愛してる

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 少しぬるめのシャワーでタケルは、熱った身体を冷ます。  亡くなった祖父の家をリノベーションした時、住居とするつもりはなかったので浴室は外すつもりだったが、今はシャワーだけでも取り付けといて良かったと思う。  身体は、程よい快感に脱力している。   しかし、心はどこか空虚だ。  先程の行為を思い出そうとすると浮かんでくるのはこの場にいない彼女の顔だった。  腰にバスタオルだけ巻いて部屋に戻ると英国紳士は、裸のまま畳に敷いた布団の上に座り、タブレットを真剣に見ていた。  タケルは、そっと彼の隣に座る。 「何を真剣に読んでるの?」  声をかけると英国紳士は、深く笑みを浮かべ、タケルの口にキスをする。間近で見るその顔にら小さな皺が幾つもあるが、あちらの人たちは実年齢よりも大人びて見えるのでそんなに年ではないだろうと思う。  じゃないとあの体力は考えられない。  唇を離し、英国紳士は微笑する。 「仕事ですよ。前も言いませんでしたっけ?私はトレーダーです。こうやって為替のチェックをしてるのですよ」  そう言って折れ線グラフの幾つも入った画面を見せてくるが、正直よく分からない。  家族も友人もナオも勘違いしてるが自分は、そんなに頭は良くないのだ。  あの当時は何かに集中して取り組んでないと心が壊れそうだからガムシャラに取り組んでいくうちに文武両道になっただけだ。  タケルは、彼のことをほとんど知らない。  一年くらい前にふらりっと店に来て、その独特の雰囲気で同じ性癖を抱えていることが分かり、気が付いたら関係を持っていた。  名前も知らなければ住んでるところも、日中は何をしているかもほとんど知らない。  分かるのは彼が外国籍であること。  紳士的な良人であること。  そして身体の相性がとても良いこと。  それだけだ。  それ以上は、申し訳ないが興味もない。  しかし、彼は違うようだ。  彼が自分を見る目は、まさに恋人を見つめるそれだった。 「なので、私は充分に貴方を養うことが出来ます」  英国紳士は、タケルの頬に手を当てる。  少し固い手のひらは、ほんのりと温かい。 「正式に私と付き合って頂けませんか?今以上に満足させることを約束します」  告白する英国紳士の目は、うっすらと震えていた。  それだけで彼の本気が取れる。  正直、心がときめがない訳ではない。  何歳(いくつ)になっても告白されるのは嬉しいものだ。  しかし、ときめいたからと言って心が動く訳ではない。  タケルの心は、10代の時から不動のままなのだ。  タケルは、頬に触れる英国紳士の手を剥がし、彼の膝の上に戻す。 「NO」  自分でも驚くほどに綺麗な発音だった。  その返答に英国紳士は、目を閉じる。  認めたくない思いとやはりという想いが混じりあっているのだろう、苦悩で眉間が寄る。 「貴方とはこれ以上の関係を作ることは出来ない」  タケルは、はっきりとした口調で言う。  英国紳士は、目を開ける。  目の端に涙が小さく溜まる。 「それは彼女のことですか?」  彼女を指すのがナオであることは明白だ。  彼は、一度店に来たナオを見ている。パートの女子大生から彼女のことを聞いて酷く狼狽していたことも覚えている。 「確かに貴方たちは良い夫婦だ。見ているだけでお互いが惹かれあっているのが良く分かる」  英国紳士は、血を吐き捨てるように言う。  タケルは、英国紳士の苦しみを肌で感じ取った。  感じ取った上でタケルは、小さく頷いた。 「オレの人生のパートナーは彼女しかいない」  はっきりと言う。  その言葉に迷いはない。  英国紳士の唇が震える。  膝の上に置いた拳を爪が食い込む程に握り、顔を紅潮させる。 「なぜですか?」  英国紳士は、吐き出すように言う。 「なぜ抱けもしない、口づけもかわせない、触れることすら憚られるのに、なぜそんなことが言えるのです⁉︎そんなものと一緒にいて何が楽しいんですか⁉︎」  英国紳士は、叫ぶ。  何も知らない者からすれば恫喝にすら聞こえてしまう。  タケルの心は、震えた。  しかし、それは恐怖でではない。    そんなもの?    タケルの目に怒りが浮かぶ。  意識するより早くタケルの手が英国紳士の肩を掴み、握りしめる。  英国紳士は、小さい悲鳴を上げる。  タケルは、すぐに我に返り、手を離す。  英国紳士の肩にはうっすらと痣が付いていた。 「すいません」  タケルは、小さな声で謝罪する。  英国紳士の目には痛みと小さな恐れが浮かんでいた。  穏やかで優しいイメージしかなかったタケルの豹変に驚き隠せずにいる。 「・・・確かにオレは、彼女を抱けない。口づけすら気持ち悪くなる。でも、それでもオレは・・・」  その目には、揺らぐことのない真摯なものだった。 「彼女を愛している」  オレンジピールの入っフレンチトーストが無性に食べたかった。  肉欲だけでは抱くことは出来ない。  ナオとMSWは、行為に及ぶ前に必ず酒を飲んだ。  MSWは、別に飲みたくもなく、直ぐにでも始めたかったようだが、ナオは、「ずっと習慣なのよ」と言って誤魔化し、ビールを煽った。  習慣なんて嘘だ。  経験なんてこの子を入れて数人しかいない。しかもみんなそう言う商売の子達ばかり。  素人は彼女が初めてだった。  酒で酩酊するとようやく行為に及ぶことが出来る。  自分から誘っておいて勝手な話しだが、いざしようと思うと彼の顔が浮かんでしまう。  罪悪感が黒い波となって襲い、飲み込まれそうになる。  それを振り払う為に、この時だけは忘れよう、快楽に溺れようと酒で感覚を増幅させるのだ。  彼女との相性はとても良かった。  身体がこんなに馴染むことは滅多にない。  快感に身体と頭が溺れる。  しかし、どんなに快楽に覆われても心の片隅に彼がいる。  彼がじっと見ている。   どんなに激しく行為をしても心までは溺れられない。  行為を終えると、酷い喉の渇きを覚えて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。  そういえばこのホテルのルームサービスって高かったんだっけ?なんて思ったが、まあ仕方ないかと開き直って半分以上飲む。 「ねえ、私にも」  ベッドの中からMSWが気怠そうに言う。  余韻が残っているようでまだ頬が赤い。  ナオは、ベッドの端に座ると飲みかけのペットボトルを渡す。 「口で頂戴」  MSWは、蕩けるような声で甘えてくる。  あまりの可愛らしさにナオは思わず笑みを零す。そしてペットボトルの水を口に含み、そのままMSWの口に付けて流し込む。   MSWは、口の端から水を溢しながらもゆっくりと嚥下する。   その姿がなんとも艶がやって色っぽい。  彼女が自分と同じ性癖を持っていると知ったのはいつだったろうか?特にお互いから打ち明けたことはなかったように思う。自然と野生の動物が独特のフェロモンを出して惹かれ合うように、ホタルが淡い光りを発して呼び合うように自然と身体を求め合い、よがり狂った。  それでもナオの心の片隅には彼がいた。  唐突に彼女はナオの手首を掴む。 「ねえ。やっぱり私たち一緒に暮らさない?」  MSWは、熱のこもった目をナオに向けて言う。 「えっ?」  ナオは、彼女の言っている意味が分からず眉を顰める。  MSWは、艶やかに輝く唇を釣り上げて笑う。 「こんなに相性がいい人初めてなの。私たちきっと最高のパートナーになれるわ」  彼女は、頬を林檎のように紅潮させて告げる。  確かにこれだけの相性の良い相手に出会えることなんて一生のうちに何度あるのだろう。恐らく片手の指を二つか三つ折るくらいかないのかもしれない。  しかし、そうだとしてもナオの返答は決まっている。 「ごめん」  ナオは、手首を握る彼女の手を振り解く。  MSWは、驚いてナオの顔を見る。  その表情に申し訳なく思いながらもナオは口を開く。 「前も言ったけど私、既婚者なの」  ナオが言うとMSWは、なんだそんなことか、と言わんばかりに肩を竦める。 「知ってるわよ。外来の事務のおばちゃん達も貴方の旦那さんのことイケメンとか優しくて素敵とか言ってたわね。それに旦那さんと一緒にいる貴方がとても幸せそうにしているのを見て最高の夫婦とか呼んでたわね。若いお医者さん達も嫉妬してたわ」  MSWは、ぷっと吹き出して笑う。 「仮面夫婦とも知らずにね」  仮面夫婦・・・。  ナオは、MSWが発した言葉を胸中で反芻する。  そうか・・この子はそんな風に思ってたのか。  MSWは、ゆっくりと身体を起こして、ナオの頬に手を伸ばす。 「もう無理なんてしなくていいのよ」  その声は、子どもをあやすように優しくて、背筋に電流が走るほど艶やかであった。  MSWの手がナオの頬に伸びる。 「旦那なんて隠れ蓑を使う必要はないのよ。愛してもいない男なんて捨てちゃいなさい」  ばちんっ!  ナオは、自分の頬に伸びてきたMSWの手を弾く。  MSWは、何が起きたのか分からず呆然とする。  ナオは、無意識に行った自分の行動に驚くもその視線をMSWに向ける。 「愛してるわ」  ナオの口から出たのは濁りのない純粋な声であった。 「彼のことを愛してるの。だから貴方の告白を受け取ることは出来ない」  MSWの顔に絶望が走る。 「何故⁉︎旦那とはやれないんでしょ?」 「そうね。キスも出来ないわ」  ナオは、その時のことを思い出し、胸を抑える。  何度も試したが嫌悪感しか出なかった。  手が触れるだけで肌が粟立つ。  その度に胸が痛くなる。 「そんな相手といる意味があるの?抱けもしないのに、キスも出来ないのに、一緒にいる理由なんてないじゃない!」  MSWは、泣きながら声を荒げる。  愛しい者に捨てられないようしがみつくように。  しかし、そんな彼女の声を聞いて、ナオが思ったのは一つの小さな疑問だった。  理由がない?  この子は、一体何を言っているのだろう? 「愛に理由なんているの?」  それはナオの本当に心から溢れた疑問の言葉だった。  MSWの表情が固まる。  カチンッとMSWの耳にトリガーが外れる音がした。  MSWの様子にナオは、首を傾げる。  次の瞬間、MSWの両手がナオの首に伸びる。  咄嗟のことにナオは、反応出来なかった。  首に強い力が込められてる。  爪が食い込み、喉仏が潰れそう。 「死んで」  ぼそりっとMSWは、呟く。 「私と一緒に死んで」  ナオは、遠ざかる意識の中、タケルの笑顔が浮かぶ。  あーっもう一度食べたかったな。  オレンジピールの入ったフレンチトースト。
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