りのフレンチトーストを食べる。
「タケルも早く誘った方がいいよ。予定入れられる前に」
そう言われてタケルもスマホを取り出す。
「夕飯は?」
スマホを弄りながらタケルは、訊く。
「もちろん食べる」
オニオンスープを啜りながらナオは、答える。
「作り置きでいい?」
タケルは、送信ボタンを押す。
「イェース!」
ナオは、フレンチトーストの最後の一口を食べる。
そうしている間にタケルのスマホにも返事が返ってくる。
タケルは、スマホの返事を確認してテーブルに置き、ナオの方を向く。
「それじゃあ、今日はお互い遅くなるけどご飯はレンジでちゃんと温めて食べるんだよ」
タケルの言葉にナオは、親指を立てて答えた。
そして2人は朝食を食べ終え、身支度すると各々の仕事へと向かう。
2人は、理想の夫婦と呼ばれている。
しかし、肉体関係はなかった。
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